2022年1月30日(日)礼拝説教 マタイの福音書25章1-13節 「主の再臨への備え」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 皆は、毎日の学校の準備をいつするでしょうか。明日の学校の準備が終っている人はいますか?まだ終わっていないとしたら、いつしますか?しっかり準備をしたつもりでも、朝になって「マスクがない」とか「手拭きタオルは?」「そういえば、雑巾が必要だった!」など慌てることがあるかもしれません。
 イエス様は、結婚式のたとえを通して、僕たちが知っておくべきとっても大切な準備について教えてくださいました。

 結婚式は、花婿と花嫁それぞれが必要な準備をします。イエス様の時代の結婚式では、花婿に付き添う人たちと花嫁に付き添う人たちがいました。そしてイエス様の時代の結婚式は、花婿が花嫁を迎えに行き、花婿の家で婚宴が開かれたそうです。しかも夜始まるのだそうです。花婿が花嫁を迎えに行く時には、花婿の友人たちが付き添い、一方花嫁のほうも付き添いの娘たちが、ともし火(たいまつ)を用意して花婿の到着を待ったのです。

 イエス様のたとえに登場する10人の娘たちは、花嫁の付添人として、ともし火を用意し、花婿の到着を待っていました。けれどもどういう訳か花婿の到着が遅くなりました。「どうしたのかしら?まだお迎えに来ないですね?」「何かあったのかしら?」「準備に時間がかかっているのかもしれないわね。」10人の娘たちは、そんな話をしながら待っていたことでしょう。日も傾き段々暗くなっていく中で、娘たちは眠くなって居眠りをしてしまいました。すると突然、花婿の到着の知らせが届きます。
 皆は、昼寝をしていた時起こされたらすぐに起きあがることが出来ますか? きっと、急に起き上がることが出来ず、目をこすりながら起き上がるでしょうね。すっかり眠っているところを起された10人の娘たちは、そんなことを言っていられないので、慌てて飛び起き、ともし火(たいまつ)を整えます。けれどもこの時に、一つの問題が発生しました。10人のうちの5人の娘たちの油が足らなくなるということが分かったのです。あとの5人は、油を用意していました。だから「賢い娘」と言われているのですね。

「わーどうしよう。油が足りない、火が消えちゃう。」そして油を用意していなかった娘たちは、「ねぇ、あなたの油を少し分けてください」と油を用意していた娘たちに頼みました。けれども賢いと言われている娘は答えます。「それは出来ないわ。そんなことをしたら私たちも足りなくなってしまうから」。花嫁の家から花婿の家まで、たいまつを持って連れて行くことになりますから、分ける事など出来なかったのです。5人の賢い娘たちは、油が足らなくなるかもしれないし、花婿が遅れるかもしれないと考えて、しっかり備えをしていたのです。
 しかし「愚かな娘」と言われてしまった5人は、油を用意していませんでした。彼女たちは、花婿が遅くなるという連絡を受けた時、対策を考える必要がありました。5人の娘は、もしかしたら、油を用意している人がいるから、分けてもらえるかもしれないと考えたのかもしれません。彼女たちは、慌てて油を買いに行き手に入れますが、「時すでに遅し」で婚宴には間に合いませんでした。家のドアをたたいても、家の主人に「あなたがたを知らない」と言われて中に入ることが出来なかったのです。

 イエス様のたとえはここで終わります。そしてイエス様は「目を覚ましていなさい」と言われました。居眠りをしてはいけない、という事ではなく、十分に準備をしていなさいという事なのです。どんな準備でしょうか。それは、イエス様を迎えする準備です。イエス様はもう一度来られます。それを再臨と言います。イエス様は、イエス様を信じる全ての人を天の御国に迎え入れるためにもう一度来られます。でもイエス様がいつくるかは、誰にも分かりません。だからイエス様は、十分な準備をしていなさいと教えてくださったのです。僕たちは、どんな時でもイエス様を信じる心を持って、イエス様の御言葉を心に留めていきましょう。

 祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今日の礼拝を感謝します。イエス様がもう一度来られる再臨の約束をありがとうございます。イエス様をお迎えするための準備をしっかりとすることが出来るように導いてください。僕たちは、イエス様を信じる心を持ち続けます。イエス様ご自身が僕たちを守り導いてください。新型コロナの感染が中学校で確認されています。小学校、中学校、高校で感染が広がらないように守ってください。一人一人が感染から守られるようにとお願いします。イエス様の御名によって祈りします。」

「ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。」
                                マタイの福音書25章13節

<適用>

 私が子どもの頃、教会の一階が牧師家族の住まいで、二階が礼拝堂となっていました。我が家では、夜8時以降はテレビを見てはいけないという暗黙のルールがありました。教会では、木曜日の夜7時30分から9時くらいまで祈祷会が行われていました。集会の後にはお茶の時間があり、それが1時間とか1時間半になるのです。牧師の父も母も集会に出席しています。夜の8時以降にテレビを観れるチャンスです。しかも9時からは、歌番組の生放送があったのです。ただしお茶の時間がいつ終わるかは、毎回違います。私たち兄弟は、両親がいつ下に降りて来るかドキドキしながらテレビを観ていたものです。集会が終ったあと、2階の足音を気にしながら「まだ大丈夫、まだ来ない」と右耳で2階の音を聞き、左耳でテレビの歌を聞くのです。最終的には、何を聞いているのか分からなくなるのです。そしてだいたい一番見たい歌手の時に親が降りて来てしまい残念な事になるものでした。またテレビに集中する余り、親が来たことに気が付かず叱られることも多くあったように記憶しています。
 今日のイエス様のたとえは、私たちがどのようにイエス様の再臨に備えるのかという事を教えています。

Ⅰ;イエス様はもう一度来られる

 「主の再臨への備え」のために、私たちは、「イエス様はもう一度来られる」という事実をしっかりと心に留めておくことが必要です。そして聖書では、イエス様がもう一度来られる再臨がこの世の終わり、終末だと教えられています。今日開いているマタイ25章は、24章から続く「世の終わり」というテーマでのイエス様の話です。イエス様の弟子たちが、イエス様に「世の終わりのしるしはなんですか(マタイ24:3)」と質問しました。この質問に答えてイエス様は、教えておられるのです。その場所は、今日の週報に印刷してあるような情景だったことでしょう。写真は、オリーブ山からエルサレムを撮ったものです。イエス様は、オリーブ山に座り、エルサレムを見つめながら、お話しになったのです。それがマタイ24章からの話しです。イエス様は、この世の終わりに起るであろう様々な現象をお語りになり、その備えをするようにと教えてくださったのです。今日の箇所は、その流れで語られた、たとえです。

 「世の終わり」と聞くと「ドキッ」としてしまいますし、「イエス様の再臨??」とよく分からないということにもなるでしょう。聖書は、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかってくださったことを明らかにしています。イエス様は、私たちが受けるべき神様の裁きを身代わりに受けて、十字架にかかり死なれました。けれどもイエス様は、死んで終わりではなく、死を打ち破ってよみがえられたのです。「死」は、罪から来るさばきです。もしイエス様が死んで終わりなら、罪の結果は「死」以外何もないという事になります。けれどもイエス様は、罪の結果である死を打ち破って、よみがえり永遠のいのちがあることを明らかにしてくださったのです。イエス様は、弟子たちの見ている前で、天に上げられ雲に包まれて見えなくなられました。その時御使いが現れて「どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります(使徒1:11)」と約束してくれたのです。

 イエス様がもう一度来られる時、イエス様を信じる人が天に上げられ、復活の主イエス様とお会いすることになるのです。ちょっと難しい話をしましたが、イエス様は、ご自身が十字架にかかり死に、よみがえり、天に上ることを弟子たちに予告していました。だからその後で、「再臨」があるという事も予告して、その準備をするようにと教えるのです。

Ⅱ;明暗を分ける備えがある

 私たちは、「主の再臨への備え」をしましょう。イエス様のたとえに出て来る10人の娘たちの姿は、再臨を待ち望む私たちの姿を表現しています。花婿は、イエス様ご自身のことで、「花婿が来る」というのは、イエス様の再臨を意味しています。準備をして待っている娘たちは、私たちのことです。イエス様の再臨は、いつか分かりません。遅れているようでも必ずその日は、やってきます。しかもイエス様ご自身が言っているように、思いがけない時に来られます。イエス様は、マタイ24章36節からいくつかのたとえでその事を説明しています。45から51節を読みます。

「ですから、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。主人が帰ってきたときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せることになります。しかし彼が悪いしもべで、『主人の帰りは遅くなる』と心の中で思い、仲間のしもべたちをたたき始め、酒飲みたちと食べたり飲んだりしているなら、そのしもべの主人は、予期していない日に、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイの福音書24章45-51節)」 

 主人に家の管理を任されたしもべが、もし「主人はまだ帰って来ない」と考え、自由気ままに飲み食いしてどんちゃん騒ぎをしていたら、突然帰って来た主人から厳しい罰を受けます。私が、子どもの頃、テレビを観てた時も「まだ大丈夫」と安心しきっていた時に親が2階から降りて来るということになるのです。私は、集会が終って親がおりてきたらどうするのかと、見つからないようにすり抜ける方法も考えたりしていました。あまり手本にはなりませんね。しかし親は、子どもの考えそうなことは分かっていますから、どうあがいても言い訳は出来ないのです。

 皆さん、イエス様は、油を用意した娘たちを「賢い」と言われ、用意していなかった娘を「愚か」と言われました。イエス様は、このたとえを通して、私たちに再臨(終末)の備えをするようにと促しておられるのです。私たちは、どのような備えをすることが出来るのでしょうか。
 イエス様の再臨の備えについて、今日は、一つのことを見ることにしましょう。それは、13節の「だから、目を覚ましていなさい」と言う言葉です。その意味するところは、油を用意していた娘のように、しっかりと信仰を持って主を信じ続けると言う事です。イエス様の来られる時がいつなのかは、誰にもわかりません。イエス様の弟子たちは、イエス様が天に上られてから、今か今かとイエス様の再臨を信じ、期待して待ち続けました。その時からすでに2000年以上が経過しています。でもイエス様の再臨はまだ実現していません。イエス様の再臨は、今日かも知れないし、来年かも知れないし、10年後、30年後、100年後かもしれません。イエス様は、終末の前兆を語られその備えをすることに関してこのように言われました。「だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。(マタイ24:44)」と。だから私たちは、イエス様を信じて、信仰を持って歩むのです。

Ⅲ;あなたはどのような備えをしますか

「主の再臨への備え」として、あなたはどのような備えをするでしょうか。「再臨の備え」は、そのまま私たちの「死」に対する備えでもあります。あなたは、その準備が出来ているでしょうか。

イエス様のたとえで「油を準備して待つ」ことが信仰を持って待つことのたとえだとすれば、「油を貸してください」というのは、「あなたの信仰をすこし分けて下さい」と言うことを意味しています。それは、出来ない相談です。私たちは、親の信仰で救われるのではありません。友だちがクリスチャンだから大丈夫なのではないのです。神様からの救いは、誰かの分を自分のものとして受け取るのではないのです。神様は、私が(あなたが)イエス様の救いを信じ、悔い改めるから、罪を赦し、救いを宣言してくださるのです。私たちは、私たち一人ひとりとして、神様を信じ、信仰を持って歩むのです。誰かが自分の代わりに聖書を読んで従うのではなく、私たち自身が、聖書を読み御言葉によって教えられる必要があります。皆さんは、どのように神様と向き合っているでしょうか。

 またイエス様の再臨を待つ備えは、信仰を持って私たちに与えられている人生を主にあって生きるという言い方にもなるでしょう。私たちは、終末(この世の終わり、人生の終わり)について多くのことを心配し、多くの事柄を気にしてしまいます。しかしイエス様は、そのように心を騒がせるのではなく、信仰を持って、心の目を覚まし、御言葉に聞き従い歩むことだと教えておられるのです。
 随分前になりますが、「もしもキリストが来られたら(New Life Records)」という賛美がありました。「もしも今、キリストが、この地上にもどって来られたら、心の用意は出来ていますか、主に会う準備はいいですか…。」と言う歌詞です。私たちは、信仰をもって主を見上げ、心の準備をさせていただきましょう。マタイ25章13節をご一緒に読みましょう。

 祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様がもう一度来られる再臨の約束を感謝致します。イエス様をお迎えする心の準備をさせてください。私たちは、神様の前の自分として神様に目を向けます。私たちの信仰を強めてくださり、いつも主なる神様を信じ、御言葉に教えられながら歩む力を与えてください。そして今を主にあって生きる希望に満たしてください。
 新型コロナの感染が拡大しています。感染している方々を癒し、医療や福祉に携わる人たちを助け守ってください。神様、一人一人の健康と生活を守り、支えてください。日本に世界に神様の御手が差し伸べられ、主なる神様からの平安で包まれますようにとお願い致します。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」