2022年1月2日(日)礼拝説教 マタイの福音書18章21-35節「赦し合う心」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 「まじ、もう無理!」と友だちと喧嘩をしてしまい、言い合いになって勢いで「もう、大っ嫌い!友だちなんかじゃない」と言ってしまったことあるでしょうか。言われてしまったことがあるかもしれませんね。一度そうなってしまうと友だちとの関係の修復には時間がかかります。僕たちは、喧嘩をしても仲直りすることが必要だと思うのだけど、すぐに相手を赦せないものですね。

 ある時イエス様の弟子のペテロが、イエス様に「イエス様、兄弟が自分に対して嫌な事をしたばあい、何回まで赦すべきでしょうか。7回まででしょうか?」と質問しました。皆なら何回まで赦す事が出来ますか?ペテロの言う7回までと言うのは、相当寛容な感じがしますよね。周りの弟子たちも「7回まで赦せる?」と思ったかも知れません。
 イエス様は、なんと答えたでしょうか。イエス様は、「7回を70倍するまでです」と答えたのです。単純計算をして「490回」です。でもこれは、何回までかという回数の問題ではなく、無制限に赦しなさいという事なのです。「無制限」になど無理なことと思うかもしれません。けれど神様がどのように僕たちとかかわってくださるのかを知ることで、その意味を理解することが出来ます。そこで、イエス様は具体的なたとえ話をして説明してくださいました。

 ある人が、王様から多額の借金をしていました。その額は1万タラントです。王様は、しもべにこの1万タラントをすぐに返すようにと求めたのです。「1タラント」は、「6000デナリ」で、「1デナリ」は、一日分の給料に相当します。ちょっと分かりづらいですね。僕たちの今の金額に言い直してみましょう。基本的な金額は、1日の給料となります。計算しやすいように1日分を1万円としたら、「1デナリ」は、1万円ということになります。「1タラント」は、「6000デナリ」ですから、6000日分の給料で、6000万円となります。1万タラントは、1タラント(6000デナリ)の1万倍ですから、6000万円の1万倍となります。何年分かと言うと、約16万年分の収入という事になります。僕たちの想像をはるかに超える金額になってしまいました。こんな多額の借金を返すことなど到底無理な話です。しもべは、すぐに返す事など出来ませんから、ひれ伏して、頭を地面にこすりつけて「もう少し待ってください」と懇願しました。もう少し待っても返済など無理ですから、王様は、しもべをかわいそうに思い、返済を延期するどころか、なんと多額の借金を全部帳消しにしてくれたのです。こうしてしもべは、王様の大きな深い憐れみによって赦されました。
 歓びながら帰るしもべですが、その帰り道のことです。王様に借金を赦してもらったしもべが、百デナリ貸している別のしもべ仲間に出会いました。するとその人は、仲間に返済を求めました。「お前が百デナリ返していれば、王様にそれだけ返済できたんだぞ!」とでも言ったでしょうか。百デナリ借りのある人は、すぐに返済できないので待ってほしいと求めました。でも彼は、同僚を赦すことが出来ず、返済が終るまで牢に投げ入れてしまったのです。百デナリとは、1万タラントの60万分の一になります。王様に1万タラントの借金を赦されたしもべは、その60万分の1を貸していたしもべ仲間を赦す事が出来なかったのです。
 この詳細を聞いた王様は、とても悲しみ、しもべを呼び出しまして、「私が、お前の借金を帳消しにしてやったように、お前も仲間の借金を帳消しにするべきだったのではないのか」と言い、しもべを返済が終わるまで牢獄に引き渡したのです。

 イエス様は、イエス様が僕たちを赦してくださるように、僕たちも赦し合うようにと教えておられるのです。イエス様は、僕たちのことを憐れみ、僕たちが罪を悔改めるなら、全ての罪を赦してくださいます。僕たちは、イエス様の赦しを受取り、他の人に対しても憐れみを忘れず、赦す心をもちましょう。今週の御言葉を一緒に読みましょう。この一年、皆の心がイエス様の愛に満たされ、憐れみと赦す心を持つことができ、友だちとの関係が良いものとなるように祈ります。

祈り
「愛する天の父なる神様、イエス様が教えてくださったように、人を赦す心を与えてください。イエス様が憐れんでくださったように僕たちも憐みの心、優しい心でいられるように助けてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

<適用>

「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」
                                       エペソ人への手紙4章32節

 日本には、「仏の顔も三度」という諺があります。どんなに温和な人でも嫌な事を三度されれば怒り出す、と言う意味です。そして三度目か四度目には、「堪忍袋の緒が切れた」という感じでしょうか。私の経験上も、小学生の時授業中に担任を困らせて、1度目は笑って受け流してくれましたが、3度目くらいには怒られるという事がありました。
 今日は、「赦し合う心」と言う題でマタイの福音書を見て行きます。私たちは、人を赦すことについては難しさを覚えるものです。神様は、そのような私たちの現実を知っているので、聖書を通して何回も「神様の愛」や「神様の赦し、憐れみ」について教えているのです。私たちは、「赦す事」について神様によって教えられ続けなければ、身に着けることが出来ないのです。イエス様の声に耳を傾けましょう。

Ⅰ;無制限に赦す

 私たちは、「赦し合う心」をもって「無制限」に赦すことが求められています。ペテロは、「何度まで」と質問しました。ペテロの提示した「7回まで」というのは、赦しについて制限を設ける事となります。ペテロが「7回まで」と言った意味は、「7度までは赦せるけど、それ以上は赦さなくても良いですよね」ということです。ユダヤ人の教えの中に3度までは赦すようにというものがありましたから、「7度まで」というのは相当寛容な心を意味しています。ペテロは、このようにして自分の寛大さを示したかったのかもしれません。

 ペテロが「何度まで赦すべきか」という質問をしたのは、18章15節以降のイエス様の教えを受けています。イエス様は、兄弟が罪を犯した場合に、どのように対応するべきなのかを教えられました。その対応の根底には、兄弟に対して「愛と赦しの心」を持つようにと言うことがあります。その流れでイエス様は「二人でも三人でもわたしの名において集まるところには、わたしもその中にいるのです。(マタイ18:19‐20)」と言われたのです。これは、二人三人集まって祈るならイエス様は、その祈りを聞いてい下さると言う約束の言葉です。その直接的な意味は、罪を犯した兄弟のための祈りです。イエス様は、私たちの執り成しの祈りを聞いて、答えてくださるのです。イエス様は、兄弟が罪を犯した場合、その兄弟が忠告を聞き入れる(悔い改める)なら赦しなさいと言われたのです。そしてこの和解の祈りを神様が聞いてくださり、罪を赦してくださるということです。しかしそれは、罪のための祈りだけに限定されることではなく、イエス様は私たちが心を合わせて信仰をもって祈る時、その祈りを聞いてくださるのです。

 とにかくペテロは、「兄弟が罪を犯した場合」というイエス様のたとえ話を聞いていて、「何回まで」と気になったのでしょう。ここで言う「兄弟」と言うのは、身近な人と言う意味合いがあるでしょうから、弟子仲間で気になる人がいたのでしょうか。身近な人ほど赦すのに困難を覚えるものです。イエス様は、7回を70倍するまでと言われました。これは、回数の問題ではなく、人を赦す事をいちいち数えるのではなく、制限を設けるべきではないという事です。
 ペテロが発した「どれくらい赦すべきか」という質問は、私たちが直面する問題でもあるように思います。何回までという条件は持たなくても、心のどこかで赦すための条件を持っているのだと思います。私たちが他の人を赦すための条件となりやすいのは、「自分の気に入る謝罪をすること」「相手が自分の要望を受け入れること」「自分の出す償いをすること」などです。これらのことは、相手の悔改めには関心を寄せず、自分の思いが満たされるかどうかという条件となりやすいのです。イエス様が言われたのは、赦す回数という条件だけではなく、あらゆる条件を付けないようにと言うことではないでしょうか。それが無制限に赦すという事です。
 でもそれは、可能なのでしょうか。

Ⅱ;実践することが求められている

 私たちは、「赦し合う心」をもって無制限に赦すことを実践することが求められています。でも私たちは、「そんなことは無理なことだ」と言いたい思いがあるでしょう。ペテロも「7回を70倍するまで」と言われて、「それは、無理な相談だ」と思ったでしょう。そこでイエス様は、先ほど触れたように一つのたとえをお話しになりました。

 イエス様のたとえに出てくる王は、神様ご自身のこと、そしてしもべは、私たちです。1万タラントの借金は、到底返済することが出来ず、赦されるはずもない借金です。それを王は、全額免除し、赦したのです。それと同じことが私たちに当てはまるのです。イエス様が、「1万タラント」というあり得ない金額を出したのは、神様が私たちに対してもあり得ないほどの憐れみを示してくださっていることを教えるためでした。私たち人間の罪は、神様の御前にどうすることも出来ないほど大きなものなのです。そして私たちは、その罪ゆえに永遠の裁きに定められています。私たちは、正しい人間になろうとしても神様の完全さには決して到達できません。神様の前に罪を償おうとしても、もともと罪人ですから何を差し出すことが出来るのでしょうか。この世の知識や知恵には、人間的な限界がありますから私たちを完全に聖く罪のない者とすることは出来ません。私たちは、誰一人として罪に対する解決策を持っていないのです。だから私たちに残された方法は、神様の御前にひれ伏して憐れみを求めるだけなのです。
 主なる神様は、このような私たち人間の現実を知っていて、御子イエス様をこの地上に送ってくださいました。イエス様は、完全な神であり、完全な人間として、罪のない生涯を送りました。そしてイエス様は、私たちのすべての罪を背負い、身代わりに神様の裁きを受けてくださいました。それが、イエス様の十字架です。神様は、イエス様の十字架の犠牲によって罪が赦される道を開いてくださいました。神様は、イエス様の十字架による救いを信じる全ての者の罪を全部、ひとつ残らず帳消しにしてくださるのです。私たちは、これほどの大きな、無制限の憐れみを受けているのです。

 イエス様のたとえ話は続きます。王は、借りのあったしもべに「あわれみを受けたように、お前もあわれみを示すべきだった」と言います。イエス様は、私たちが神様から愛され、憐れみを受けていることを決して忘れることがないようにと教えているのです。このイエス様の教えは、罪を見過ごせと言っているわけではありません。罪は罪として扱う必要があります。けれども、その人が神様の前に罪を悔い改めることが出来るように祈る事です。そして悔い改めたなら、神様が赦してくださるように、私たちも赦すことが大切なのです。重要なことは、私たちが神様の愛に満たされ、神様の憐れみに感謝し、救いの恵みに感動して、赦し合うこと心を持つことが出来るかどうかです。私たちは、多額の借金を赦されたしもべのように自分の事に関しては、憐れみを受けたことを喜び感謝します。しかし、他人に対しては、自分が受けた憐れみを忘れて、大した事ではなくでも厳しくしてしまうものです。だからイエス様は、主の祈りの中で「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」と祈るようにと教えられたのです。35節の言葉も同じ意味合いを示しています。これは、「神様は、私たちが人を赦すから、私たちの罪を赦してくださる」と理解できるような表現です。けれども決してそうではなく、私たちは、神様に罪赦された者として赦す心を持つことが教えられているのです。私たちは、ただただ神様の愛と憐れみによって一方的に赦され、罪が帳消しにされ、救いを受けました。だから罪赦された者として神様の愛とあわれみを基準として、どこまでも赦し合うようにということです。

 そしてこの信仰は、神様と私という関係においても大切なことです。私たちは、「自分は、神様の一方的な愛で愛され、神様の大きな憐れみを受け、赦されている」と言う確信に立つことが必要です。その時私たちは、どれほど神様に愛され、憐れみを受け、多くの罪を赦されたかを知ることになるでしょう。パウロは、エペソ4章32節で「神もキリストにおいてあなたがたをゆるしてくださった。」だから赦し合いなさいと教えています。
 さて、私たちは身の回りの人たちに対して、どのような心を示すことが出来るでしょうか。私たちは、イエス様の愛と憐れみを感謝し忘れる事のないようにしましょう。そして、イエス様の教えを私たちの生活の中で実践するために、「赦し合う心」を与えて頂きましょう。2022年が赦し合う心をもって歩めるようにお互いのために祈っていきましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、言い尽くす事の出来ないほどの神様からの憐れみを受け、罪の赦しが与えられていることを感謝します。神様、私の心に「赦し合う心」を与えてください。私たちが、神様に多くを赦された者として愛の心を持つことが出来るように導いてください。神様に愛されている者として、人を愛する心をもって歩めるように助けてください。そうして、神様の憐れみを忘れることなく、「赦し合う」ことが出来るように導いてください。
 一人一人の2022年の歩みが、神様の恵みと祝福に溢れたものとなりますようにとお願い致します。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」