2022年2月20日(日)礼拝説教 マルコの福音書10章17-27節 「永遠の命を得る道」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 皆は、有名人を目撃したことがありますか?しばらく前にある番組が小川町でロケをしていたそうです。教会の目の前を通り過ぎたようなのですが、私は留守だったのか、全く気が付きませんでした。もしロケに気づいたら、サインを求めたい気持ちを抑えつつ、その様子をずっと見ていたことでしょう。もし目の前に人気ユーチューバーがいたら皆ならどうしますか?走り寄ってサインを求めるとか、写真を撮るとかするでしょうね。
 ある時、一人の青年が慌てるようにして、イエス様の所に来ました。この人は、多くの人々が尊敬しているイエス様に出会うことが出来た今がチャンスとばかりにイエス様の前にひざまずきました。何がしたかったのでしょうか。見て行きましょう。

 ルカの福音書では、この青年が「ある指導者」であったと言われています(ルカ18:18)ので、この人は、ユダヤ教の教師だったのではないでしょうか。この人は、イエス様を見るや、「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたら、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」と質問しました。
 イエス様は、「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言(嘘をついては)ならない。だまし取ってはならない。父と母を敬え」という戒めを守ることだと言われました。この青年は、「そのような事は小さい頃から守っています。」と堂々と言い切ることが出来ました。でも彼は、戒めと言われるものは守っているのに何かが足りないと感じていたのです。イエス様は、この青年への心からの愛を持って「あなたには欠けていることが一つある」と言われました。イエス様は「持っている財産を貧し人に与えて、そしてついて来なさい。」と言われました。するとどうでしょうか。この人は、顔を曇らせて悲しみながら(落胆しながら)帰って行きました。

 この青年の後姿を見送りながらイエス様は、「富を持つ人が、神の国に入ることはなんと難しいことか」。そして「金持ちが神の国に入るより、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」と言われました。それを聞いていた弟子たちは、びっくりして、「では誰が救われることが出来るのでしょうか」と聞き返してしまいました。「ラクダが針の穴を通る」ことは、誰が考えても無理な話です。イエス様は、その不可能なこと以上に、富(お金)が全てだと考えている人が、神の国に入ることは難しいと言われたのです。実は、この青年は、自分の財産に信頼して自分のお金の力で、自分の努力で救われ神の国に入ることが出来ると考えていたのです。彼は、神様を信じるよりもお金を大切な事と考えていました。イエス様に従って生きるよりは、お金に頼り自分の力を信じることを選んでいたのです。
 けれども、神の国に入ることは、神様を信じる事によって可能となります。僕たちが神の国に入ることは、僕たちの考えや力では不可能なことです。努力とか善い行いなど何かをすることで救いを得ることは不可能です。それは、神様によって可能になるのです。神様は、僕たちを罪から救い、天の御国に迎えることが出来るのです。

 イエス様は、富を持ってはいけないと言っているのではありません。財産を求めてはいけないということでもありません。でも僕たちは、お金が全てだと考えてしまって、お金に信頼してしまいやすいのです。僕たちは、気をつけるべきです。お金や財産は、神様が僕たちの必要に応じて与えてくださるものです。大切な事は、お金に信頼するのではなく、救いを与えてくださる神様を信頼し、信じる事です。
 僕たちが、永遠の命を得て神の国に入るために必要なことは、神様を信じて、神様の思いを知り、神様の恵みを感謝して歩む事です。神様は、僕たちを罪から救い永遠の命を与えてくださいます。そのためにイエス様がこの地上に来てくださったのです。イエス様の救いを信じましょう。神様が、永遠の命を与えてくださり、神の国に(天の御国に)入れてくださることを信じましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様が、僕たちに永遠の命を与えてくださることを信じます。お金ではなく、神様に信頼し、神様を信じて歩みます。どうぞ僕たちを導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

   「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」 
                                    マルコの福音書10章27節

<適用>

 「永遠の命」とか「不老不死」は、人類の永遠のテーマかもしれません。クレオパトラは、若さと不老不死を追い求めた人として有名です。彼女が若さを保ち健康でいるために摂取したものは、「胡麻」だと言われています。胡麻には、肌のつやを良くし、若さを保つ効果があると言われています。私も自分の健康のことを考えて、そろそろ胡麻を多めにとるようにしようかと思う今日この頃です。
 ある時イエス様のもとに「永遠のいのちを得るためには何をしたらよいのか」と質問した青年がいました。青年に対するイエス様の答えは、私たちの心の本質を問いかけていると思います。

Ⅰ;どこにあるのでしょうか

 「永遠の命を得る道」は、どこにあるのでしょうか。イエス様の所に質問に来た青年は、「永遠の命」についての切実な求めがありました。この人は、ルカの福音書では「指導者」とありますから、ユダヤ教の教師のような立場にあったと想像します。という事は、彼は、旧約聖書の律法に関して知識があり、人々に説明し教えることが出来た人でした。ですからイエス様が十戒について触れた時、そのような事は小さい時から実践していると自信満々に答えることが出来たのです。イエス様の時代ユダヤ教の人々は、旧約の律法を守ることが救いの道だと考えていました。青年は、律法を守っているけれども、永遠の命が与えられているという確信がないし、天の御国に入れるという平安がなかったのです。永遠の命に関する彼の質問は、切実な求め、心からの飢え渇きからの質問でした。けれども何かその求め方が、間違っているのです。マタイの福音書に記されている彼の言葉からそれが分かります。マタイは、「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」という青年の言葉を記しています。「永遠の命を得る」という事は、「天の御国に入る」という事であり、私たちの罪の赦し、救いに関することです。私たちは、どうしたら天の御国に入る事ができるのでしょうか。どうしたら、罪の赦し・救いを受けることが出来るのでしょうか。

 そのために私たちは、一生懸命になって正しい生き方をすれば永遠の命を得ることが出来るのでしょうか。何か良いこと(善行)を行えば、厳しい修行をすれば、罪の赦し・救いを受けることが出来るのでしょうか。もしも「良い行い」が救いの条件なら、その良い行いとは何でしょうか。「正しい生き方」が天の御国への道なら、その正しさの基準はどこにあるのでしょうか。私たちは、人それぞれの正しさの基準を持っています。救いは、「修行」によって得られるのでしょうか。だとしたら厳しい修行に耐えられない人は、救いを得られないことになってしまいます。もし人が、「良い行い」や「正しい生き方」そして「修行」などを求めて追及し始めたら、いつになってもゴールを見つけることが出来ないでしょう。人によって到達点が違うし、人によって達成感も違うからです。その結果、「まだ駄目だ」「もっと違う方法があるのではいか」「さらに上の段階は何か」と求め続け、答えの出ない迷路に迷い込むことになるのです。

 イエス様の答えは、そうではないと教えています。イエス様は、十戒を取り上げましたが、後半を言った後、最も大切な前半を言おうとしたのではないかと思うのです。でも青年は、イエス様の言葉を遮って、十戒は十分実行していると答えたのです。青年が遮ってイエス様が言わなかった大切な事は、十戒の1戒から4戒の事です。「天地を造られた神以外を神としてはいけない。」「偶像を作ってはならないし偶像を拝んではならない。」「主の御名をみだりに口にしてはいけない。」「安息日を聖なる日として主なる神を礼拝する」事です。イエス様は、十戒の前半をまとめて別や表現をしました。それが「天に宝を持つようになる」という事ではないでしょうか。イエス様は、青年に、父なる神様の御心を行い、神様の愛に答え神様を愛し、神様を信じて歩むように勧めたのです。
 「永遠の命を得る道」は、永遠に生きておられる神様にあります。私たちが、天の御国に入るためには、天の御国におられる神様にあります。私たちの心には、神様への信仰があるでしょうか。

Ⅱ;神様が与えてくださる

 「永遠の命を得る道」は、神様が与えてくださるのです。「永遠の命を得る」と言うのは、「天の御国に入る」という確かな約束のことです。「天の御国に入る」ことは、自分の死後の事で、先の事と考えるでしょうか。イエス様の所に来た青年は、求め方は間違っていましたが、「何をしたらよいのでしょうか」と聞きました。彼は、「永遠の命への道」は死後の事、先の事ではなく、今を生きる自分と深いかかわりがある事を意識していたのです。永遠の命を得る道(天の御国に入る道)は、今を生きる私たちの生き方となるのです。

 イエス様は、切実に求めている青年に対して、神様中心に考え、神様に従い、神様の御心を行う生き方をするようにと勧めました。青年は、まだ何かが足りない、もっと自分の力で何か出来ることがあるのではないかと考えていました。だから「何をしなければならないのか」と質問したのです。それに対してイエス様は、「持っているものを売って施しをし、天に宝を積み、わたしに従って来なさい」と勧めました。この言葉を聞くと青年は、悲しみながら立ち去っていきました。彼は、イエス様の求めには応じられない、自分には無理だと考えたのです。
 23、24節の言葉は、立ち去っていく青年を愛の眼差しで見つめながらのイエス様の言葉だったように思います。そしてこの言葉は、財産のある人には厳しい言葉のように受け取られてしまう言葉です。またクリスチャンは、財産を求めてはいけないと言うような心境にもさせてしまうかもしれません。

 けれどもイエス様は、財産や貯蓄をたくさん持つことを禁止したり、否定したりしてはいないのです。またイエス様は、貧しい人たちに施しをする行為が永遠のいのちへの道だと言ったのでもありません。イエス様は、この地上での功績ではなく、天に宝を積む生き方をするようにと言われたのです。そして自分の得た財産を神様からの恵みと受け止め、感謝して主に仕えることを求めたのです。これは、生き方の転換、価値観の転換を促すこととなりました。青年は、どうして悲しみながら立ち去ったのでしょうか。それは、彼が財産に執着していて、お金が・自分の地位が・自分の功績が全てと考えていたからです。彼は、神様中心よりもお金中心に物事を考え、この世の価値観で生きることを捨てることが出来ませんでした。青年に必要なことは、自分の力に頼るのではなく神様に頼ることでした。財産を優先させるのではなく、神様の御心を最優先にすることでした。そして神様が祝福して与えてくださるお金、財産を感謝して、主のために用いることだったのです。
 確かに私たちは、生きていく時にお金は必要ですし、財産を貯めることは必要不可欠なことです。神様は、私たち以上にその現実を良く知っていてくださいます。ですから神様は、私たちに必要なものを与え、備えてくださいます。私たちも価値観の方向転換、生き方、物の見方考え方を神様中心に変える必要なのではないでしょうか。

 だれが救われるのかという弟子たちの質問に対してイエス様は、それは神様がなさることだとお答えになりました。罪を赦し永遠のいのちを与えるのは、全能の神様のなさることです。「永遠の命への道」は、神様から与えて頂くことが出来ます。この素晴らしい約束を受取るために必要な事は、努力でも根性でも修行でも財力でも地位でもありません。私たちが永遠の命を与えられ、天の御国に入るために、それを与えてくださる神様を信じる事です。神様を信頼し、神様の愛と恵みに感謝する事です。そこにこそ、祝福の人生が待っています。
 もし間違った求め方をしているのなら、方向転換をして神様に心を向けましょう。もしすでに神様に心が向けられて永遠の命の約束を得ているならば、さらに深く神様の御心を知り、恵みを感謝する者とならせていただきましょう。

 祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。『永遠の命を得る道は、どこにあるのか。』それは、人間の大きな求めです。この大きな問題にイエス様は、神様から与えられるものであると教えてくださいました。イエス様は、この約束を受取るためには神様を信じ、信頼することだと教えてくださいました。私たちが、神様を信じ、神様の愛と恵みに感謝して歩む時に、神様からの祝福を受けて生きることが出来ることをありがとうございます。
 永遠の命の約束をしっかりと確信して歩むことが出来るように、私たちの信仰を強めてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」