2022年4月3日(日)礼拝説教 ヨハネ13章1-15節 「私たちに示された愛」 説教者 赤松勇二師

<子どもたちへ>

 春休みに入り一週間が過ぎましたね。皆は、どんな春休みを過ごしていますか?4月になったので、みんなは一つ学年が上がりましたね。まだ実感がわかないかもしれないけれども、3月まで小学5生の人は6年生になります。6年生だった人は、中学生になりますね。今日、進級式をします。これからの一年、みんなどんなことを経験することになるでしょうか。新しい一年が神様によって素晴らしい一年となるようにお祈りします。
 しばらく前から、イエス様の最後の一週間について学んでいます。先週は、イエス様がべタニア村におられた時の食事の席で、マリアがイエス様にナルドの香油を注いだという出来事を学びました。今日は、そのあとの事になります。エルサレムでの過越しの食事をしている時の出来事を見る事にしましょう。

 イエス様は、二人の弟子たちをエルサレムに遣わして、過越しの食事の準備をさせました。過越しの祭りは、ユダヤ人たちにとって、とても大切な祭りです。その時には、特別な食事をする決まりとなっていました。イエス様と弟子たちも過越しの特別な食事をするのを楽しみにしていたことでしょう。「いやー、今年も過越しの祭りがやって来た!今日は、過越しの食事だ!」を弟子たちは、やや浮かれ気分です。

けれどもイエス様にとっては、今回の過越しの食事はさらに特別な意味を持っていました。それは、イエス様が十字架にかかる前の最後の食事となったからです。イエス様は、そのことをご存じで、弟子たちと特別な時間を過ごしていました。そしてイエス様は、この過越しの食事を通して大切な事を弟子たちに伝えることにしていました。
 イエス様は、食事の席から突然立ち上がり、何かの準備を始めます。どんなサプライズがあるのでしょうか。突然のイエス様の行動に弟子たちは、それを見守る事しかできません。弟子たちは、イエス様のしておられることが良く理解できませんでした。

 イエス様は、上着を脱いで、腰に手ぬぐいを巻いて、たらいに水を汲みました。これから何かをするのでしょうか。イエス様は、水の入った、たらいを持って弟子たちの所に行って、なんと足を洗い始めたのです。これには、弟子たちは目を丸くしてびっくりです。だって、足を洗うのは奴隷のする仕事だったからです。でもイエス様は、黙々と弟子たちの足を洗うのです。イエス様が、ペテロの所に来た時、ペテロは、「イエス様が、私の足を洗う必要はありません。そんなことはしないでください。」と言いました。「さすがペテロ!」ペテロは、師であり先生であるイエス様に自分の足を洗わせることなど出来ないと思ったのです。当然ですね。でもイエス様は、「洗わないでください」と言ったペテロに対して、「もしわたしが洗わなければ、わたしとあなたは何の関係もない」と言いました。ペテロは、「何も関係がなくなる」と言われ、焦ったのでしょうね。とっさに「では、足だけではなく、手も頭も洗ってください」と言ってしまったのです。ペテロは、イエス様のしておられることを理解出来なかったのです。でもどうしてイエス様は、突然このようなことをしたのでしょうか。

イエス様は、弟子たちの足を洗うという事で、イエス様の十字架の救いの恵みを伝えようとされたのです。イエス様は、僕たちの罪が赦され、きよめられ、救いを受けられるように十字架に進んで行かれました。誰でもこのイエス様の救いの恵みを受ける時、イエス様との素晴らしい関係が与えられ、罪の赦しを受けることが出来ます。皆は、イエス様との特別な関係を持っているでしょうか。イエス様の与えてくださる救いを受けていきましょう。

もう一つイエス様が弟子たちの足を洗った事には意味がありました。イエス様は、弟子たちの足を洗い終わった後、「あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません(14)」と言われました。イエス様が弟子たちの足を洗ったという事は、イエス様が弟子たちに仕えられたという事なのです。弟子たちは、この時どんなことを考えていたかと言うと、「弟子たちの中で誰が一番偉いか」を議論していたのです。イエス様は、その様子を知っていて、「お互いに仕え合い、愛し合いなさい」と教えたのです。これは、イエス様の愛の姿を模範として始めて可能となることです。
 僕たちは、イエス様の愛に感謝し、イエス様の十字架の救いを信じ、イエス様のお姿を模範として、お互いに仕え合い、愛し合う歩みをしましょう。

 祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が弟子たちの足を洗った出来事を学びました。イエス様が、僕たちのために命を投げ出し、救いを与えてくださることを感謝します。僕たちは、救い主イエス様を心の中心にお迎えします。
 イエス様の愛の模範として、互いに仕え合い、愛し合う事ができるように導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「さて、過越の祭の前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。・・・。
主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いの足を洗い合わなければなりません。」 
                  ヨハネの福音書13章1,14節

<適 用>

 4月になり、2022年度がスタートしました。今年度もよろしくお願いします。この時期になると、私たちの目は梅から桜へと移って行き、つつじ、紫陽花などと次々を咲き始め、お花見シーズンに突入です。私たちは、毎年花の季節を迎えますが、時には花だけではなく何かの思い出と共に記憶に残ったりします。私は、高校生の時に部活でした花見を忘れることが出来ません。と言っても花は殆ど見ていないで、歌って食べて盛り上がったという思い出です。
 先週、福音が語られる時、マリアのしたことも記念として語られるというイエス様の約束を見ました。イエス様の十字架の後、弟子たちは、過越しの祭りをマリアのナルドの香油の香り、そして今日開いた出来事(イエス様の洗足)と一緒に思い出したのではないでしょうか。

Ⅰ;最後まで愛し抜かれた愛

 イエス様が私たちに示してくださった愛は、「最後まで(残るところなく)愛し抜かれた愛」でした。イエス様は、その生涯を通して神の国を語り、ご自身の愛を示しておられました。それは、本当に素晴らしいものです。イエス様は、多くの人の病を癒し、悪霊を追い出し、慰めを与えました。またイエス様は、神様からの救いの恵みと永遠の希望を語られました。その一つ一つの事を通して私たちは、イエス様の愛を知ることが出来ます。それらの事に加えてイエス様は、地上の生涯の最後の最後に弟子たちにご自身の愛を示されたのです。それは、ユダヤ人にとって大切な「過越しの祭り」の前の出来事でした。4つの福音書の内、マタイ、マルコ、ルカは、最後の晩餐での聖餐式の制定とゲッセマネの園での祈りについて記しています。けれどもヨハネは、それらについては触れず、最後の晩餐の一つの出来事を記すのです。

 イエス様は、今まで過越しの祭りを守るために何度もエルサレムに上っていたでしょう。けれども今回の過越しは、イエス様にとって重大な意味を持っています。1節にあるようにこの時は、イエス様が「この世を去って父のみもとに行く時」、イエス様が、人類を罪の滅びから救うために十字架にかけられ、死なれる時が来たのです。その神の時を知ってイエス様は、ご自分の弟子たちに愛を示してくださったのです。ヨハネは、それを「最後まで愛された」と言います。イエス様は、ご自身の愛をすべて表現しようとされたのです。

 けれどもイエス様が、ご自身の愛をすべて示したのは、弟子たちが完全だったからではありません。イスカリオテのユダは、悪魔の誘惑に負けてイエス様を裏切る決意をしていました。最後の晩餐の席でのイスカリオテのユダは、イエス様をどのように祭司長たちに引き渡すことが出来るだろうかと考えていました。他の弟子たちは、弟子仲間の中で誰が一番偉いのかという議論をしていたのです。イエス様を取り巻く弟子たちは、イエス様の言葉の意味を理解していたわけではありませんし、イエス様の思いに答えていたわけでもありませんでした。イエス様は、弟子たちが不完全で、不十分であっても、弟子たちを愛し続けておられたのです。それは、弟子たちがイエス様の十字架と復活を理解し、彼らの生き方が変わるためです。
 そしてもう一つイエス様は、イスカリオテのユダがイエス様の愛に触れて方向転換することを願っていたのではないでしょうか。けれどもイスカリオテのユダは、その決意を変えることがありませんでした。

 イエス様の愛は、私たちにも注がれています。私たちの状態は、弟子たちと同じようなものではないでしょう。私たちは、神様の言葉、イエス様の言葉を十分に理解しているわけではありません。いつも神様に喜ばれることをしているのか考えると、恥ずかしくなります。けれどもイエス様は、私たち一人一人を愛しておられます。このイエス様の愛は、愛される資格のない者を愛する深く大きな変わることのない愛なのです。その究極の現われが十字架です。イエス様の愛は、私たちのためにいのちを捨て、私たちを罪から救うというほどに大きく深い愛なのです。私たちは、このイエス様の愛に答えて歩みましょう。

Ⅱ;徹底した愛

 イエス様が私たちに示された愛は、「徹底した愛」でした。1節の「最後まで愛された」という言葉は、「極みまで、徹底的に」「この上なく愛し抜かれた」「この上なく最後まで」と訳すことが出来ます。イエス様の愛は、中途半端ではなく、最後まで貫かれた愛であり、私たちの状態がどうであれ、イエス様は私たちを徹底して愛し抜いてくださるのです。私たちが、イエス様の愛を感じることが出来ない時でさえ、イエス様の愛は変わらずに注がれているのです。イエス様は、そのような徹底した愛を一つのことで示してくださいました。

 この最後の晩餐の席で、イエス様は突然立ち上がり上着を脱ぎ、手ぬぐいをお取りになりました。そしてたらいに水を入れ弟子たちの足を洗い始めたのです。これは、しもべや奴隷がする仕事であったために弟子たちは驚きあわてました。けれども誰もイエス様を止めることはありませんでした。ただペテロは、イエス様に足を洗ってもらうなど出来ないと断りました。でもイエス様が足を洗わなければ、ペテロとイエス様との関係が破綻すると聞いて、結局ペテロは足を洗ってもらうのです。こうして、イエス様は、すべての弟子たちの足を洗いました。

 実は、イエス様が弟子たちの足を洗ったのには、非常に重要な意味があります。この時の弟子たちは、先ほど言ったように、ひとりはイエス様を裏切る決意をし、他の11人は、弟子たちの中で誰が一番偉いのかという議論をしていたのです。弟子たちは、イエス様がどのような思いでおられるのか、これからイエス様が経験する十字架の苦しみなど考えもしませんでした。彼らは、自分のことしか考えていないのです。そのような弟子たちに対して、イエス様は、「わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています(ルカ22:27)」と言われました。そうしてイエス様は、弟子たちの足を洗ったのです。イエス様は、このことを通して、イエス様ご自身が人類の罪のために自分のいのちを犠牲にして、救いのために謙遜を尽くして仕える者となることを示されたのです。先ほども言いましたように十字架が、イエス様の愛の究極の現われなのです。ですからペテロがイエス様に洗ってもらうことを拒んだ時イエス様が、「何の関係もありません」と言ったのは、イエス様が十字架で示してくださった愛を拒む者は、イエス様と何の関係もないということなのです。イエス様が徹底的に、最後までとことんまで愛を示してくださった十字架の愛を、私たちが謙遜に受け入れるならば、私たちの罪は赦され、きよめられるのです。私たちには、イエス様の十字架以外の救いの方法はありません。

 また忘れてはならない事があります。それは、イエス様がイスカリオテのユダの足も洗ったという事です。裏切ると分かっている者の足を洗うイエス様の心の内には、どのような気持ちがあったでしょうか。イエス様は、「ご自身の愛を分かってもらいたい、イエス様の愛に立ち返ってもらいたい」という思いで、イスカリオテのユダの足を洗ったのではないでしょうか。しかしユダは、イエス様の愛を受け入れることをせず、心が変わることはありませんでした。

イエス様は、今、同じような徹底した愛を私たち一人一人に示してくださっています。私たちは、弟子たちのように自分勝手な思いに支配され、神様の御言葉に心が閉ざされていることがないでしょうか。イエス様は、あなたに愛の御手を指し伸ばしておられます。もし今、神様によって罪が示されることがあるなら、今、神様に背を向け、神様を無視していることが示されるなら、イエス様に目を向けましょう。イエス様は、私たちが罪人であるからこそ、私たちのために十字架にかかってくださいました。イエス様は、いのちを投げ出す程に私たちを愛してくださっています。またもし、自分の人生と神様の導きがどのように関わっているのか全く分からないと言うことがあるでしょうか。イエス様は、あなたの人生に寄り添い、愛を持って導いてくださっています。イエス様は、私たち一人一人を、最後まで、徹底的に、どこまでも愛し抜いてくださるお方です。

Ⅲ;イエス様に倣おう

 私たちは、イエス様が、私たちに示された愛を模範として、イエス様に倣う者となりましょう。
 イエス様は、弟子たちの足を洗い終わり、13-15節のように言われました。14節を読みましょう。「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」

 私たちは、芸能の世界でも、スポーツの世界でも、芸術の世界でも、弟子が師匠を見て、まねをして上達することを知っています。弟子は、師匠の姿を通して学び、師匠を模範して、師匠のようになることを目指します。
 弟子たちも私たちもそうです。イエス様は、自ら進んでしもべとなって、ご自身の愛を示されました。イエス様は、謙遜を尽くしいのちを捨てて救いの道を開き、罪人を愛するという徹底した愛を示してくださいました。私たちは主イエス様の弟子ですから、イエス様を模範として歩むことが必要です。「互いに足を洗い合うべき」というのは、実際に足を洗う行為というよりは、お互いにへりくだり、仕え合うように、愛し合うようにということです。

私たちは、イエス様が私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うこと、互いの得を高め、互いのためになることを心がけることが大切なのです。あなたの愛は、独りよがりな自分勝手な愛ですか。それとも、イエス様を模範とした愛の実践となっているでしょうか。
 私たちは、イエス様の弟子となって、徹底的に愛されていることを感謝し、イエス様の愛を模範として歩みましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が、最後まで徹底的に弟子たちを愛したように、私たちも徹底的に、愛してくださることを感謝致します。イエス様が、罪に満ちた私たちのためにご自分の命を投げ出し十字架にかかってくださり、救いの道を与えてくださった事を心から感謝致します。イエス様の救いを信じます。イエス様、私たちの心を救いの恵みと愛で満たしてください。そして、イエス様の愛を模範として仕え合い、愛し合うことが出来ますように導いてください。世界中にイエス様の愛が満ち溢れ、平安で包まれますようにとお願い致します。
 神様、2022年度の一人一人の歩みを祝福し、恵みを注いで導いてください。この祈りをイエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」