<子どもたちへ>
今日からクリスマスを待ち望む4週間のアドベントに入ります。今年のアドベントでは、イエス様のお誕生を知らされた人たちの、神様への賛美と礼拝の様子を学んでいきます。トップバッターは誰でしょう?名前の最初の文字はザ、です。思い浮かびますか?その人の名前は…ザカリヤです!あまり聞かない名前ですね。この人はバプテスマのヨハネ、と呼ばれる預言者のお父さんです。どうしてこの人がクリスマスと関係があるのでしょう?一緒に学んでいきましょう。
前回のダビデ王の時代からなんと約千年後のお話です。ここはエルサレムの神殿です。神殿とは神様を礼拝する建物です。この人はザカリヤ。大勢いる祭司の一人で、とても尊敬されている人でした。しかし年をとっても子供がいないことをとても残念に思っていました。
ザカリヤは今、神殿の奥の聖所と呼ばれる部屋で、神様のためにお香をたいています。一生に一度あるかどうかわからない名誉なお仕事です。くじ引きに当たって、ザカリヤはこの役目に当たっているのでした。よい香りに包まれて、ザカリヤはお祈りしました。「神様、私たちみんなの罪をお赦しください。どうぞ昔からの約束の救い主を、早く送ってください。」
すると突然神様の御使いが現れました。「ザカリヤ、怖がることはありません。あなたの願いが聞かれました。奥さんのエリサベツは男の子を産みます。その名をヨハネと付けなさい。その子は人々を神様に立ち返らせます。救い主が来られることを知らせる人になります。」ザカリヤは怖いやら、驚くやら。思わず言ってしまいました。「こんな年寄りに赤ちゃんが生まれるなんて、そんなことがあるのでしょうか?」
み使いは言いました。「私は天使ガブリエルです。私のことばを信じなかったので、あなたは子供が生まれるまで口がきけなくなります。」その時からザカリヤは何も話せなくなってしまいました。しばらくすると、み使いの言った通り赤ちゃんが生まれました。奥さんのエリサベツも大喜びです。赤ちゃんが生まれて8日目、名前を決める日になりました。ザカリヤはみ使いの言った名前を覚えていたので、板に「その子の名はヨハネ」と書きました。とたんにザカリヤはまた話せるようになりました。
ザカリヤは心から神様を賛美しました。「ザカリヤの賛歌」と言われており、その最初の部分が今日のみ言葉です。少し難しいですが、一緒に読んでみましょう。「救いの角」というのはこれから来られる救い主のことです。救い主が「ダビデの家」つまりその子孫から生まれることを信じて賛美しているのです。これは先週学んだ千年前のダビデへの約束の通りですね。ザカリヤは言いました。「生まれたばかりのわが子ヨハネは、この救い主をお迎えする準備をする人になります。」これは実はイエス様のお誕生の約半年前の出来事です。救い主が来られる日が、いよいよ近づいていたのですね。神様のみわざはしっかりと準備されて、実現されていきました。私たちのために用意してくださる恵みにわくわくしませんか?私たちも心から神様を賛美しながらクリスマスを迎えていきましょう。
<祈り>
「神様、ザカリヤはダビデへの約束の通り救い主を備えられたことを、心から賛美しました。わが子ヨハネが救い主をお迎えする用意をする人になることも喜びでした。私たちも神様への賛美にあふれてクリスマスを迎えていけるよう整えてください。御名によってお祈りします。アーメン。」
「ほむべきかな、イスラエルの神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし、
救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。」
ルカの福音書1章68-69節
<適用>
アドベントはイエス様のお誕生を待ち望む時なのに、なぜバプテスマのヨハネの誕生から始まるの?と疑問に思う方がいるかもしれません。しかしヨハネ誕生のエピソードは、言わば救い主到来のファンファーレです。描かれているのは、祭司ザカリヤ夫婦の長年の祈りが聞かれた嬉しいエピソードであります。しかしそれ以上に、神様がその救いのご計画を始動なさったことの現れなのです。
今日はザカリヤへの主の御告げと、彼らの応答を通して学んでいきたいと願います。順に見て参りましょう。
1.ザカリヤ夫婦の祈り
最初にザカリヤとその妻エリサベツに目を留めましょう。1章5節によれば、ザカリヤは祭司で、妻エリサベツは祭司の一族の名門中の名門、モーセの兄アロンの子孫でした。6節によれば「二人とも神の御前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落ち度なく行って」いました。祭司としての誇り高い働き、由緒正しい家系、敬虔な生き方。彼らは一目置かれる存在だったでしょう。
しかし彼らは子供がないまま年をとっていました。子供がないのがさみしい、というレベルの話ではありません。跡継ぎが与えられないのは、何かの罪を犯した結果ではないか、と後ろ指を指されるのが当時の社会だったと言います。ですからエリサベツは24節でこの状態を「私の恥」と言ったのです。ザカリヤ夫婦は子供が与えられるよう、切実に祈っていました。しかし叶わぬまま年を取り、いつしか諦めの境地にいたっていたのでしょう。
喜びの知らせを受けたにも関わらず、ザカリヤはみ使いの言葉をすぐに信じることはできませんでした。高齢の妻が子を産むとは、常識的にあり得ないとの思いが口をついて出てしまったのです。来週学びますが、同じルカ1章のマリヤへの受胎告知において、マリヤが疑うことなく御言葉を信じたのと対照的です。知識や経験、職業などで信仰が高められるわけではないことがわかります。ただ素直な柔らかい心で神に信頼し、信じる者になれたら幸いです。
神様は彼らの切なる祈りに恵みをもってお応えになりました。ザカリヤ夫婦の祈りは主に届いていたのです。同じように、私たちの切なる祈りも神様に届いています。神様の時に、神様の方法でその恵みを示して下さるのを、信仰をもって待ち望もうではありませんか。
2.バプテスマのヨハネの誕生
さて、生まれてくるヨハネについては14~17節に言及されています。ここを一言にまとめるならば、「エリヤの再来のような預言者」になる、ということです。後にイエス様も「この人こそきたるべきエリヤなのです」(マタイ11章14節)と言われました。実はこのことは旧約聖書と新約聖書を繋ぐ非常に重要なポイントです。
一つクイズをお出ししたいと思います。旧約聖書で最後に名前の出てくる人物は誰でしょうか?…お気づきかもしれませんが、それは預言者エリヤです。旧約聖書の最後の章、マラキ書4章5節に記されています。終末の時が来る前に「預言者エリヤ」を遣わす、との預言をもって旧約聖書は閉じられています。その後新約聖書まで約400年間、神の言葉はなく、沈黙の時代が続きました。
そこへ来てのこのヨハネ誕生の御告げです。いよいよ沈黙を破り神様の救いの時が満ち、救い主の道備えをする再来のエリヤとして、バプテスマのヨハネがまず誕生しなくてはならなかったのです。これがクリスマスの前にヨハネの誕生が語られる理由です。
イエス様の母となるマリヤは受胎告知を受けたあと、ザカリヤの家で親戚のエリサベツと3か月の間一緒に暮らしたとあります。胎内のバプテスマのヨハネとイエス様が一緒に暮らしていたと思うと、すごく豪華な顔ぶれですね。そこには当然、ザカリヤの姿もあったでしょう。ザカリヤは救い主とわが子ヨハネについて思いをめぐらしたことでしょう。この時間はザカリヤにとって必要なものでした。無事産み月を迎えてエリサベツが男の子を産み、8日目に割礼と命名をする時になって、ザカリヤは人々に伝えました。63節「彼は書き板をもって来させて、『その子の名はヨハネ』と書いた」あり、ただちに口がきけるようになって神をほめたたえました。
ヨハネ誕生までの沈黙の日々はザカリヤの信仰を整え、救い主到来とわが子ヨハネの使命を深く理解させました。理解する中で与えられたのは神をほめたたえる思いでした。私たちはどうでしょうか?神様の偉大な救いのご計画が進められて、今わたしたちもその中に招かれています。心からの賛美をもって、神様を褒めたたえましょう。
3.ザカリヤの賛歌
ヨハネ誕生の一部始終はユダヤの山地全体に語り伝えられました。詳しくはわかりませんが聖書はヨハネの成長に触れ「主の御手が彼と共にあった」(66節)と記されています。誕生を含めそのすべては驚きをもって受け止められていたのでしょう。
68節からは「ザカリヤの賛歌」(ベネディクトス)と呼ばれる預言的賛歌です。聖霊に満たされたザカリヤはこの賛歌を神に捧げたのです。前半の75節までは、救い主が来られることへの喜びが歌われています。68,69節を読みましょう。「ほむべきかな、イスラエルの神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし、救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。」ここでいう「救いの角」とは救い主イエス様のことです。先週まで学んでいたダビデ王の子孫として、約束と預言の通りに救い主が到来されたことを賛美しているのです。
この救い主がどういうお方かは74,75節に歌われています。救い主は「敵」から救ってくださり敬虔に神様にお仕えする生涯を与えて下さるお方です。その敵とは究極には罪であり、霊的な死であり、そこに引きずり込もうとするサタンであります。私たちに本当に必要な罪からの解放と平安は、この救い主によってのみもたらされるのです。
また、後半の76節以降はバプテスマのヨハネの使命を歌っています。76節には預言者であるヨハネは「主の御前を先立っていき、その道を備え、罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与える」存在だとあります。私たちが救い主を必要とするのは私たちが罪ある存在だからです。神との関係においてはすべての人が罪人であり、悔い改めなければならない。しかし生まれながらの私たちは、自分が罪ある存在だと認めることがなかなか出来ません。その悔い改めを人々に語り掛けるのが、ヨハネの使命でした。聖書における救いとは、常に「罪の赦しによる救い」なのです。気休めや一時的な逃避は人に本当の平安を与えることはありません。神の知恵である救い主イエス・キリストを知る知識こそが、本当に必要なのです。
救い主を示された人は何を得るのでしょうか?78~79節に注目しましょう。「これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」ここに私たちの求めるすべてがあるように思います。神の深いあわれみこそが、光をもたらします。そして暗闇と死から本当の平安に導き入れられるのです。このお方を指し示すのがヨハネであり、示された方を信じてお迎えすることこそ、私たちのなすべきことなのです。ザカリヤはヨハネと救い主イエス様の誕生を目の当たりにして、このことを歌わずにいられなかったのです。
今年のクリスマスを迎えるにあたり、神様のメッセージを受け止めたいと思います。自らと向かい合って悔い改めること、救い主を信じ神の光と平安をいただくこと。このことがあってこそ、クリスマスは輝いたものになるのです。
<祈り>
「神様、アドベント第一週の礼拝をありがとうございます。父ザカリヤへの御告げとバプテスマのヨハネの誕生を学ばせて頂きました。私たちの切なる祈りをお受け下さり、ご計画を確かに実現なさるお方だと示されました。心の内にある思いをあなたに注ぎだして祈って参りますので、どうぞ御心に留め恵みをお与えください。また今年のクリスマス、悔い改めと救い主への信仰を通して私たちの心に光と平安に満たしてください。世の中は不安や不確実性に満ち、今まで以上にそこに生きる人々に救い主到来のよき知らせが必要とされています。私たちを証し人として整え、福音を届けていけるようにどうぞお導きください。御名によってお祈りいたします。アーメン。」