2022年1月1日(土)新年礼拝説教 詩篇34篇1-10節「主を賛美しよう」 説教者:赤松勇二師

「私はあらゆるときに 主をほめたたえる。私の口には いつも主への賛美がある。」 詩篇34篇1節

2020年からコロナ禍となり、多くのアーティストが活動の出来ない時が続きました。しかし徐々に活動を再開する事が出来、人々の心に多くの励ましを与えています。特に「音楽」は、どんな状況の中でも人の生活の中で必要なのだと改めて気づいた人が多くいたのではないでしょうか。私もその一人です。
 そして私は、この2年間クリスチャンとして(牧師として)「賛美」という事について考えさせられました。集まっての集会が減り、礼拝では集まっているけれども賛美の曲目を減らし歌っています。それは、コロナ過での対策としてのものであり、必要な事として捉えています。しかし一方で教会での賛美が減ってしまったという印象があるように感じています。そこで私は、もう一度「賛美」について考え、主を賛美する心、信仰をもって立ち上がり、主の御名をほめたたえて歩みたいと願います。
 ダビデの詩篇から賛美について神様の御心を教えていただきましょう。

Ⅰ:ダビデの告白

 「あらゆる時に賛美する」ことは、ダビデの信仰の告白となりました。ダビデは言います。「私は、あらゆる時に主をほめたたえる。」。「私の口には、いつも、主への賛美がある。」。彼にとって賛美とは、常にあるものでした。ダビデの心には、どんな時でも、絶えず神様への賛美がありました。しかし、ダビデのように、いつも、どんな時でも賛美するということは、私たちにとってとても大変なことです。感謝な時、嬉しい時に賛美することはそんなに難しいことではありません。けれどもそうでない時、私たちにとって賛美は重荷になり、難しいこととなります。ダビデは何故1-3節のように告白できたのでしょうか。私たちは、ダビデだからあたりまえと考えてしまいますが、決してそうではありません。ダビデは、多くの経験を通して主を賛美することを知り、その必要を学んでいったのです。

 この詩篇34篇の背景は、どうだったでしょうか。表題には、「ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい」とあります。詳細は、Ⅰサムエル21:10-15です。詩篇では、アビメレクとなっていますが、それは王の称号で、Ⅰサムエル記にあるアキシュと同一人物です。少し詩篇34篇の背景を学びましょう。ダビデは、ペリシテ人の戦士で大男のゴリヤテを打ち負かしました。そのことでダビデは、サウル王の家来となり、連戦連勝をし、イスラエルの将軍にまでなるのです。けれども彼は、サウル王にねたまれ命を狙われることとなりました。こうしてダビデは、サウル王から逃れ、逃亡生活を送ることとなるのです。その最初の段階で、ダビデが逃亡先として選んだのが、ペリシテ人の領地であるガテのアキシュの所です。敵国なら、サウル王もすぐには手を出すことは出来ないと考えたのでしょう。しかし、ダビデの思うようには話が進みませんでした。ダビデの名声は、本人が驚くほど広まって、ペリシテ人たちは、イスラエルの王サウルではなく、将軍ダビデを恐れていたのです。ガテの人たちは、ダビデがゴリヤテを倒したこと、多くの勝利を収めたことを知っていたのです。ダビデは、イスラエルのスパイとして来ているかもしれないと思われたのです。ダビデへの疑いはそのまま命の危険を意味していました。この危険を察して、ダビデは、アキシュの前で、気が違ったかのようにふるまうのです。これは、一国の将軍であったダビデにとっては屈辱的なことです。ダビデは、そこまでしないと助からない窮地に追い込まれていたのです。しかし、その結果、アキシュには相手にされず、追い出されることとなりました。

 その時のことを振り返りダビデは「私はあらゆる時に主をほめたたえる。」と歌ったのです。この「あらゆる」と訳された言葉は、「その時、その時」という意味があります。ダビデは、その時、その時、その状況の中でいつも主を賛美すると告白したのです。なぜなら、ダビデが主に祈り求めた時、主はダビデを、そしてダビデと共にいた者たちも救い出してくださったからです。
 ダビデは、平和で安全で何も問題が無いから賛美したのではありません。問題だらけで、逃げ道が無いと思われる状況の中で賛美したのです。そこに主の助けと救いが確かにあるからです。主は、求めると答えてくださるお方です。
 新しい一年が始まりました。この一年私たちには、様々な事があるでしょう。そのような中で私たちは、ダビデと同じように、「あらゆる時に」「その時、その時」に「主をほめたたえる」と告白して歩みましょう。

Ⅱ:神は常に近くにおられる

 ダビデは、「あらゆる時に賛美する」と告白しました。それは、神様が、常に近くにおられることを知っていたからです。
 この経験は、ダビデだから出来たことなのでしょうか。主の助けはダビデだけのことだとしたらそうなるでしょう。けれどもダビデは、主を賛美する人生を誰もが送れることを教えています。そのような人生へとダビデは、私たちを招き、主の助けは誰にでも注がれていることを教えています。
 まず、ダビデは、主を恐れることを教えています(11)。主を恐れる生活とは、13-17節のような生活と言えます。偽りを言わず、悪い言葉を口にしないことです。

 ヤコブも「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。(ヤコブ3:9-10)」と教えています。人には、口が一つだけです。神様は、良い事を言う口と悪いことを言う口という二つを作りませんでした。私たちは、口が一つだけ与えられています。神様は、この口をどのように使うべきかを私たちに問いかけておられるのです。
 数年前にあるガソリンスタンドで、ガソリン入りの灯油が販売されてしまったというニュースがありました。灯油に少しでもガソリンが混ざっていると、ストーブが爆発してしまうそうです。そのよう大惨事になることなく、すべて回収できたそうです。どうしてそんなことが起きたのだろうかと不思議に思いました。原因は、タンクローリーの構造にありました。この時使用されたタンクローリーは、ガソリンと灯油などを運搬していました。ガソリンスタンドで、まずガソリンを給油して、それから灯油を給油したそうです。その時係の人が、タンクローリーのガソリンが入っているタンクの口を完全に閉めなかったのです。その結果、灯油にガソリンが混入すると言う事になってしまいました。
 私たちの心もこのタンクローリーと同じです。私たちは、心の内側の思いが言葉になって出てきます。私たちは、神様を賛美する言葉と人を中傷する言葉を同じ口から出すことがあります。神様の御言葉を喜ぶ告白と神様へのつぶやきが同じ口から出て来るのです。ダビデは、自分の口を主への賛美のために用いること、賛美と祝福の言葉を口にするようにと私たちに勧めます。ダビデは、常に神様を近くに感じていたのではないでしょうか。だからダビデは、主を恐れ、神様の恵みを経験したのです。主を恐れる者への祝福は、15-17節です。神様は主を恐れる者の叫びを聞き、救い出してくださるのです。そして神様は、心砕かれた者の近くにいてくださるお方です。主を恐れ、主の前にへりくだり時、私たちは、主の救いを経験することが出来るのです。このことは、ダビデの経験から来る確信の言葉ですが、それはそのまま、私たちへの神様の約束でもあるのです。ダビデの側にいてくださった神様は、私たちの近くにいてくださるのです。ダビデに答えてくださった神様は、私たちにも答えてくださるのです。

 19節は、心引かれる言葉です。確かに正しい人は、悩みが多いでしょう。私たちは、神様に従っていこうとする時に葛藤を経験しています。神様の御心をしっかりと心に留めて歩もうとすると、悩みが増えることになるでしょうか。けれども神様は、いつも私たちの近くにいてくださるのです。ですから、私たちは、あらゆる時に主をほめたたえることが出来るのです。神様を賛美し、主を見上げて歩みましょう。

Ⅲ;主の救いがある

 ダビデは、「あらゆる時に賛美する」と告白しました。それは、その時、その時に神様の救いがあり、そして何よりも神様が罪を赦してくださるからです。
 ある人は、賛美できない時があると言うかもしれません。確かにそのような時があります。私たちは、色々な出来事を通して、傷つき、希望を失ってしまいそうになる時があります。ダビデもそうでした。彼は、羊を飼う厳しさを知っていました。と同時に野原で羊を休ませながら神様に思いを向ける静かな時間も持っていました。またダビデは、人々から尊敬され、称賛される喜びを知っていました。と同時にサウルから妬まれ、命を狙われる恐怖を経験しました。さらには、ダビデは、イスラエルの王として繁栄する名誉を手にしました。と同時に自分の息子の謀反によって王位を追われるという不名誉も経験しました。そしてダビデは、罪に対する神様の裁きと、神様の救いの恵みを知っていました。ダビデほど苦しい経験をした人はいないのではないかと思います。しかしダビデは、順風でも逆風でも常に、神様に目を向け、神様に祈り、近くにいて助けて下さる神様を感じて、主を賛美するのです。いえ、逆風だからこそダビデは、神様を賛美し、神様の臨在を求めたのです。

 なぜならば、「仰ぎ見ると、彼らは輝いた(5)」という約束があるからです。私たちは、主を賛美する時、主の豊な平安で包まれます。主を賛美する時、神様からの喜び、希望を頂くことが出来ます。私たちが、神様を賛美し主を仰ぎ主の助けを求める時、私たちは、神様の光に照らされ、輝くことが出来るのです。この「輝いた」という言葉は、「晴れやかになる」とも訳すことが出来ます。神様は、私たちが恥を見ることがないようにし、私たちの心を晴れやかにしてくださるのです。私たちは、この神様ご自身の素晴らしさを知らなければなりません。ダビデは味わい知れと言います(8)。どれだけ素晴らしい食べ物でも、食べてみなければその美味しさを知ることは出来ません。それと同じように、神様の素晴らしさは、私たちが神様に信頼し、神様のみわざに信仰をもって注目しないと決して分からないのです。

 私たちは、躓きそうになった時、信仰が弱ってしまう時、問題を経験する時、1節の御言葉を声に出して読みましょう。そして神様を賛美し、主の助けを求めて祈りましょう。その時私たちは、ダビデと同じように主の守りと助け、神様の素晴らしさを知ることが出来ます。主の救いと恵みを知ることが出来るのです。私たちは、あらゆる時に主をほめたたえ、賛美して歩んでいきましょう。皆さん一人一人の今年一年間の歩みの中に神様の素晴らしい祝福がありますようにと祈ります。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。2021年が神様の御手によって支えられたことを感謝致します。そして2022年を神様の祝福と守りの中で迎らえたことを感謝致します。まだまだコロナ過が続いています。この先どのようになるのか私たちには不透明な状況ですが、いつでも神様を見上げて、賛美して歩ませてください。新しく始まった一年、これから様々な事があるでしょう。そのような中で私たちがいつも主を見上げ、主を賛美して信仰をもって歩むことが出来るように助け導いてください。
 一人一人の上に神様の恵みがありますように。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」