<子どもたちへ>赤松由里子師
皆さんは、家にお客さんが来たことがありますか?我が家では、以前はありましたが、最近はコロナのためほとんどありません。でも、大事なお客さんが来るよ!という時にはどうしていたかというと、家をきれいに掃除しました。おやつを用意したり飲み物を用意したり、いろいろ準備してお迎えしていました。相手がどうすれば喜ぶかとか、自分がどうしてあげたいかとか、考えるとなかなか忙しかったのを思い出します。
さて今日は、イエス様が自分の家に来ることになった2人の女の人たちのお話です。どんな風にイエス様をお迎えしたのでしょうか?見ていきましょう。
ある村にイエス様とお弟子さんたちが入っていきました。すると、マルタという女の人がニコニコしてイエス様に近づいてきました。「イエス様、ようこそ私たちの村へいらっしゃいました。お疲れでしょうから、どうぞ私の家に来てお休みください。おいしいお食事も作らせていただきます!」そう言ってイエス様一行を家に案内しました。「さあ、まずはお料理をしこまなくっちゃ!」マルタは大張り切りです。「お水もくんでこなくちゃいけないし、そうそう、果物も欲しいわね。マリア、マリア!…あら?どこに行ったのかしら?」マルタが姉妹のマリアを探すと、マリアはイエス様のそばに座り込んでお話を聞いています。それを見るとマルタはイライラしてきました。
(まあ、私がこんなに忙しいのにマリアったら!イエス様もイエス様だわ!)そう思ったマルタはプンプンしてイエス様に言いました。「イエス様、私の姉妹が私にだけ働かせているのを何とも思わないのですか?私の手伝いをするよう言ってください!」…よくこんなことをイエス様に言えたものだなあ、と思いますが、マルタは本当に言ってしまったのです。
しかしイエス様はマルタの顔を見て優しく言いました。「マルタ、マルタ。あなたはいろいろな気づかいで心を乱していますね。でも必要なことは一つだけなのですよ。マリアはその良い方を選んだのです。」
これはイエス様のそばでお話を聞くことこそ本当に必要なことだ、という意味です。イエス様はなぜマルタとマリアの村まで来られたのでしょう?それは罪を悔い改めてイエス様を信じることで赦される、という福音を知らせるためです。イエス様に会えるチャンス、そして福音を聞くチャンスは少ないのです。それを聞いて信じることこそがマルタとマリアにとってどうしても必要なことです。また、イエス様が本当に望んでおられることです。マルタのもてなしは素晴らしいことですが、そのせいでイエス様の救いの福音を後回しにして聞きそびれたら、意味がないのです。イエス様はそのことを、優しくマルタに教えてくださいました。
私たちはどうでしょうか。あれもこれもと心が乱れ過ぎていないでしょうか。こうだったら素晴らしい、あれもしたい、とつい人間的な理想を追い求めてしまいがちです。その結果、人を責めたり神様に文句を言いたくなって、失敗してしまいます。私たちがどうしても必要なのは、イエス様から救いを頂き、イエス様のお言葉に養われて生きていくことです。マリアのように本当に必要なただ一つのほうを選んでいきましょう。イエス様もそれを望んでおられるのです。
<祈り>
神様、今日の礼拝をありがとうございます。イエス様の救いの福音をしっかり聞くことの大切さを教えてくださり、ありがとうございます。私の理想を追求するよりも、イエス様が望んでおられることを大切にして行きたい、と教えられました。今日のお話を心に留めさせて下さり、イエス様に心を向けて歩ませてください。御名によってお祈りいたします。アーメン。
「彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。」
ルカの福音書10章39節
「必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。
それが彼女から取り上げられることはありません。」
ルカの福音書10章42節
<適用>赤松勇二師
皆さんは、「ながら勉強、ながら作業」をすることがあるでしょうか。私は音楽を聴きながら作業することがあります。よく音楽を聴きながら作業すると集中して、作業が進む(勉強がはかどる)と言われます。しかし、私は、音楽を聴き始めると、音楽のほうに耳が集中して聞き入ってしまい、やるべき作業への取りかかりが遅くなることがしばしばあります。でも一度集中してしまうと一気に作業が進むのです。CDで音楽を聴いている場合、再生が終わっていることにも気づかないくらいの集中となります。
Ⅰ;心乱れて忘れることがある
私たちは、「御言葉に聞き入る」という歩みをしたいと願います。けれども、そのように出来ない事があります。心乱れて忘れてしまうことがあるのです。
イエス様一行を迎えたマルタは、イエス様たちを喜んでお迎えしました。ルカは、「ある村」と書いていますが、他の福音書で確認すると、彼女たちが住んでいたのは、エルサレムから3kmほどの「ベタニア」という村であったあったことが分かります。そして、マルタとマリアには、ラザロという弟がいました。イエス様は、時々、べタニアのマルタ、マリア、ラザロの家に立ち寄っていたようなのです。マルタは、イエス様一行をお迎えして、慌てて、もてなしの準備をしていました。皆さんだったら、どんな準備をするでしょうか。イエス様をお迎えしたつもりで考えてみましょう。
まず、汚れた足を洗うための水の用意。手を洗う水。イエス様たちがリラックスできるように場所を整えること。十分な飲み物と食べ物。もし泊まることがあるなら、宿泊できるような備え。などなど。一行は、イエス様だけではなく、12人の弟子たちがいます。どれだけ忙しくなったことでしょうか。マルタは、そのことを一人であれこれと考えて動き回っていました。その最中にふとイエス様のほうを見ると、妹のマリアがイエス様の前に座っているではありませんか。マルタは、恐らく、早く手伝うようにマリアに目で合図をしたことでしょう。でもマリアは、イエス様の話しに聞き入っていて動きません。その様子を横目で見ているマルタは、段々いらいらしてきて、とうとうイエス様に愚痴をこぼすのです。マルタは、どうして自分だけがこんなに苦労しなければいけないのかとイエス様を問い詰めるのです。皆さんはどのようにマルタとマリアを見るでしょうか。マルタの不満は、もっともだと思えることでしょう。けれども、この時のマルタの心の変化を見過すことは出来ません。
マルタは、忙しさの中で妹へのいらいらが頂点に達し、イエス様にマリアを注意するようにお願いするのです。このマルタのイエス様への愚痴は、「イエス様のお話を聞くことなど後回しにして、私の手伝いをするように妹に言ってください。」という事です。それに対してイエス様は、マルタに自分自身の気持ちを分からせるように、「あなたは、色々なもてなしのことで気を使って、心が乱れていますね。だから大切な事を忘れてしまっているのですね。」と言われました。マリアは、イエス様の足もとに座り、その教えに聞き入っていました。彼女は、イエス様の言葉に聞き入るのです。しかし、マルタは、色々な事に気を使い、心乱れて、イエス様の言葉を後回しにして、聞き入ることを忘れていました。忘れるだけではなく、聞き入っているマリアの邪魔をすることにもなりました。
このマルタの姿は、決して他人事ではありません。私たちも、心乱れて忘れることがあるのです。今、私たちが、「御言葉に聞き入る」と言う時、それは、神の言葉である聖書を読むこと、聖書の言葉を心に思い巡らすことという事が出来ます。私たちは、もっともらしい理由をつけて、聖書を読むことを後回しにしていないでしょうか。「今、自分は、仕事が沢山あって、聖書を読む時間などない。すぐ仕事に取りかからないと間に合わないから、座って聖書を開いている時間はない」と考える事はないでしょうか。「今は、あれやこれや考えければならないことがたくさんあるから、聖書の御言葉を思い巡らしている余裕はない」など私たちには、様々なことがあります。確かに私たちには、多くの事柄があり、対応しなければならない問題が山積みとなってしまうことがあるでしょう。私たちは、目の前の事に気を取られ、心が乱れることを経験します。そのような時、私たちの心は、マルタのようにイライラして来て、周りに当ってしまうことがあるものです。周りに当らないまでも、自分の心が悶々として、平安がなく、落ち着かない日々を過ごすこととなってしまうものです。
私たちは、「御言葉に聞き入る」ことを「心乱れて忘れている」という事はないでしょうか。
Ⅱ;もっとも大切なこと
私たちは、「御言葉に聞き入る」歩みをしましょう。それが、私たちにとってもっとも大切なことだからです。
イエス様は、マルタのしている給仕を不必要とは言っていません。それは必要なことです。しかし、先ほど見たようにマルタの心の状態が問題でした。イエス様は、「あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています」と言って、マルタに教えておられるのです。そして最も大切なことを選ぶこと、その選択を妨げてはいけないと言われたのです。マルタもそのことは、十分理解していたことでしょう。早くイエス様のもとにいって話しを聞きたいと思っていたことでしょう。けれどもマルタは、自分だけが忙しい、自分だけががんばっていると思い心が乱れたのです。
イエス様は、マルタのしていることを認めつつ、最も必要なことを選ぶようにと促しておられます。マリアは、姉の手伝いをしようと思えば出来たはずです。しかし、マリアの性格と信仰による判断によって今はイエス様のお言葉を聞こうという選択をしたのです。イエス様はそれをお喜びになりました。
私たちの日常の生活には、なすべき必要なことが実に多くあります。イエス様は、私たちに対しても、「あなたはいろいろなことをしているが、本当にしなければならないことをしていますか」と問いかけておられるのではないでしょうか。最も必要なわずかなこと、一つだけのことそれは、イエス様の御言葉を聞くこと、イエス様と信仰による交わりをすることです。「御言葉に聞き入る」と言った時、それはどのような歩みなのでしょうか。私たちは、「聞き入る」の他に「見入る」と言う表現も使います。「見入る」こととは、目の前の事から目が離せず、ずっと見てしまうことです。
今は、冬季オリンピックをしています。多くの選手が練習の成果を発揮し、金メダル目指して競技しています。先週は、スノーボードのハーフパイプの競技がありました。私は、スノボのハーフパイプの競技のわざの名前はあまり知りません。けれども、選手の飛ぶ高さ、選手が複雑に回転する様子が素晴らしいので、思わず見入ってしまいました。また「音楽に聞き入る」と言う事があります。好きなアーティストの音楽に聞き入ることがあるでしょうか。聞いていて心地よい音楽に聞き入るということがあるでしょう。私たちが、何かに「見入る時」または「聞き入る時」私たちは、とても豊かな、素晴らし時間を過ごしていると感じるのではないでしょうか。
私たちが、「御言葉に聞き入る」時、その時私たちは、とても豊かな、素晴らしい時間、神様からの平安に満ちた時を過ごすことが出来ます。もし私たちが、あれこれ終わったら聖書を読み静まる時間を持とうと考えていたら、いつまでたってもそのような時間は確保できないでしょう。私たちの生活の優先順位を見直すことが必要となるのではないでしょうか。
私は、20代の頃とても忙しい時期がありました。起きてから寝るまでやるべきことに追われているような生活をしていました。毎週日曜日の礼拝は、欠かさず出席しますし、教会での奉仕も積極的にしていました。けれども私の生活は、聖書を開くことなく、やるべきことに没頭する毎日でした。そのような生活ですから、聖書を読まないだけではなく、お祈りもしませんでした。そのような日々は、ただ何かをこなしているだけで、まったく達成感はありません。物事が好転して良い方向に行っているかというと、そうではなく、私の心に平安はありませんでした。その時、私は、聖書を読んでいないことに気づいたのです。そして祈りもおろそかになっていたことを知りました。私は、その事を悔改めて、忙しい中にあっても聖書を開き、祈る事を始めました。すると、心に平安が与えられ、イエス様が私と共に毎日を過ごしてくださっているという感謝が溢れて来ました。
私たちは、「忙しいから、聖書を読む時間がない、落ち着いて祈れない」ではなく、「忙しいからこそ、腰を下ろして御言葉に聞き入る」ことが大切です。それが私たちにとって、とても大切で必要な一つだけの事です。私たちは、マリアのようにイエス様の足もとに座る気持ちで、腰を下ろし、聖書を開いて御言葉に聞き入りましょう。その時、私たちは、イエス様との豊かな時間、素晴らしい恵みに満ちた時間を過ごすことが出来ます。神の言葉である聖書の一つ一つの言葉が、私たちの心に力を与え、勇気を与え、慰めと励ましを与えることを経験することが出来るのです。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、マルタのように日々やらなければならないことがたくさんあり、雑事に追われているような気がします。それは、必要なことですが、もっと大切で必要な唯一つの事があることを教えて下さりありがとうございました。私たちは、主の前に静まって「御言葉に聞き入る」歩みをしていきます。神様、どうか私たちに御言葉を教え、私たちが御言葉によって力づけられ、励ましと慰めを受けて歩めるように助けてください。
一人一人が、御言葉に聞き入り、イエス様との素晴らしい時間、豊かな時間を過ごし、様々な事柄に取り掛かることが出来るように導いてください。
新型コロナウイルスの感染が、まだまだ続きます。神様、どうか収束へと導いてくださり、日本に、世界に、平安と恵みを満たしてください。感染している方々を癒し、医療従事者はじめ福祉に携わる人たちを守ってください。神様、一人一人の健康をお支え下さい。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」