2022年3月20日(日)礼拝説教 マルコの福音書11章15-19節

「祈り-真実な祈り-」

<子どもたちへ>赤松由里子師

 先週から、イエス様の最後の一週間(=受難週)のお話が始まりました。十字架にかかるまでの間、イエス様は昼間はエルサレムで過ごし、夜は近くのベタニヤ村に泊まっていました。先週は、ロバの子に乗ってエルサレムに入ったことをお話しました。今日はその次の日の出来事です。見たことのないようなイエス様のお話ですよ。

 ここはエルサレムの神殿です。この人たちは何をしているのでしょうか?「はいはいそこの人、鳩はいらないかい?礼拝にはいけにえの動物が必要だよ。」「あら、こんなに高いの?普通より高いじゃないの!」「ここで売っているから連れてこないで済んだんだ。文句を言うなよ!」。鳩を売る商売人が高い値段で売り付けようとしています。
 こちらは両替人です。「おや、外国から来た人だね。両替してあげるよ。献金するには外国のお金じゃだめなんだよ。」「ええ?手数料が高すぎるよ。こんなにたくさん払っても、これっぽっちにしかならないなんて!」「いやなら結構、替えてやらないからな。」こちらももうける気満々です。
 おまけに荷物を運ぶ人たちが、神殿内を近道にして通り過ぎていました。商売の声や物音がワイワイとひびいて、礼拝したい人、お祈りしたい人が困っていました。

 そこへイエス様が入ってこられました。いつも優しいイエス様ですが、この時は怖い表情で、顔を真っ赤にしておられます。「お前たち、ここから出ていけ!!」大声で商売人を追い出します。「ここを物を運ぶ通り道にしてはいけない!」そうも言われました。バターン!台やいすを倒します。ガラガラガッチャーン!鳥のかごが叩き落とされます。バサバサバサ!と鳥が逃げていきます。
 これみんな、イエス様がやったことですよ。イエス様が暴れるなんて、どうしたというのでしょう。実はこれは「宮きよめ」と呼ばれる出来事だったのです。イエス様は周りを見回しておっしゃいました。それが今日のみことばです。一緒に読んでみましょう。「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」。礼拝を邪魔するかのように商売しているのを、イエス様は許すことが出来なかったのです。続いて言われました。「それなのにお前たちはそれを強盗の巣にしてしまった。」祭司たちにはお礼のお金が商売人から払われていたので、祭司も見て見ぬふりでした。礼拝を道具に金儲けをしたがる強盗のようだと、イエス様は怒られたのですね。

 祭司長や律法学者たちは眉をひそめました。「ちぇっ、儲けが台無しだ。イエスのやつ、勝手なことをしおって。」「イエスばかりがえらそうにして、気に食わん!」そしてひそひそと、どうやって殺してやろうか、と相談し始めました。強盗どころか人殺しですね。恐ろしいことです。大勢の人々がイエス様を信じて教えに驚いていたので、イエス様を恐れていたのです。

 皆さん、このお話を聞いてどう思いましたか?さすがイエス様!と思ったかな。当時はひどかったんだな、正されて良かった、と思ったかな?確かにそうですね。でも自分たちはどうなのか、考えてみることが大切です。当たり前になりすぎて、良くないことでも気付かなくなるのが私たち人間です。教会では、自分もほかの人も礼拝に集中できるように、過ごしているでしょうか?また、神様に喜ばれる交わりを持つようにしているでしょうか? イエス様に私たちの教会は「祈りの家」となっているね、と言っていただけるように、自分の心と行動を点検して、整えていきましょうね。

<祈り>
神様、宮きよめのお話を学びました。気づかないうちに、イエス様に喜ばれないことが当たり前になってしまうことがあります。教会での過ごし方、礼拝の仕方を点検して、神様に喜ばれる祈りの家にしていきたいと思います。どうぞお導き下さい。御名によってお祈りします。アーメン。

「わたしの家は、あらゆる民の祈り家と呼ばれる。」    マルコの福音書11章17節

<適 用>赤松勇二

 先々週は、教団聖会の主講師である工藤弘雄先生の5回のメッセージの事前収録のために神戸に行ってまいりました。皆さんのお祈りを心から感謝いたします。海なし県で生活していると海を見ると一気にテンションが上がりますね。目の前に広がる太平洋を見ながらの移動に心が躍りました。明石海峡大橋の側に宿泊しましたが、瀬戸内海も見る事が出来て嬉しかったです。移動も守られ、また収録も予定通りに行うことが出来ました。聖会のテーマは、「キリストとの合一」で、工藤先生は、私たちが救いを受けてイエス・キリストと一つとされ、神様の恵みを受けて歩めるということを分かりやすく語ってくださいました。福音伝道教団のホームページから動画を見る事が出来るようになります。ぜひ視聴して頂きたいと思います。皆さんの心に神様からの恵みが注がれることでしょう。
 さて、皆さん私たちは、「祈りー真実な礼拝ー」に招かれています。

Ⅰ;誰もが招かれている

 「祈りー真実な礼拝-」には、誰もが招かれています。イエス様が神殿で行われたことは、単に大暴れしたという事ではありません。イエス様は、そこで行われている事柄に信仰からの祈り、真実な礼拝があるかどうかを見ておられたのです。イエス様は、ロバの子に乗ってエルサレムに入城されたときに神殿を見ましたが、その日イエス様は、黙って神殿を後にしてベタニアに戻りました。そしてその次の日に神殿にやって来て、宮(神殿)きよめを行われたのです。

 イエス様が、ご自分の感情を吐き出すかのように激しい行動をとることは非常に珍しいことです。先週は、ロバの子に乗ってエルサレムに入るイエス様の姿から、イエス様が柔和なお方であることを聞きました。その他に福音書からは、イエス様が優しく、癒しを行い、厳しく語ることもありますが、その言葉には人を包み込む励ましが溢れています。そのイエス様が、売り買いしている人たちを神殿から追い出し、両替人の台や鳩を売る者たちの腰掛を倒すのです。そして宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかったのです。その場は、騒然となりました。でもどうしてイエス様は、これ程の事を行われたのでしょうか。それは、この売り買いしていた場所が問題でした。

 当時の神殿には、いくつかの庭が作られていました。まずエルサレム神殿に入ると「異邦人の庭」があります。ここにはユダヤ人以外の異邦人が入れて、礼拝をすることが出来ました。異邦人はこの庭から先には進むことが出来ません。神殿は、その先に「婦人の庭」があり、男性だけが入ることが許される「イスラエルの庭(男性の庭)」があり、一番奥に祭司だけが入れる「祭司の庭」がありました。
 イエス様が宮きよめを行った場所は、「異邦人の庭」でした。ここは異邦人が礼拝のために入れる唯一の場所です。ですから多くの人々が礼拝のためにやって来たのです。しかしイエス様が見た異邦人の庭は、礼拝をしている人々の姿ではなく、商売をしている姿だったのです。ユダヤ人たちは、巡礼のためにエルサレム神殿にやってきます。この時は過ぎ越しの祭りの直前ですから、多くの人たちが集まって来ていたと想像できます。彼らは、神殿でいけにえを捧げます。遠方から来る場合、いけにえの家畜を連れてくるのは大変ですから、エルサレムに到着してから買うほうが都合が良いのです。エルサレムには、いけにえとして捧げてよいと認められた動物が売られていました。またユダヤ人たちは、決められた献金をすることになっていました。けれども、当時流通していた貨幣は、ローマ皇帝の銘が入っていましたので、神殿では受け入れてもらえませんでした。そのために巡礼者は、持ってきたお金をユダヤの貨幣に両替していたのです。これらのことが神殿の中で行われていたのですから、神殿内は大変な騒ぎだったことでしょう。また近道をして荷物を運ぶためだけに神殿を通り抜ける人々もいたようです。異邦人の庭であってもそこは「神殿」です。その神殿が、礼拝の場になっていなかったという事です。

 イエス様は、このような神殿の現実をご覧になり、神殿が神殿の役目を果たしていないことをお怒りになり、神殿で売り買いしている人々を追い出されたのです。そしてそこにいた人々に教えて「わたしの家は(神殿)は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」と言われたのです。これは、イザヤ書56章7節からの引用です。すでに旧約聖書の時代に預言者イザヤを通して神様は、全ての人々を礼拝のために招いていたのです。少しイザヤ書56章を見てみましょう。
 イザヤは、3節で「主に連なる異国の民は言ってはならない。『主はきっと、私をその民から切り離される』と。宦官も言ってはならない。『ああ、私は枯れ木だ』と。」語りました。この意味は、「異邦人は、神様に切り捨てられ、主なる神様を礼拝する事は出来ないと絶望する事はない。宦官も何の役にも立たないと失望することはない」という意味です。現代にあわせて言い換えるなら「クリスチャンではないから、教会に、礼拝には行けない」と言う必要はないという事です。神様は、全ての人を神様の平安、祝福に招いておられるのです。

だからこそ、4節から7節の約束が語られているのです。
「なぜなら、主がこう言われるからだ。『わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、考えることのない永遠の名を与える。また主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。…なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。』」

神様は、神様を求め、主を礼拝する全ての人を招いておられます。しかし、実際の神殿では異邦人の礼拝が妨げられ、主への礼拝が軽視されていたのです。
 今日、私たちは、神様が年齢性別を超えて全ての人を礼拝者として招いておられることを覚えて感謝をもって礼拝しましょう。イエス様は、私たちが神様の御前に出られるように十字架にかかり救いの道を開いてくだったのです。

Ⅱ;私たちの心が大切

 私たちは、「祈りー真実な礼拝-」に招かれています。誰もが主の前に礼拝をすることが出来ます。その時に大切な事は、「私たちの心」です。イエス様は、神殿に集まる人々の心を問題にされました。
 エルサレム神殿には、多くの人々が集まっていました。ある人は、神様を礼拝するために神殿に来ています。ある人は、両替やいけにへの動物を売るため、儲けを出すために来ていました。そしてそれを黙認する祭司長たちがいたのです。祭司長だけではなく、神殿に集まる人々がこの雑然とした神殿を認めていたのではないでしょうか。という事は、彼らの礼拝は、儀式として行われているだけで、心が伴っていなかったのです。彼らは、さも神様を敬っていけにえを捧げているように見えても、その礼拝には主なる神様への畏れや敬う思いは見られなかったのです。イエス様は、まさに彼らの心の内側の在り方を問題にされました。

 そしてイエス様は「いちじくの木」を通して予めその問題を示していました。マルコの福音書11章12節から14節です。イエス様がエルサレム神殿での宮きよめをする日の事です。「彼らがべタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじちくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。するとイエスは、その木に向かって言われた。『今後いつまでも、だれもお前の実を食べることがないように。』(12‐14節)」。するとどうでしょう次の日には、その木は枯れてしまったのです。これは、何とも不思議な出来事です。いちじくの実がなる季節ではないなら、いちじくが実っているはずがありません。イエス様は、当然いちじくの季節ではないことを知っていたはずです。では、なぜ実をつけていないいちじくの木に対して「だれも食べることがないように」と呪いの言葉を口にしたのでしょうか。

 枯れた木を見た弟子たちにイエス様が教えられたことからその理由を知ることが出来ます。イエス様は、弟子たちに神様を疑わず信じる事、信仰をもって祈る事、そして神様に赦され救いを頂くことを感謝して赦し合う事を教えました(マルコ11:20-26)。この信仰をもって心から神様を礼拝することが大切なのです。イエス様は、葉を茂らせて立派に見えるいちじくの木を、いけにえを捧げ儀式を行い見た目だけは立派に見える当時のユダヤ人と重ね合わせているのです。「実がない」という事は、一見立派な信仰者に見えるかもしれないけれども、それは外見上のことだけで、心からの信仰が伴っていないという事なのです。

 私たちは、2021年度のテーマを「真実に礼拝しよう」とし、年度の御言葉をヨハネの福音書4章24節「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」としています。皆さんの2021年度の歩みは、日曜日ごとの礼拝は、真実な礼拝、神様に喜んでいただけるような礼拝だったでしょうか。2021年度を終えるにあたり、私たちはしっかりと自分の信仰を振り返ることが必要です。なぜなら、私たちの人生のすべてが主なる神様への礼拝にかかっているからです。
 私たちの心は、今どのような状態となっているでしょうか。神殿で売り買いがなされているような「強盗の巣」と言われるような心となっていないでしょうか。そのような心は、信仰の伴わない礼拝となります。賛美や祈りをしていても口先だけの告白でしかありません。さらには、神様を求めているようで、実は自分の願いが叶えられることだけを求める思いに満たされた心のことです。神様に願うのは良いことです。しかし、もし私たちが、「神様は、私の願い事をかなえるべきだ」と思うなら、それは間違った方向に進んで行きます。

私たちが、心の内側の交通整理をすることは大変なことかもしれません。けれども私たちが祈り心を持ち、真実な礼拝をする信仰をもって主の前に出るならば、心は整えられて行きます。
 私は、以前やらなければならない多くの事で何から手を付けたら良いか分からない時がありました。そのような時は、心が乱れ、あれもこれもと心が落ち着かず、イライラして祈ることも賛美する事も当然神様への礼拝の気持ちも薄れてしまいました。その時、ふと立ち止まって何をするべきかを考えました。私に足らなかったことは、神様を心から礼拝するという事でした。そこで私は、まず静まって、聖書を開き御言葉を読み、祈り、賛美する時間を持つことにしたのです。すると私の心は荒波が静まるように、落ち着きをもって一つ一つの事を考えることが出来るようになりました。そして心を静めて神様を礼拝することが出来るようになりました。

 私たちは、「祈りー真実な礼拝-」に招かれています。私たちは、遠慮することなく神様の前に出ることが出来ます。しかしその時大切な事は、私たちの心の在り方です。私たちは、「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」と言われる神様の御心を受け止めているでしょうか。教会が、祈りの家となっているでしょうか。私たちは、教会が神様の栄光を現すことが出来るように願い、教会が心からの礼拝の場となるように願いましょう。そして皆さんの心は、主への祈りと真実な礼拝をする信仰に溢れているでしょうか。一年の歩みを振り返り、新しい2022年度を迎える備えをしましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様が、私たち一人一人を礼拝者として招いてくださっていることを心から感謝します。私たちは、真実な信仰をもって主を見上げ、祈り、真実な礼拝をささげます。神様、私たちの信仰を強め、導いてください。私たちだけではなく、神様、あなたは全ての人が主を求めて、礼拝することを願っておられ、招いておられます。神様、私たちの教会が、日本中の教会、世界中の教会が、イエス様の十字架による救いを信じ、信仰に導かれる人で溢れ、祈りと真実な礼拝が行われる場となるように導いてください。
 ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が続いています。神様、この戦争が一刻も早く停止されるように助けてください。世界中が神様の御心を求め、神様からの平和と祝福に満たされるようにとお願い致します。
 コロナ禍も続きます。私たちは、神様の憐れみが必要です。どうか神様、私たち一人一人の歩みを導いてください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」