2022年2月27日(日)礼拝説教 マルコの福音書10章46‐52節「主よ あわれみ給え」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>

 ここのところ、イエス様に出会った人たちのお話を聞いています。今日はどんな人のお話かと言うと、目の見えない人が出てきます。「バ」で始まる名前ですが…誰でしょうね?その人は「バルティマイ」という人です。あまり聞きなれない名前かもしれませんね。ではこのバルティマイは、一体どんな風にイエス様と出会ったのか、見ていきましょう。

 イエス様はエルサレムに向かって旅をしている途中、エリコの町を通られました。エリコは大きい道が通っていて、いつも人がたくさんいます。小川町より人通りがあったかもしれませんね。そこにバルティマイという目の見えない人が、座り込んでいました。当時、目の見えない人は働くことが出来ませんでした。それで道端に座って、誰かがお金や食べ物を恵んでくれるのを待っていたのです。「ああ、本当は物ごいなんてしたくないなあ。目が見えさえすれば、人生が変わるのに…。」バルティマイはふーっとため息をつきました。

 すると、なんだか通りがザワザワしています。「何だろう?何かあるんですか?」バルティマイが近くの人にたずねると、「ナザレのイエス様がお通りになるんだよ」と教えてくれました。「えっ?イエス様だって?!」バルティマイは思い出しました。「イエス様は病気を治せるそうだ。それに目の見えない人も見えるようにしてもらったと聞いたぞ。私もお願いしよう。必ず治して頂けるはずだ!」

 バルティマイは大声で叫び始めました。「ダビデの子のイエス様!私をあわれんでください!」あんまり大声で、何度も何度も叫び続けるので、周りの人が「うるさいよ!」と黙らせようとしました。それでもバルティマイはやめません。「ダビデの子よ、私をあわれんでください!」するとイエス様は立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」とおっしゃいました。イエス様がお呼びだ、と聞いたバルティマイは上着を脱ぎ捨てました。うれしくて飛び跳ねるようにしてイエス様の近くに行きました。

 「私に何をして欲しいのですか?」イエス様は優しく聞かれました。バルティマイは言いました。「主よ。目が見えるようになることです。」普通の人ならこんな願いを言われたら困ってしまいます。でもバルティマイは、イエス様ならできるはずだと信じていたのです。
 この時イエス様がおっしゃったのが、今日のみことばです。一緒に読んでみましょう。「あなたの信仰があなたを救いました」(マルコ10章52節)。この時からバルティマイは目が見えるようになりました。「ああ、見える!見えるぞ!」バルティマイの目に喜びの涙が浮かびました。「イエス様ありがとうございます。ありがとうございます!」イエス様はバルティマイに「さあ行きなさい。」とおっしゃいましたが、バルティマイはこの後イエス様の行かれるところにずっとついて行ったそうです。

 皆さん、このお話を聞いてどう思いましたか?イエス様はすごい!目が見えるようになって良かった!と思いますよね。でもここで目を留めたいのはバルティマイの「信仰」です。体の不自由が癒されることは素晴らしいことです。でも体が元気で自由がきいても、心が辛くて限界を感じる人もいます。悩みがなんであったとしても、私たちにとって必要なのはイエス様への信仰です。どんな時にもイエス様にお祈りして呼び求めましょう。信じて祈るなら、イエス様は私たちのこともあわれんで救いを与えてくださいます。今日のお話はそのことを教えています。

<祈り>
神様、信じて呼び求めたバルティマイをイエス様は呼び寄せて、新しい人生を与えてくださいました。私たちもイエス様だけが私たちの道を開いてくださる唯一のお方だと信じ、呼び求めます。どうぞ私たちに新しい人生を与え、恵みをもってお導きください。御名によってお祈りいたします。アーメン。

  「あなたの信仰があなたを救いました。」   マルコの福音書10章52節

<適用>

 先週、ロシアによるウクライナ侵攻という大きなニュースが飛び込んできました。原油や天然ガスの供給の問題や、船の航行の問題など、日本にも影響があります。またかつて原発事故を起こしたチェルノブイリ原子力発電所はウクライナにあり、そこでも戦闘があってロシアに制圧されたといいますから、背筋の寒くなる思いが致しました。私たちは目を覚まして、平和の主にとりなしの祈りを捧げる必要があります。そして、罪と争いが取り巻くこの世に生きる者として、主からの平和をたましいに頂くことが何より大切です。
 今日のお話はまことにシンプルでありながら、主イエス様にこそ救いがあるという真実を指し示す物語です。「主よ、あわれんで下さい」という祈りがもたらした、素晴らしい平安、素晴らしい人生を、共に学ばせて頂きましょう。

1.唯一の救い主イエス

 まず覚えたいのは、私たちにとって唯一の救い主はイエス様である、ということです。バルティマイとイエス様の出会いをたどりながら見ていきましょう。
マルコ10章32節を見ると、今日の話はイエス様のご生涯の最後の頃、十字架にかかるためエルサレムに向かう途中でのことだとわかります。おりしも今週の3/2(水)から受難週(レント)に入ります。4/17(日)のイースターまでの日曜日を除く40日間のことです。ちょうどタイムリーな箇所が導かれたことに感謝いたします。

 46節にはエリコに着いたイエス様が、いったん町を出た時にバルティマイと出会った様子が記されています。これは不思議なことです。ルカの福音書18章には同じ記事が書かれていますが、このあとイエス様は再びエリコに入ってザアカイと会い、彼を救いに導くのです。本当は出たり入ったりしない方が動きとしては自然です。弟子たちや群衆が一緒なのですから、出るの?入るの?どっちなの?とつぶやく人がいたかもしれません。私には、イエス様がバルティマイと出会うために動いて下さったかのように思えます。

 エリコはエルサレムから約20km北東にある町で、交通の要衝でした。過ぎ越しの祭りを前にして、ますます多くの人々が行きかっていたことでしょう。そこに座って物乞いをしていたのが、ティマイの子のバルティマイという目の見えない人でした。詳しく書かれているのは、彼が初代教会のメンバーだったからだと言われています。
 彼はナザレのイエスの噂を聞いたことがありました。マタイの福音書9章では、やはり目の見えない人たちがイエス様によって癒された記事が出ています。これはその地方全体に言い広められたとありますから、バルティマイの耳にも届いていたのではないでしょうか。バルティマイは、イエスと出会うチャンスが来たと知らされて、いても立ってもいられませんでした。そして、救い主を意味する「ダビデの子よ!」とイエスをお呼びし、大声で叫び求めたのです。

 彼が聖書を十分に理解していたかと言えば、そうではなかったかもしれません。しかしそれは問題ではありません。彼がイエスを約束された救い主「ダビデの子」と信じて望みをかけ、主に期待したことこそ重要なのです。
 私たちは生きていると、それぞれに抱える課題、問題があります。皆さんは何を頼りにし期待しているでしょうか。本当に期待すべきは神から遣わされたお方、主なるイエス様です。バルティマイのように、イエス様にこそ望みをおきましょう。それがすべての出発点です。

2.主に叫ぼう

 次に大切なことは、主に叫んで個人的な出会いを頂くことの重要性です。エリコの道すがらで、イエス様とバルティマイの距離は縮まりました。しかし個人的な出会いはまだ実現していません。バルティマイは必死で叫びました。「わたしをあわれんでください!」と大声を出したのです。カトリック教会や式典を重んじるプロテスタント諸派では、「キリエ・エレイソン」という言葉が祈りや賛美でよく用いられます。「主よ、あわれみ給え」という意味のラテン語です。ここでバルティマイが言っている言葉もギリシャ語で「エレイソン」であり、あわれみを求める姿は諸教会の先達とも言えるものです。

 驚いたのは周囲の人々です。48節には「黙らせようとたしなめた」とあります。うるさいと思ったのか、物乞いにイエス様を煩わせてはいけないと思ったのか、その両方だったのかもしれません。しかしバルティマイはひるまずますます叫んだのです。
 イエス様を遠くから見ているだけの人生では得られない世界があります。バルティマイには、イエス様のみわざがどうしても必要だったのです。強烈な飢え渇きです。だから、誰に止められても止まるべきではないと思ったのです。イエス様との出会いとは、このようなものです。誰に反対されても、状況が不利になるように思えても、そのようなものによって邪魔されてはならないのがイエス様との個人的な出会いなのです。

 ある牧師先生が教会案内の個別配布をしていたそうです。あるお宅のポストに入れようとすると、その家のご主人らしき方がいるのに気づきました。「良かったら教会にいらして下さい」と声をかけて案内を渡すと、ご主人はじーっとそれを見て言いました。「わたしはまだキリスト教に頼るほど落ちぶれてはおらんよ!」そして案内を突き返して家に入ってしまったそうです。
 神にあわれみを乞うというのは、落ちぶれた人のすることでしょうか?いいえ、そんなことはありません。プライドや自己義認で心の目がくもって、自分の本当の姿を認められないのです。自分の本当の姿を知り、罪深く無力であることを知るなら、「主よあわれんでください」としか言いようがないのです。これは、謙遜になり、自らを直視した人にのみ可能になる祈りです。

 へりくだって呼び求める者を、イエス様は暖かく迎え入れて下さいます。バルティマイのように、イエス様その人をお呼びして、主よあわれんでください、私の問題をお聞き下さい、と祈ろうではありませんか。

3.イエス様への信仰の告白

 最後に見たいのは、バルティマイのイエス様への信仰の告白です。イエス様がお呼びになったときの様子が50節にあります。「その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。」
 上着は当時、着衣であり寝るときにかける夜着でありました。物乞いにとってはそこに施しをおいてもらう、仕事道具でもありました。彼はそれを惜しげもなく脱ぎ捨てました。それは彼が古い人生を脱ぎ捨てたことを示しているように思えます。また「躍り上がって」とはそこに喜びの爆発があります。肉体の目が開いていても、罪で心の目が曇ったままなら希望を持つことは出来ません。身体的には盲目であるままのバルティマイが霊の目を開かれ、喜びに躍ったのです。

 イエス様は彼に自分の言葉で思いを表すように言われます。51節の「先生」という呼びかけには、「ラボニ」(我が主)ということばが使われています。イースターの朝にマグダラのマリアが呼びかけたのと同じです。また彼は「目が見えるようにして下さい」と願いました。これは人間に対する願いではありません。どんな名医も、こんなことを期待されては困ってしまいます。しかし彼はイエスを神から遣わされた方と信じて求めました。まさに信仰告白です。
 イエス様はおっしゃいました。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」バルティマイが癒されたのは「信仰の実だ」と、イエス様はお教えになったのです。私たちが自分自身の口でイエス様に信仰を告白する時、新しい人生が始まります。イエス様は自分の言葉で信仰を告白することを求めておられます。

 今日ともに礼拝をしている方の中で、イエス様を遠くから見ているだけだったという方はいないでしょうか?イエス様との出会いのチャンスは、人生でそう多くはありません。いつかは、そのうち、と思って後回しにしていないでしょうか。バルティマイは今しかない、と必死に食らいついて信仰を告白しました。そのように、今日この時にイエス様との個人的な信仰の結びつきを持って頂きたいのです。もしおられたなら牧師先生や先輩のクリスチャンの方と共に、是非祈りを捧げてほしいと思います。

 いやされ自由になったバルティマイの新しい願いは、イエス様について行くことでした。彼はこの後、イエス様が十字架にかけられ3日目に復活したのを見たことでしょう。私たちもイエス様と共に人生を歩み続けましょう。イエス様の十字架の恵みをはっきりと理解するためにも。どのように生きていったら良いのか、示し続けて頂くためにもです。今日のみことばをもう一度ご一緒にお読みして終わりましょう。「あなたの信仰があなたを救いました。」癒されたバルティマイのようにイエス様を信じイエス様を見つめて歩んでまいりましょう。

<祈り>
 神様、人生の課題や問題を真に引き受け、新しい人生を与えて下さるのはイエス様だと、この朝改めて示して下さり感謝いたします。私も信仰による期待をもって、イエス様を呼び求めます。主よ、あわれんでください。どうぞ親しく取り扱って下さり、私たちの罪によって損なわれた歩みをいやして下さい。イエス様は私の唯一の救い主であられることを信じます。どうぞたましいの目を開き、イエス様を見つめ従って行かせてください。御名によってお祈りします。アーメン。