<子どもたちへ>
皆さん、先週で今の学年が終わりましたね。卒業、進級おめでとうございます。支えてくれた周りの人たちへの、ありがとうの気持ちを大切に進んで行ってくださいね。
さて4/17のイースターまでの間、イエス様の生涯最後の1週間のお話をしています。今日は、あと何日かで十字架につけられてしまうイエス様が、とても喜んだお話です。イエス様は何を喜ばれたのでしょうか?見ていきましょう。
「イエス様、これを食べてください」「こちらのぶどう酒もどうぞ」イエス様を囲んでワイワイとお食事になっています。ここはエルサレム近くのベタニア村、シモンという人の家に集まっています。ベタニアにはイエス様を信じて親切にもてなしてくれる人がたくさんいたのです。
そこにはマリアとマルタ、兄弟ラザロも来ていました。マリアはお食事が終わったころ、ナルドの香油の壺(つぼ)を持ってきて割りました。そしてイエス様の頭と足に油を塗って、髪の毛でふいてあげました。部屋中に良い香りがいっぱい広がりました。マリアは、兄弟ラザロを生き返らせて下さったイエス様のために、何か良いことをしたいと思ったのでしょう。値段の高い香油を惜しげもなくイエス様のために使い切ったのです。
ところが大変です。そこにいた弟子たちが、イスカリオテのユダという人を中心に文句を言いだしたのです。「おいおい、こんな高い油を無駄にしてもったいないじゃないか!」そう、ナルドの香油は300デナリもしました。300日分のお給料をそっくりためてやっと買えるほど、高価だったのです。ユダは言いました。「これを売れば、貧しい人たちにわけてやることが出来たのに!」ユダに責められて、マリアは困ってしまいました。「そうなのかしら?やるべきではなかったのかしら?」さて、皆さんならどちらの行動が正しいと思いますか?イエス様はどう思われたでしょうか?
イエス様はこう言われました。「マリアをそのままにしておきなさい。彼女を困らせてはいけません。わたしのために良いことをしてくれたのです。埋葬の準備に油を塗ってくれたのですから。私はいつまでもあなたがたと一緒にいられるわけではないのですよ。」そう言ってイエス様はマリアににっこりとなさいました。
イエス様はご自分がこれから十字架にかかることを、何回も弟子たちに話していました。でも弟子たちはそれを良く理解できませんでした。ただ一人マリアだけが、これから苦しみを受けるというイエス様に少しでもお仕えしたい、と行動を起こしたのでした。それは、どんなに高価でも惜しまない、心からの感謝の表れでした。
皆さん、私たちが何かをする時はいつも、こちらにするかあちらにするか、選んで決めているものです。今日のみことばを読みましょう。「吟味(ぎんみ)」というのは「よく調べて判断する」ということです。今日のナルドの香油はイエス様に喜ばれた尊いささげ物でした。値段が高いか低いかは関係ありません。私たちもイエス様に喜んでいただける行動を考え判断して、心をこめて実行していきましょう。
<祈り>神様。私たちのために苦しみを引き受けてくださるイエス様に感謝いたします。マリアはイエス様のお話をよく聞いて、イエス様の必要に気づくことが出来ました。マリアのように、イエス様に喜ばれることを見分けて行う力を私たちにお与え下さい。御名によってお祈りします。アーメン。
「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。」 エペソ人への手紙5章10節
<適用>
私たちが沼田教会で奉仕をしていた時のことです。教会員の方のお嫁さんが、アロマテラピーのサークル活動に、教会を会場として使用したいと申し出てこられました。どうぞお使い下さい、ということで許可いたしました。ママ友たちで、楽しくアロマオイルの調合や小物の作成をされたようでした。片付けが終って皆さんが帰られた後に、あるものが残っていました。何でしょう?それはアロマオイルの芳香でした。いい香りではありますが、かなり強く部屋にしみついていました。1週間たっても香りは残っていました。その香りを嗅いだ姑さんが「ここまで匂いが残ると困るわ」と気にされて、アロマの会はそれきりとなりました。
アロマオイルはその香りを何日も後に残すものであります。ナルドの香油もまた、後世にまでその香りを放つ物語を届けてくれます。今日はこの麗しい物語を通し、主に喜ばれることをどう吟味したら良いのか、2つの点から学ばせて頂きましょう。
1.マリアの捧げもの
1節を見ましょう。「過ぎ越しの祭り、すなわち種なしパンの祭りが2日後に迫っていた。祭司長と律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた。」とあります。殺意と悪意は大きく膨らんでいますが、2節を見ると彼らは祭りの間に実行に移す術がなく、考えあぐねていたのがわかります。
今日お読み頂いた箇所に続く10~11節までが、実は一続きのお話です。ユダの裏切りによって、イエス様の逮捕と殺害の手段が生まれてきます。そしてこれを引き起こした出来事が、この香油注ぎでありました。
3節では「ある女の人」とありますが、ヨハネ12章ではそれが「ベタニアのマリア」だとわかります。ナルドの香油とはオミナエシ科の植物の根からとれる精油だそうです。ナルドはヒマラヤなど寒い高地に生育する植物です。どんな香りか嗅いだことがありませんが、古代ギリシャ人はラベンダーをナルドと呼んだそうですので、ラベンダーに近い香りなのかもしれません。
香油は香りが飛ばないよう密封された壺に入っていました。マリアは惜しげもなく壺を割りました。そしてそれをイエス様の頭に注ぎ、足に塗り広げ、捧げたのです。
私はどうしてマリアがこんなに高価な油を所有していたのだろうか、マルタとラザロの3人の兄弟姉妹はよほど裕福だったのだろうか?と、不思議に思っていました。しかし、この時代のイスラエルの習慣として興味深い記事を見つけました。長くイスラエルで宣教師として奉仕された、スティーブンス英子先生が書かれたものです。それによると、ナルドの香油というのは、娘が生まれた際に婚礼の日のため親が買い求めるものだそうです。長い期間をかけて少しずつお金を貯め、商人に注文します。そして婚礼の日に壺を割って花嫁の全身に塗り、かぐわしい香りと共に最良の日を迎えさせる。それが親としての最大の贈り物だったといいます。マリアのナルドの香油がそのようなものだとしたら、二度と手に入らない貴重なものだったでしょう。しかしマリアはそれを、献身と感謝の証としてためらうことなく捧げ尽くしたのです。
マリアはイエス様の御心の痛みに気づき、香油をもってお慰めしようとしました。イエス様は彼女の行動を大変喜んでお受けになりました。この香油の香りは部屋中に充ち溢れました。その後の数々の苦難の間も、かぐわしい香りはイエス様のお体から放たれたことでしょう。
マリアがこのように行動できたのはどうしてでしょうか。私はマリアが主のみことばに聞き入ることをいつも優先したからこそ、みこころを敏感に悟ることが出来たのだと思います。私たちは今年の受難節、何を主にお捧げするでしょうか。私たちのために苦難を引き受けて下さった主に、感謝を表すものとなりましょう。みことばに親しんでみこころを悟り、その喜ばれるところを進んでお捧げ致しましょう。
2.ユダの裏切り
次にユダに注目して見ていきたいと思います。4節にはマリアにいいがかりをつける弟子たちの様子が書かれてあります。「すると何人かの者が憤慨して互いに言った。『何のために、香油をこんなに無駄にしたのか』」。イスカリオテのユダがこれを言ったとヨハネの福音書は記しています。そして「貧しい人たちに施しが出来たのに」と、一見もっともな発言を付け加えつつ、マリアを厳しく責めたのです。
立派な意見に聞こえますね。しかしご存知かと思いますが、ユダは一行の財布を預かりながら、そこから盗んでいました。ということは、マリアが油を売って献金してくれた方が、ユダには都合がよかったのです。自分の懐に大金が入りますから。ユダがマリアを責めたのは、金銭への執着からでした。信仰の仮面の下には盗人が隠れていたのです。
私はユダの「何のために」「無駄に」という言葉に驚かされます。だって、「イエス様のため」ではありませんか。「まことの王への最上の捧げもの」ではありませんか。しかしユダのイエス様への思いは冷めたものでした。十二使徒の一人であったけれども、この世的王、利権を与えてくれる存在としてイエス様に期待していたのでしょう。死の予告を受けて、立身出世の望みが失望に変っていたのかもしれません。
最近はSNSが発達して、国家元首や政府、企業や一般市民まで、自分の言葉で思いを発信しています。しかしそこはまた、誹謗中傷や批判、罵詈雑言が沸き立つ場でもあります。誰かが何かをすれば、それを目にした人から千差万別の意見が出るのが、人の世の現実です。思わぬ誹謗中傷にあって、マリアは困惑してしまいました。誰からも非難されないように、何もしない方がよかったのでしょうか?ユダとマリアのどちらが正しいのでしょうか?
イエス様のお言葉にその判断の鍵があります。6節を見てみましょう。イエス様はマリアに軍配を上げられました。「イエス様のための良いこと」が行動の動機となっているか、吟味されなければならないのです。
また、8節によれば、マリアは「自分に出来ること」すなわち香油注ぎを実行しました。香油塗りは当時の埋葬に欠かせませんでした。しかしこの数日後のイエス様の埋葬は、時間がなくそれが出来ませんでした。それゆえこの香油注ぎは「埋葬の準備」になったと、イエス様は言われました。実際、そこまではマリアにも分からなかったでしょう。しかし「自分に出来ること」をした結果、彼女は重要な役目を果たすことになったのです。
「今、この私でなければできないこと」それが私たちにもあるはずです。人から理解されなくても、イエス様はすべてをご存知です。イエス様はマリアを讃えて9節「まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えらえるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」とおっしゃいました。まさに今、そのようになっています。
偽善的な冷めた信仰からは、こうした麗しいわざは決して生まれません。イスカリオテのユダはこの後、祭司長たちのところに行きました。それはイエス様を売り渡すためでした。殺人者たちの手引きをして、利を得ようとしました。裏切りです。しかしこの裏切りはやがて、ユダに利得どころか破滅をもたらします。ルカの福音書は、ユダに「サタンが入った」ためだと記しています。サタン、すなわち悪魔に付け込まれるのが偽善的、表面的な信仰です。心の内側に罪を温存しておくのは何と恐ろしいことでしょうか。
ユダのように悪魔に付け込まれないためにも、私たちは裏表のない真実な信仰を持つことが大切です。「主に喜ばれること」を吟味するとは、自分の信仰の在り方を吟味することに他ならないと教えられます。私たちを愛して十字架に死んでくださったイエス様です。このお方に喜んでいただく信仰を持って、自分に出来る善きわざに励んで参りましょう。
<祈り>神様、兄弟姉妹と共に礼拝が出来る恵みを感謝いたします。マリアの香油注ぎを通して、主に喜ばれることを見分けてお仕えしたいと教えられました。あなたは何を喜ばれるでしょうか。この受難節、私があなたにお捧げすべきは何かを、どうぞ教えて下さい。裏表のない、純粋な信仰を今一度与えて、マリアにならうものとならせて下さい。御名によってお祈りいたします。アーメン。