2022年1月9日(日)礼拝説教 ルカの福音書10章25-37節 「隣人を愛する」

<子どもたちへ>赤松由里子師

 今年の聖書の学びは、新約聖書のイエス様のたとえ話からスタートです。先週は、ゆるされた者として他の人をゆるすことの大切さを学びました。今日は、神様を愛し周りの人を愛していくことの大切さを教えて下さったお話です。イエス様のお話に耳を傾けていきましょう。

 ある聖書に詳しい律法の専門家が、イエス様のところに質問に来ました。それは素直な気持ちでなく、イエス様を試してやろうという意地悪な気持ちでの質問でした。
「先生、永遠のいのちはどうすれば手に入りますか?」イエス様は逆に質問されました。「聖書になんと書いてありますか?あなたはどう思いますか?」その人は言いました。「神様を愛し、隣人を愛しなさい、と書いてあります。」するとイエス様は答えました。「その通りですよ。それを実行しなさい。」するとその人は「隣人?…それは誰のことですか?」
 そこでイエス様はたとえ話を話し始めました。「ある人が旅の途中で強盗に襲われてしまいました。服をはぎ取られ、殴られて半殺しのまま置いて行かれてしまいました。そこへ3人の人が通りかかりました。
1人目は神殿の祭司です。いつも神様にお祈りしたりいけにえをささげたり、立派なお仕事をしています。ところがけが人を見ると、反対側を通りすぎて行ってしまいました。
2人目はレビ人です。この人も、神殿で礼拝の場所や道具を整えるお仕事をしています。家族も親戚もみんな神殿のお仕事なので、神様のこともよくわかっているはずです。この人はどうしたでしょう?やっぱり反対側を通りすぎて行ってしまいました。
3人目はサマリヤ人です。サマリヤ人はユダヤ人と外国人の混血で、純粋なユダヤ人ではありません。そのためユダヤ人とは仲が悪くて、つきあいをしていなかったのです。でも…サマリヤ人はけが人を見るとかわいそうに思って近寄り、傷の手当てを始めました。「もしもし、大丈夫ですか?さあ水ですよ、飲みましょう。」そして傷に包帯をし、自分のロバにのせて宿屋に連れて行き、一晩中看病したのです。次の日の朝、まだ具合の悪そうな人を見て、サマリヤ人は宿屋の主人に言いました。「お金を置いていきますからこの人の看病をしてあげてください。私は用事をすませて帰りにまた立ち寄ります。お金が足りなければ私が払います。」

イエス様はここまで話すと質問されました。「この中で誰が隣人になったと思いますか?」質問した人は言いました。「けが人をかわいそうに思って行動した人です。」するとイエス様はおっしゃいました。「あなたも行ってそのようにしなさい。」
あの人にだけ、この人にだけなら親切にできるよ、というのが元々の私たちです。立派なお仕事をしている祭司やレビ人でも、あわれみの心を閉ざしてしまいました。でもイエス様は、助けを必要としている人に寄り添って行くことが大切だと教えています。愛によって心を動かされたサマリヤ人を、イエス様は私たちに示されました。きっとユダヤ人からは馬鹿にされ嫌われていたであろうサマリヤ人。でもイエス様は、周りの人に対して愛を示すサマリヤ人の行動を、祭司やレビ人よりも天国にふさわしいものとして示されたのです。自分だったらどうしてもらいたいだろうか?神様はどんな行動を望んでおられるだろうか?神様から導きと愛をいただいて、よきサマリヤ人のように行動できるよう助けて頂きたいと思います。お祈りしましょう。

<祈り>
「神様、イエス様の教えを感謝します。立派なお仕事やたくさんの知識よりも、愛のある行動をとることが神様に喜ばれるのだと教えて頂きました。もともとの自分の中には十分な愛がありませんが、どうぞ愛を与えて下さり、よい隣人になれるよう導いてください。御名によってお祈りいたします。アーメン。」

<適用>赤松勇二師

「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』…『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』」                    ルカの福音書10章27節

 今多くの人は、車を運転する時カーナビを使っています。私もその一人です。カーナビでは、目的地を設定すると行く道を案内してくれます。ですから初めての道でも安心して車の運転をすることが出来ます。カーナビが案内してくれるものだから安心しきって、「自分は大丈夫」と思い込み、勢い余って道を間違える事があります。カーナビを見ているつもりで、一本手間で曲がってしまったり、逆に行き過ぎてしまったり、と色々です。そんなのは私だけでしょうか。カーナビをしっかり見ているようで見ていないとそうなるのです。
 私たちは、聖書の御言葉を知っているようで知らないと言うことがありませんか。私たちは、聖書の御言葉を神様の願うように理解しているのでしょうか。
 私たちはイエス様が教えてくださったことをもう一度心に刻みましょう。

Ⅰ;神様の御心です

 「隣人を愛する」それは、神様の御心です。ある時、一人の律法の専門家が立ち上がり、「何をしたら永遠のいのちを得ることが出来るでしょうか。」と質問します。この人は、イエス様の教えを聞きたい、教えていただきたいと思っていたわけではありません。ユダヤ人の祭司長や律法学者たちは、イエス様の言葉尻をとえて、イエス様を不利な立場に追い込もうとして様々な質問をしていました。ここに出て来る「律法の専門家」も、イエス様の言葉尻をとえるため、もしくは、イエス様がどれほどの人物かその知恵をためすために質問したのです。イエス様は、そのような彼の心を知り、「律法(聖書)には、なんと書いてありますか。」と逆に質問を返しました。この律法の専門家は、専門家として的確に律法をまとめました。これはイエス様も教えておられたことですから(マタイ22:36-40)、的を射た答えです。27節をご一緒に読みましょう。彼の答えは、旧約聖書で神様がイスラエルの民に教えている大切なことです。

 まず、「主を愛する」事については、申命記6章5節で「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と教えられています。隣人を愛する事については、レビ記19章18節で「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたは隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。」と教えられています。律法の専門家は、この二つの御言葉から即座に自信を持って堂々と答えました。イエス様は、彼に「それを実行しなさい」と言われました。すると律法の専門家は、「隣人とは、誰ですか」と質問します。このように質問するのは、自分はすでにこれを実行しているという自負があったからです。彼は、イエス様を試すことを目的に話をしています。という事は、彼は「そんなことは自明の理で、誰でも実行している。当然自分も完璧に実行できている。イエスは、たいしたことはないなぁ」と思っていたのではないでしょうか。ですから、「自分の正しさを示そうとして」と書かれてあるのです。しかしこの「隣人とは誰ですか」と言う質問をすることが、律法の専門家の問題でした。

 皆さんは、クリスチャンになり聖書を何回か読んできているでしょう。毎週日曜日に礼拝での説教を聞いて来ました。神様が、聖書のを通して教えておられること、神様が私たちに願っておられることはある程度知っていることでしょう。今日の「良いサマリヤ人」のたとえ話も良く知っていることでしょう。けれども「知っている事」と「実行すること」は別な事です。私たちは、聖書の御言葉をどのように知っているのでしょうか。

Ⅱ;ひとつのたとえ

 イエス様は、律法の専門家の質問に対して、「隣人を愛する」ことについて、一つのたとえをお話になりました。ある人がエルサレムからエリコに向かって行きました。エルサレムは、標高約700mで、エリコの標高は約マイナス250mほどあります。エルサレムとエリコの標高差は、約1000mほどです。その道は、丁度谷間のような険しい道となります。ですからよく強盗事件が発生しまいした。イエス様のたとえの話ですが、聞いていた人たちは、強盗に襲われ半殺しにされたという情景を想像することが出来たでしょう。

 そこに一人の祭司が通りかかりました。強盗に襲われたのは当然ユダヤ人です。祭司は同胞が痛めつけられているのを見ましたが、そのまま見捨てて逃げてしまいました。レビ人も同じようにして通りすぎてしまいました。祭司もレビ人も神殿で神様に仕える人で、律法を実行して模範を示す立場にあります。しかし彼らは、その立場から汚れを受けないようにしたのでしょう。もし、律法で言う汚れを受けたとしたら、神殿での奉仕をすることが出来なくなるからです。祭司やレビ人は、律法を知っていてもそれを実行することはありませんでした。これは、「隣人とは誰ですか」と質問した律法の専門家には挑戦的な内容ですが、イエス様は実際の彼らの様子を取り上げていると見られます。

 するとそこに、サマリヤ人が通りかかりました。イエス様の時代、サマリヤ人とユダヤ人は、かかわりを持っていませんでした。ユダヤ人とサマリヤ人は、同じ民族でした。けれどもサマリヤ人は、旧約の捕囚の時代に異民族との結婚によりイスラエル民族としての純粋さを失ってしまったのです。イスラエルの純血を守ったユダヤ人は、そのようなサマリヤ人とは関係を断ち切っていたのです。誰が見てもサマリヤ人がユダヤ人に手を差し伸べることなど考えられないのです。が、イエス様はサマリヤ人が強盗に襲われた人に駆け寄り、介抱してあげたといいます。それも宿屋にお金を払ってお願いし、足りなければ帰りに払うとまで言うのです。

Ⅲ;隣人となること

 「隣人を愛する」という事は、「隣人となる」という事です。イエス様は、強盗に襲われた人の「隣人になったのは誰か」を問いました。律法の専門家は憐れみをかけてやった人だと答えました。
 律法の専門家の質問とイエス様のたとえのメッセージの違いはどこにあるでしょうか。その違いは「隣人とは誰ですか」と「隣人になったのは誰ですか」です。律法の専門家は、「隣人とは誰ですか」と質問しました。これが彼の問題です。彼は「自分の正しさを示そうとした」わけですから、すでに答えを持っていたのです。彼は自分の家族、自分の同胞を隣人と考えていました。それが彼の隣人の条件だったのです。「自分の隣人とは誰だろうか」という質問は、隣人に条件を持ちます。その条件とは、「自分の家族、自分の友達だから、隣人」「自分に親切にしてくれるから隣人」という条件です。その反対の条件は、「自分と違う民族だから、自分とは意見が違うから、知らない人だから、隣人ではない」という事です。
 これに対してイエス様は、「隣人になったのは誰ですか」と言いました。これは、人を見て判断するのではなく、積極的に隣人になることを教えているのです。

サマリヤ人は、ユダヤ人と交わりを持っていませんでした。というよりは、ユダヤ人のほうが嫌っていたと言えるでしょう。ですからもしサマリヤ人が、ユダヤ人を助けなくても「それはそうだよね。だってユダヤ人とサマリヤ人だから」と受け入れられたことでしょう。ユダヤ人にとって、サマリヤ人が隣人など考えもつかないことなのです。けれどサマリヤ人は、民族の問題など関係なく、「かわいそうに思い」傷ついているユダヤ人の隣人になったのです。イエス様は、誰が自分の隣人だろうか、隣人とはどういう人だろうかと条件を作ることを止めて、「あなたも行って、同じようにしなさい」と言われるのです(37)。

 私たちは、「隣人となる」ことの難しさを知っています。私たちは、テレビドラマなどで、他の人の状況を見て見ぬふりをするという設定で話が進むのを見る事があります。それは、ドラマや映画だからではなく、実は、実際の私たち一人一人の心を表現しているのではないでしょうか。だから、ドラマの登場人物が困っている人に手を差し伸べる時に、相当な勇気を必要とするような描かれ方をするのです。皆さんは、いかがでしょうか。
 私たちが、「隣人となり、隣人を愛する」ために必要な事は、イエス様に目を向ける事です。イエス様は、私たちを友と呼び、積極的に私たちの隣人となってくださったのです。私たちは、礼拝で「イエスが愛したように」と賛美をしています。私たちは、イエス様が私たちを愛してくださったように、人を愛することが出来るのです。私たちへのイエス様の愛は、広く大きく深いのです。このイエス様の愛に満たされた時はじめて私たちは、「隣人になる」ことが出来るのです。
 私たちは、心から神様を愛して、心から隣人となり、神様の愛を示し、隣人を愛する歩みをしていきましょう。皆さんから、神様の愛が広がって行きますように。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、愛の欠けたものです。どうか神様の愛で満たしてください。神様の恵みで満たしてください。イエス様が私たちの隣人となり私たちを愛してくださったその愛で満たしてください。私たちが、隣人となって神様の愛の実を結ぶ事が出来るように助け導いてください。
 まだまだ、寒い日が続きます。一人一人の健康を守り、生活を支え、祝福を注いでください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」