2022年1月16日(日)礼拝説教 ルカの福音書15章11-24節 「帰って来た放蕩息子」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 学校でのこと、「今日の2時間目は自習です。」と言われたら、皆はどうしますか?「自習」と「自由」と聞き間違えて、大喜びするでしょうか?それとも「自習」としっかりと受けとめて冷静に自分なりの勉強をするでしょうか?僕は、「自由!」と積極的に聞き間違えるタイプでした。でも「自習」というのは、「自由に何でもしていい」というのではなく、自分で静かに勉強するということですよね。それが先生の願いでもあります。
 イエス様は、一つのお話しを通して、神様が僕たちに持っている願いを教えてくださいました。今日もイエス様がお話しから学びましょう。

ある人に2人の息子がいました。ある時弟息子が、父親にとんでもないことを話し出しましたよ。なんと弟息子は、「お父さん、お父さんが亡くなった時に僕がもらえるはずの財産を今のうちに下さい。」と言うのです。財産というは、親の死後受け取るものです。親が生きているうちに与えことは出来るけど、父親としてはいい気持ちはしないよね。普通ならあまりしないことだからです。しかも、親からの話ではなく、弟息子からのわがままなお願いですから。お父さんは、寂しかったことでしょう。
 この時父親は、どう思ったでしょうかね。すごく考えたと思うけど、父親は、兄と弟に財産を分け与えたのです。弟は、自分が受け取るべき財産を受け取ると、すぐに荷物をまとめて家を飛び出して行きました。「やったー。これで好きな所に行ける。大きな家に住んで、毎日好きなものを食べて、好きな事をして生きていける。自由だ!!」こうして弟息子は、父親の気持ちなど考えもせず、無計画に財産を湯水のように使い果たしてしまいました。弟息子は、ある意味で自由を手に入れました。それも財産(お金)のあるうちは良かったのです。しかし一文無しになった時に、その自由が偽物の自由だったことに気づいたのです。
 さらに追い討ちをかけるように、その地域を飢饉が襲いました。「飢饉」とは、作物が取れなくて、食べるものがなくなってしまうことです。何の準備のない弟息子は、慌てましたが、誰も彼を助けようとしません。弟息子が、財産を湯水のように使っている時は、沢山の人が集まってきました。でもお金がなくなると、誰も近寄って来くることなく、誰も助けてくれませんでした。やっと手に入れた仕事は、豚の世話でした。ユダヤ人にとっては、豚は汚れた動物で、その世話をすることなど考えられないこと、屈辱的なことなのです(レビ11:7)。仕事があっても食べ物がありません。「あー、お腹すいたなぁ。喉も乾いたなぁ。自分がこんなに貧しいのに、豚は餌を食べているなぁ。あの豚のエサは美味しいのだろうか。」弟息子は、そんなことを考えながら豚を眺めているだけで、誰も食べ物をくれません。

 この時です。弟息子は、我に帰り、自分の過ちに気が付きました。そして彼は悔い改めて、「お父さんの家に帰ろう」と決心するのです(17-19)。「家に帰って、お父さんになんて言おうか?どんな顔で帰ればいいのだろうか。きっとお父さんは怒っているだろうし、家に入れてもらえないかもしれないなぁ」弟息子は、お父さんに謝る言葉を色々考えて「もう息子と呼ばれる資格はない。雇人になるから家に入れてもらおう」と決心して、家に向かって歩き出しました。
 弟息子が、家の近くに近づいて来た時、父親は、遠くにいる息子を見つけることが出来ました。その姿は、家を飛び出していった時のものとは全く違うものとなっています。何日もお風呂に入れず、洋服も着替えることが出来なかったでしょう。見るからにボロボロの状態です。父親は、ボロボロになった息子の姿を遠くに見るや、急いで走って行って、抱きしめ口付けして迎え入れました。父親は、弟息子が帰って来たことを喜んで、歓迎会を開きました。父親にしてみれば、どんな状態であっても、息子は息子、大切な愛すべき存在だったのです。

 神様は、皆ことを同じように見ていてくださいます。神様は、みんな一人一人の事を大切な、愛すべき存在として見ています。皆は、神様に愛されていて、「You Are Special(ユー・アー・スペシャル)と賛美したように、神様は、「あなたは大切ば特別な人」と言ってくださっています。神様の愛を信じて、祈りながら歩んでいきましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、今日、礼拝に集う事が出来たことを感謝します。神様が僕たち一人一人の事を愛してくださることをありがとうございます。神様を信じて歩みます。どうか神様の御手に守って導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

    「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、
                        神の御使いたちの前に喜びがあるのです。
                                 ルカの福音書15章10節

<適用>

 以前、知り合いの会社を訪ねた時のことです。その会社では、「パーティー」という言葉を使うのが好きな人が多くいました。昼食の時間になって皆でお昼を食べに出かけた時です。当然今日は何を食べようかと言う話になります。ある人が「今日は、ハンバーグパーティーにしよう」と言い出しました。すると皆、「それはいいね。」と言い出しました。私は、「????」です。すると「この間は、うどんパーティーだったから」と言われました。さらに「何で??」と疑問が続いたのを覚えています。「パーティー」とつくお昼でしたから、楽しい一時を過ごすことが出来ました。
 皆さん、神様は私たちのことを喜んで迎え入れてくださり、天の国では私たちのことで喜びが沸き起こる、まさにパーティーのような感じになるのです。今日はそのことを見ることにしましょう。

Ⅰ;離れて行った息子

 「帰って来た放蕩息子」それは、離れて行った息子でもあります。先ほど話したように、弟息子は、お父さんに財産を分けてくださいとお願いしました。「生前贈与」は、認められていたとはいえ、息子からの要請ですから、父親としてはいい気持ちはしません。
 皆さんは、財産を分けてくださいと言われた父親の気持ち、財産を与えられた弟息子の気持ちをどのように考えるでしょうか。私たちは、聖書を読んでいく時に、通り一遍に読むのではなく、その登場人物の立場になって、その人が、どのように感じ、どのように考え、神様がどのようにかかわっておられるのかを想像し思い巡らすことが大切です。父親は、とってもがっかりしたでしょうし、傷ついたと思います。そして「お金さえあれば何でも出来る」と考える息子を目の前にして、「そんな風に教えた覚えはないのになぁ」と思った事でしょう。弟息子は、父親の気持ちを考えることが出来ない人でした。彼は、自分の欲望だけを優先し、自己中心になり、自分の自由だけを求めたのです。「親の心、子知らず」とはこのことです。

 しかし人は、この弟息子の姿とそれほど変わらない部分をもっています。イエス様が教えていることは、弟息子の姿は神様から離れている私たちの姿であるということです。弟息子が父親の気持ちを考えていなかったように、私たちも父なる神様の気持ちを考えようともしないのです。人は、神様から離れて自由に生きていると思っています。けれどもその結果は、罪に縛られ、何も生み出さない暗闇に支配されていることになってしまいます。そしてたいていの場合人は、この自分の空しさに気づいています。けれども多くの人は、自分の心の空しさを隠し、様々な事でごまかし、打ち消そうとします。ある人はギャンブルに走り、ある人はお酒に、ある人は贅沢にすることに心を向けて行きます。その行きつく先は、身も心もボロボロになるのです。

 実は、兄息子も「親の心、子知らず」の状態だったのです。兄息子は、弟が帰って来た時に受け入れることが出来ませんでした。それは、「自分は、あんな自己中心ではない。自分は、弟よりましな人生を歩んできたし、父親の言う事にも従って来た」という自負心からでした。しかしこれもある意味で自己中心なのです(29-30)。そして兄は、父親の愛情に気づこうともせず、弟への父の愛情に不満を持つのです。その意味で兄息子もまた、父の愛から離れた状態であったと言えるでしょう。
 私たちの心は、今、どのような状況でしょうか。冷静に見つめなおし、私たちを造り、愛しておられる神様の言葉に耳を傾けるべきではないでしょうか。

Ⅱ;自分の姿を知る

 帰って来た放蕩息子は、放蕩の末に自分の姿を知ることとなりました。弟息子は、湯水のように財産を使い果たしてしまいました。きっと弟息子は、人もうらやむような生活をしていたことでしょう。その時は、大勢の人が集まって来ていました。私たちは、大勢の人に囲まれてチヤホヤされると気持ち良くなります。そして自分が注目され、特別な存在のような気持になり、自分に魅力があるから人々が近寄って来ると思うようになってしまいます。弟息子からしたら、「モテ期到来!」という感じでしょうか。しかし弟息子は、このモテ期が幻であったことを知ることになりました。全てを使い果たした時、これまで友だと思っていた仲間たちは、スーッと離れて行きました。さらにその地方が飢饉となり、彼は食べるのにも困るようになりました。彼は、やっと豚の世話の仕事を見つけることが出来ましたが、豚のエサさえも自分には与えてもらうことが出来なかったのです。彼は、豚よりも低い立場となってしまったのです。この空しさの中で、弟息子は、自分の置かれている状況を理解し、そして父親に対して罪を犯し、とんでもない間違った生き方をしていたことに気づいたのです。弟息子が、気づけたのは本当に良かったと思います。私たちは、自分の本当の姿に気づくべき時、そのチャンスを逃すことなく神様の御手に頼る必要があります。

 あるクリスチャンの証しです。彼の母親は、教会に通っていましたが、彼は教会に通うことがなく高校卒業と同時に家を飛び出し、20数年間自分の欲の向くままの生活をして来ました。その結果彼は、生きる目的が分からず、人を傷つけ、親を恨む日々が続きました。しかも彼は、「教会に行ったらどうか」という母親の言葉を無視し続けたのです。しかし彼は、自分ではどうすることもできない状況に追い込まれた時、初めて教会を尋ねました。この時彼の心は、飢餓状態で誰も解決を示してくれない状況でした。彼は、教会に来て聖書を学び自分がどれほど罪深く、屈折した人生を過ごしてきたのかを知りました。その事に気づいた彼は、神様への信仰が深められ、一つ一つの事柄を見つめ直して、信仰に導かれました。それを知った母親は、非常に喜びました。実は、母親は息子が家を離れた時からずっと折に触れキリスト教の書籍などを送り続けたそうです。けれども彼は、自分の人生には聖書やキリスト教の本は必要ないと思っていましたから、読むこともないまま押入れにしまい込んでいたのです。彼は、クリスチャンになって押入れにあるキリスト教の書籍などを見て、初めて母親の気持ちと愛情を知ることになったのです。

 私たちは、自分の心を冷静に見つめ直し、自分の心の在り方に気づくことが出来るでしょうか。気づいた時、私たちは、神様の御前にどのような態度を取ることが出来るでしょうか。私たちは、「自分の人生は、この放蕩息子のようなものだな」となってしまう前に、御言葉に耳を傾けましょう。「放蕩息子」のようになっても手遅れではありません。神様の愛の御手はいつでも広げられています。

Ⅲ;神様の愛

 帰って来た放蕩息子は、父の所に戻って本当の愛を知ることになりました。この父親の姿は、罪人である私たちを愛して迎えてくださる神様の愛を表しています。神様は、無条件で私たちを愛し受け入れてくださるのです。

 弟息子は、言葉を用意して家に帰りました。彼は、まず天に対して罪を犯したことを知りました。これは、創造主なる神様に背を向けて不信仰な歩みをしていたことの悔い改めです。そして彼は、父親にも罪を犯し、父親を悲しませていたことに気づき、悔い改めるのです。実は、この告白はとても大切です。そして兄息子もこのことに気づくべきだったのです。ともあれ、私たちは、弟息子のように悔い改めと信仰をもって神様の前に進み出ることが大切です。その時、そこには、愛の交わりが回復するのです。
 放蕩した弟息子と父親との関係が、何年途絶えていたのかは知りませんが、父親は、息子のことを忘れることがなく、常に心配していたのではないかと思います。父親は、弟息子の言葉をさえぎり、弟息子の歓迎パーティーを開こうとその準備をさせました。父親は愛すべき息子が帰って来たことが嬉しくて、すぐに喜びを爆発させるのです。

 これが、父なる神様の気持ちです。神様にとって私たちは、愛すべき存在なのです。けれども私たちは、この神様の愛に気づかず、神様に背を向けて自由気ままに生きています。でも実は、私たちが自由だと思っていた生き方が、偽りの世界であり、私たちを罪の中に引き込むのです。そして私たちは、この偽りの自由(世界)に引き寄せられやすい者です。私たちは、この自分自身の現実の心の在り方を知るべきです。そして悔い改めるべきです。父なる神様は、私たちのことを待っていて、私たちのことを喜んで迎え入れてくださるのです。そして天のみ国では、私たちのために大きな喜びが沸き起こるのです(ルカ15:7、10)。神様は、私たちのことを喜び天国のパーティーを開いておられるということです。私たちは、喜んで迎え入れてくださる神様を信じて、神様のもとに帰りましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、神様の愛に気づかず、神様を悲しませてしまうことの多い者です。どうかお赦しください。神様は、どこまでも私たちを愛すべき存在として受け入れて、赦してくださることを感謝致します。この神様の愛に答え、神様を信じ、神様の御手に抱かれて歩ませてください。天の御国で喜びがあふれているように、私たちの心にも、私たちの人生にも神様からの喜びが満ち溢れますようにとお願い致します。
 新型コロナウイルスの感染が再び拡大しています。感染している方々が速やかに癒されますように。医療従事者を守り、適切な治療を続けることが出来るように助けてください。私たち一人一人の歩みを神様が祝福し守ってください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」