2022年3月13日(日) マルコの福音書11章1-11節 「喜び迎える心」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>

 少しずつ暖かい日も増えてきて、春が近づいているなー、と感じます。皆さんも今の学年がもうすぐ終わりますね。卒業する人もいて、節目の時ですね。
 今日から4/17のイースターまでは、イエス様のご生涯最後の1週間にあったことを、順番にお話ししていきます。言ってみればイエス様にとっての節目の時をなぞるような内容になります。今日はその最初、エルサレムに入られた日のことを学んでいきましょう。
 イエス様はエルサレム近くのオリーブ山まで来られました。そして弟子たちに用事を言いつけられました。いったいどんな用事でしょうか?

 ここはベタニアの近くの村です。2人の弟子が話しています。「ああ、いた、いた。ロバの子だ」「イエス様の言っていたのはこのロバかな?さあ連れて行こう」。そう、イエス様の用事というは、ロバの子を見つけて連れてくる、というものだったのです。
 弟子たちがロバの子を連れていこうとすると、そこにいた人たちが言いました。「おいおい、子ロバをほどいたりしてなんのつもりだ?」それはそうですよね、弟子たちは人の家のロバの子を連れて行こうとしたのですから。こんなこと私たちがしたら大変です。でも弟子たちは言いました。「イエス様のおつかいで来ました。主がお入り用なのです。すぐにお返しします。」これはイエス様が教えてくれた言葉でした。その通りに言うと「そうか、イエス様か。それでは連れて行ってもいいぞ」。と許してくれました。

 弟子たちはイエス様のところに戻ると、ロバの子の背中に自分たちの上着をかけました。「さあイエス様、お乗りください」。子ロバはイエス様を乗せて歩き出しました。
 そして過ぎ越しの祭りで大勢の人でごった返しているエルサレムに、イエス様は入って行かれたのです。イエス様がお通りになると、人々は自分の上着を道に敷きました。シュロやナツメヤシの葉っぱを切ってきて敷く人もいました。みんな王様を迎えるように大喜びでイエス様を迎えたのです。
 この様子は、何百年も前に預言者ゼカリヤが言った通りでした。ゼカリヤは、「私たちの王様である救い主は、ロバに乗ってこられる」と言いました。それが今日のみことばです。いっしょに読んでみましょう。イエス様は戦車でもなく、軍馬でもなく、小さなロバの子にのって、平和の王として来たことを示されたのです。

 人々はイエス様の前でも後でも大声で叫びました。「ホサナ!ホサナ!」「祝福あれ、イスラエルの王に!」ホサナというのは「どうぞお救い下さい」という意味です。でもイエス様のことを罪からの救い主、とわかって叫んでいる人は、残念ながらほとんどいませんでした。人々は、奇跡をおこなうことが出来るイエス様が王になれば、きっとローマ帝国を追い出してくれるに違いないと思っていたのです。それは、聖書の教える救い主を理解していない間違った期待でした。

 このあとのイエス様は、その週の金曜日には十字架につけられてしまいます。でもそれは失敗でもなく、人気が落ちたということでもありません。神様のご計画の中で、私たちを罪から救って本当の平和を下さるために、イエス様は来て下さったのです。罪を悔い改めて救い主イエス様を信じましょう。本当の王であるイエス様のお言葉に従い、イエス様にお仕えする人になりましょう。

<祈り>
神様、イエス様が本当の平和を与える王、罪からの救い主として来て下さったことを感謝いたします。どうぞイエス様のことを正しく理解させてください。罪を悔い改めてイエス様を信じますから、あなたに従いあなたに仕える人になれますようお助け下さい。御名によってお祈りします。アーメン。

「見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。」
                                  中心聖句 ゼカリヤ書9章9節

<適用>

 ウクライナとロシアの戦争が続いています。戦場で起こっていることを思うたびに苦しい思いになり、痛みを感じます。不安定な情勢に世界中が巻き込まれて、つい1か月前までと世の中がすっかり変わっているかのようです。平和を求める祈りを、私たちクリスチャンの責務としてお捧げしていかなければならないと思わされます。
 さて、本日はイエス様のエルサレム入城を学んでまいります。これはシュロの主日と呼ばれる、受難週最初の日の出来事です。イエス様を迎えた人々の姿を通して、平和の王イエス様にどう向かい合わせて頂くのかを学んで参りましょう。

1.主がお入り用なのです

 まず見ていきたいのは、エルサレムに向かわれたイエス様が必要とされた人たちです。それは、ロバの子を取り巻く人たちです。

 先ほど、ロバの子に乗ってのエルサレム入城と人々の歓喜は、ゼカリヤ書の預言の成就である、とお話しました。しかしそれは、実はイエス様が十字架で死なれて復活なさるまで、使徒たちにすら理解されていなかった事柄です。4つの福音書すべてにエルサレム入城が記載されていますが、ヨハネ12章16節には次のようにあります。「これらのことははじめ弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。」つまりその出来事の意味をその時に理解していたのは、ただイエス様お一人だったということです。

 このような状況の中で、イエス様に必要とされた人たちがいました。まずは弟子の内2人です。イエス様は彼らにロバの子を引いてくるように命じられました。また、ロバの持ち主です。彼らは「主がお入り用なのです」の言葉に、ロバを供出しました。そして動物ですが、子ロバが必要でした。マタイの福音書には「ろばと子ろば」とあるので、母ロバも一緒だったでしょう。乳離れしたばかりなのか、母に甘えたい時期の未熟な動物を、イエス様は必要となさったのです。

 彼らの内の誰一人、一匹でさえ、必要とされている理由は理解していませんでした。しかし彼らはどうしたでしょうか?「良く説明してください」と詰め寄ったでしょうか?「納得できればやりましょう」と言ったでしょうか?「子ロバより親ロバの方がしっかりしていますよ」と申し上げたでしょうか?いいえ、彼らはおことばの通りにしました。イエス様のお言葉には人間的な知恵を付け加える必要はありません。むしろ「主がお入り用なのです」というお言葉に愚直にお従いする人を、主は用いられるのです。

 心の耳を澄ましてみましょう。イエス様は私に何を求めておられるでしょうか?私たちの従順を、イエス様は今必要としておられます。あなたに示されているそのイエス様の求めに、「主がお入り用なのですから」と喜んで自分を差し出すものとなって参りましょう。

2.イエスを喜び迎える心

 この時のイエス様のエルサレム入りを「入城」と言いますが、どういう意味でしょうか?辞書的には「戦いに勝って攻め落とした敵の城に乗り込むこと」とあります。エルサレムは城塞都市でしたし、当時はローマ総督の支配下にありました。実際過ぎ越しの祭りには、総督ピラトが治安維持のため、また大祭司の祭服を渡すためにエルサレムに来ていました。祭服はローマの管理下にあったのです。またあのヘロデ大王の息子の一人、ガリラヤとペレヤの国主ヘロデ・アンテパスもエルサレムに来ていました(ルカ23章参照)。このような世俗の支配者たちの治めるところにイエス様が入って行かれたので、「エルサレム入城」と言われるのでしょう。

 聖書は人々が熱狂してイエス様を迎えたと記しています。その背景はどのようなものだったでしょうか。当時のエルサレムの人口は約4万5千人ほどでした。しかし過ぎ越しの祭りなどには巡礼者が集まり15~20万人にも膨れ上がったそうです。ですからこの時の町の混雑は大変なもので、興奮と愛国心、宗教心の高揚が見られたと思われます。
 また、ヨハネの福音書12章を見ると、ベタニアのラザロを生き返らせたのを見た人たちが、イエス様の奇跡のみわざを告げ知らせていたといいます(12:17,18)。人々がイエス様に熱狂した背景にはこれらのことがありました。

 そういう状況の中、イエス様がエルサレムに入ってこられました。人々はシュロの葉や自分たちの上着を道に敷き、興奮と熱狂の内にイエス様を迎えて、「ホサナ!祝福あれ!」と叫んだのです。
 10節に「祝福あれ、われらの父ダビデの、来るべき国に。ホサナ、いと高き所に。」とあって、彼らが求めたのはローマ帝国からの解放者、独立国へと回復させてくれる王だったことが読み取れます。死人を生き返らせた方、奇跡を行う方が解放軍を率いて王となってくれたなら、きっとイスラエルは主権を回復するだろう。そんな思いが彼らを熱狂させていたのです。

 しかしイエス様の思いはそのようなものではありませんでした。今日のみことばであるゼカリヤ書9章9節に続いて10節ではこうあります。「わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。」
 軍馬に乗るのでなく、戦車に乗るのでもない。穏やかなロバの子に乗って、イエス様は入城なさいました。武器と暴力で支配する王ではなく平和を与える王とは、なんと素晴らしいことでしょうか。今の国際情勢にも、こういう指導者こそ現れて欲しいと思います。そして究極的にはイエス様は十字架の死によって、神と罪人との和解を産み出して下さいました。平和の王、罪からの解放者であることを世に示すためのエルサレム入城でした。

 ここから何がわかるでしょうか。私たちの人間的な期待は、時としてイエス様の思いとずれたものになることがあります。「自分の願いが叶いそうだ」と言って喜び、「なんだ、やっぱり叶わないじゃないか」と言って神を呪う。それはまさに罪人の性質です。実際この時の群衆の喜びと熱狂も、その週のうちに冷めていきます。捕らえられおとしめられたイエス様を見て、彼らは失望しました。「なんだ、ローマ帝国を追い払う器ではなかったか」と。そして総督ピラトに「イエスを十字架につけろ!」と要求するのです。
 私たちもまた罪人です。イエス様の示されることより、自分の願いと思いを優先してしまうところがあります。どちらが王だかわかりませんね。「イエス様は私の罪を負って裁きを受けて下さり、神との和解を与えて下さった」。そのことこそ神の備えられた最大の恵みです。まさに福音です。この福音を喜びとし、イエス様を王として心の中心にお迎えしましょう。イエス様の願われる仕方で、喜んでお迎えする心を持たせて頂きましょう。

<祈り>
 神様、今日の礼拝に集わせて下さりありがとうございます。本日はイエス様のエルサレム入城から学ばせて頂きました。あなたがお入り用でしたら、喜びと献身をもって自分をお捧げいたします。用いられた人たちのように、主のみ言葉に愚直にお従いする信仰を与えて用いて下さい。また、自分の願いの実現を喜ぶのでなく、イエス様のご計画が実現することを喜ぶものへと整えて下さい。平和の王イエス様を一人でも多くの方が喜んでお迎え出来ますように。御名によってお祈りします。アーメン。