2022年4月10日(日)礼拝説教 マタイの福音書27章27-44節 「ゴルゴタの十字架」説教者:赤松勇二師 CS説教:赤松由里子師

<子どもたちへ>赤松由里子師

2022年度が始まりました。皆さんもそれぞれ、新学期が始まりましたね。神様の恵みの中で1年が祝福されたものになるよう祈っています。
さて、今日は教会歴では「シュロの主日」に当たります。ロバの子に乗ってのイエス様のエルサレム入りを、人々がシュロの葉を道に敷いて歓迎した日です。そして今日からの1週間が受難週、金曜日はイエス様が十字架に死なれた受難日です。今日はイエス様の十字架のお話をします。

 このボロボロになって苦しそうに十字架を運んでいるのは誰でしょう?そう、イエス様です。何があったのでしょうか?
この前の日、最後の晩餐のあとでイエス様は逮捕されてしまいました。悪いこともしていないのに、祭司長たちに命を狙われていたのでしたね。捕まったイエス様を死刑にすることが、先に決まっていました。真夜中から朝にかけて、何回もでたらめな裁判が行われて、ついに十字架にかけられることになってしまったのです。

 イエス様の体はムチうたれて傷だらけでした。頭にはトゲトゲのいばらの冠が押し付けられて、血が流れています。夜も寝ていないのでフラフラです。とうとう死刑場であるゴルゴタの丘まで歩けずに、動けなくなりました。兵隊が言いました。「おい、もう歩けないのか?よし、そこの男、代わりに十字架を運べ!」ちょうどそこにいたシモンという人が代わりに十字架を背負いました。ゴルゴタの丘に着くと、イエス様は2人の強盗と一緒に、手と足を釘で十字架にうちつけられてしまいました。

 苦しむイエス様を見ていた人たちは、ひどいことを言いました。「お前は神の子なんだろう?自分で十字架からおりてみろ!」「神様のお気に入りなら助けてもらえるんじゃないか?」「そうだそうだ!」といって馬鹿にして笑う人もいます。そのうち悪いことをして十字架にかけられていた強盗まで悪口を言い始めました。

 お昼の十二時からは突然太陽が隠れて真っ暗になり三時まで続きました。イエス様はこう叫びました。「私の神様、どうして私をお見捨てになったのですか」。そしてもう一度大声で叫んで息を引き取ったのでした。その時大地震が起きました。また神殿の奥の聖所で垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。岩が割れ、不思議なことが色々置きました。これを見たローマの百人隊長や見張りの人たちは怖くなって、「この人は本当に神の子だったのだ」と言ったそうです。イエス様のお体は、アリマタヤのヨセフという人が引き取って、新しいお墓に葬られました。

 皆さん、イエス様はどうしてこのような死に方をされたのでしょうか?イエス様は神の子です。馬鹿にした人たちが言うように、その気になれば天使を呼んで十字架から降りることが出来たはずです。それをせず、死を受け入れた理由を聖書は教えています。今日のみことばを読みましょう。「キリストは、すべての人のあがないの代価としてご自分を与えて下さいました」(Ⅰテモテ2:6)。「すべての人」には私たち一人ひとりも含まれています。すべての人は罪を犯した、というのが聖書の教えです。その罪人の身代わりに、神様の罰を引き受ける。それが「あがない」ということです。身代金とか、買い取るための代金、という意味です。本当に神様から見捨てられなければならないのは、罪を犯した者です。イエス様が命を捧げて下さったおかげで、私たちに救いの道が開かれました。あなたはこれをどう受け止めるでしょうか。イエス様を救い主と信じ、差し出された救いを受け取って行きましょう。これが聖書の教え、教会で教えられているうちの、いちばん大切なことなのです。

<祈り>
神様。私たちの身代わりに命を捧げて下さったイエス様に感謝いたします。私はイエス様を救い主と信じます。どうぞ罪の赦しを与えて、神様の子供にして下さい。御名によってお祈りします。アーメン。

「キリストは、すべての人のあがないの代価としてご自分を与えて下さいました」
                              テモテへの手紙第一2章6節
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
                               ルカの福音書23章34節

<適 用>赤松勇二師

 十字架と似ているマークを皆さんは良く目にすると思います。「赤十字」のマークです。どんな激戦地でも敵味方関係なく、赤十字のマークの付いた車両、建物は攻撃してはいけないと決められています。そのマークのもとに行けば、誰もが守られ助けられることとなっているのです。
 ゴルゴタの十字架は、どこでも、いつでも全ての人のために掲げられています。イエス様の十字架を仰ぎ、信じる時、誰もが罪の赦しを得ることが出来るのです。今日から受難週となります。私たちは、ゴルゴタの十字架に目を向けて行きましょう。

Ⅰ;黙して進まれ、苦しみをそのままお受けになった

 イエス様は、ゴルゴタの十字架に黙して進まれ、そして十字架の苦しみをそのままお受けになりました。イエス様は、最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で父なる神様の御前に祈り、神様の御心に従う力を得ました。そこに12弟子のひとりであるイスカリオテ・ユダに率いられて来た群衆がやってきて、イエス様を捕らえました。そしてイエス様は、大祭司の家に連れていかれ、真夜中の不正な裁判をお受けになりました。祭司長たちは、すぐにでも取り調べを行い、イエス様を訴えるために夜中のうちにイエス様を死刑に定める必要があったのです。こうしてユダヤの最高議会は、イエス様を死刑にするために協議し、ユダヤの総督であったピラトに訴えることにしたのです。この当時ユダヤ人たちが死刑執行するためには、ローマ政府の許可が必要だったので、彼らはどうしても総督ピラトの判決を必要としていたのです。イエス様は、真夜中の裁判の中でも、ピラトの前でも必要なこと以外は、お答えにはなりませんでした(マタイ27:11-14)。イエス様は、神様の救いのみわざの実現のために、すべてを神様の御手に委ねて、黙して進んで行かれたのです。

 ピラトは、イエス様を取り調べますが、何も罪を見出すことが出来ませんでした。ピラトは、イエス様の無罪を認めて、何とか釈放しようと試みていました。(「ピラトは祭司長たちや群衆に、『この人には、訴える理由が見つからない。』と言った。」ルカ23:4)群衆は、それでもイエス様の死刑を求めました。そこでピラトは、過ぎ越しの時に一人だけ恩赦を与えるという習慣を利用してイエス様を釈放しようとします。けれども、祭司長たちは群衆を扇動して、イエス様の十字架を求め、バラバの釈放を求めたのです。一度騒ぎ出すともう収集がつかないのが群衆です。群衆は、イエス様の十字架を叫び続けました。ピラトは、暴動になることを恐れ、イエス様を鞭打ちにしてから、祭司長たちに引き渡しました。この時のむち打ちは、手を縛られ、身動き出来ないような姿勢にし、骨など硬い突起物のついた鞭を振り下ろすというものでした。鞭が振り下ろされるたびに、突起物がイエス様の体に刺さり、引き抜かれることになりました。それだけで死んでしまう人がいたほどだと言われている鞭打ちでした。こうして、イエス様は、ボロボロの体で、もう立っているのも無理な状態で、十字架を背負って、ゴルゴタに向かっていかれました。

 鞭打ちだけではなく、イエス様は、人々に叩かれ、ののしられ、唾をかけられ、馬鹿にされたのです。イザヤは、救い主について「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない(イザヤ53:7)」と預言していました。その通りにイエス様は、人々の叫びやののしり、あざけりに反論せず、黙って、まっすぐ十字架に向かって行かれたのです。 そしてイエス様は、十字架の苦しみをそのままお受けになりました。イエス様が、十字架を背負いゴルゴタに向かって行く途中、群衆の中にいたクレネ人シモンが代わりに背負うことになります。それでもイエス様は、傷だらけの体で、体力の限界の中、歩いてゴルゴタに進まれました。ゴルゴタは「どくろ(頭蓋骨)」を現すヘブル語で、このゴルゴタの丘でイエス様は、十字架につけられました。

 その時イエス様は、苦みを混ぜたぶどう酒をなめただけだったと言われています(34)。この「苦みを混ぜたぶどう酒」は、一種の麻酔薬のような効果があり、十字架の痛み苦しみを和らげるために与えられていたようです。イエス様は、この麻酔効果のあるぶどう酒を飲もうとはされませんでした。普通なら、それを飲むのです。しかしイエス様は、毅然としてそれを拒否したのですから、実際に十字架刑を執行していたローマ兵は驚いたことでしょう。こうしてイエス様は、両手、両足を十字架にくぎ付けにされました。どうしてイエス様は、この苦みを混ぜたぶどう酒を飲まなかったのでしょうか。
 それは、十字架の苦しみをそのままお受けになるためです。イエス様は、罪に対する神様の裁きを少しも和らげることなく、麻酔薬で打ち消すことなく、そのままお受けになったのです。イエス様は、十字架という杯をすべて受けてくださったのです。イエス様は、神様の裁きを全部受けてくださったのです。そして父なる神様もまた、ひとり子であるイエス様の十字架をじっと見ておられたのです。何のためでしょうか。

Ⅱ;私のための十字架

 それは、私たちのためです。イエス様のゴルゴタの十字架は、私たちのための十字架です。福音書を読んでいくと十字架の上でイエス様は、7つの言葉を発したことが分かります。その一つは、ルカの福音書23章34節の「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」という祈りです。このイエス様の祈りは、世界中の全ての人のためであり、今の私たち一人ひとりのための祈りです。なぜなら、私たちもまた、「自分が何をしているのか分かっていない」からです。私たちは、自分が罪人であることを分かっていません。分かっていませんでした。私たちは、具体的な犯罪を犯すことがなくても、神様に対して誰でも罪人です。聖書で言う罪は、神様の基準から外れることです。とすれば、人は誰もが神様の基準から外れています。しかも人は、神様の基準から外れていることを知りません。私たちは、神様を知るまで、自分が神様に対して背を向けていることを知らなかったでしょう。聖書の御言葉を学ぶまで、自分が自己中心でいることを理解していなかったはずです。そして、福音を知るまで、神様の愛に気付かず、神様の愛を分からず、神様の恵みも知らなったのです。それが、人の罪なのです。神様は、罪に対しては裁きを定めておられます。「すべての人は罪を犯して、神の栄誉を受けることが出来ず」にいます(ローマ3:23)。イエス様は、このように神様の愛を知らず、神様の基準を理解せず、神様の導きを分からずにいた私たちのために十字架で神様の裁きを受けて死なれたのです。私たちは、イエス様の祈りの「彼ら」のところに自分の名前を入れて読みましょう。

 さらにイエス様の十字架上での言葉のもう一つを見ましょう。マタイ27章46節「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」です。これは、詩篇22篇1節の引用です。この叫びは、私たちが絶望のうちに叫ばなければならないものでした。神様の御前に罪があるのは私たちです。神様の愛を知らず、神様を否定し、背を向けて歩んでいたのは私です。罪のゆえに捨てられ、裁かれるべきは、私たちです。けれどもイエス様は、私たちが神様に見捨てられ絶望しなくても良いように、この叫びを引き受けてくださったのです。イエス様は、神様の御前に正しく歩み、まったく罪のないお方でした。聖く、傷のない、イエス様は、私たちの罪を背負い、罪の罰を身代わりに受けてくださったのです。だから私たちは、「自分は罪のために裁かれなければならない、自分はもうだめだ」と絶望する必要はありません。イエス様が、私たちの罪のために、罪の罰を受け、神様に捨てられ、裁きを受けてくださったのです。誰でもイエス様の救いを受けることが出来ます。

 このように人類の全ての罪を背負い十字架にかけられているゴルゴタの十字架の下では、人々がイエス様を馬鹿にしていました。道を行く人は、イエス様を見て、「頭を振りながら、ののしり」ました(27:39)。また祭司長たちは、「もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。…他人は救ったが自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。(40-43)」とあざ笑います。イエス様が十字架から降りることは簡単なことです。イエス様が自分を救うことなどすぐにでも出来ることでした。イエス様は、神の子として人々を裁き、滅ぼすことなど簡単な事でした。
 けれどもイエス様は、どんなにののしられ、笑われ、馬鹿にされても、十字架を耐え忍ばれました。なぜなら、イエス様が十字架から降りてしまったら、罪の赦しは完成しないからです。イエス様が、自分を救ってしまったら、私たちの罪はそのまま残り、赦しと救いはなくなってしまうのです。このイエス様の十字架の贖い、身代わりの死があるから、私たちは、絶望ではなく、救いと永遠の希望を与えていただくことが出来るのです。そのためにイエス様は、十字架にかかり死なれ、ほむられ、三日目によみがえってくださったのです。このよみがえり(復活)については、来週見る事にしましょう。

 今、十字架をアクセサリーとして身に着ける人が多くいますが、イエス様の当時は考えられないことでした。なぜなら十字架は、死刑の道具であり、呪いの印だったからです。しかし現代では、誰もが身に着けたいと思うファッションとなっています。それは、イエス様の十字架によってその意味が変わったからです。十字架は、呪いの印でしたが、神様の愛と恵みの印となりました。十字架は、処刑の道具でしたが、罪からの救いと永遠の命の希望を与える印となりました。ゴルゴタの十字架は、私たち一人一人の心に救いと平安と愛と与えるのです。
 ゴルゴタの十字架は、私たちのための十字架でした。イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかり、死んでくださいました。神様に裁かれるべきなのは、私たち一人一人です。けれどもゴルゴタの十字架は、神の裁きや滅びの絶望ではなく、私たちが赦しと永遠の希望を得るためのものでした。イエス様は、十字架の上で「父よ、彼らをお赦し下さいとあなたのために祈ってくださいました。

 今、あなたは、この十字架による救いを受けていますか。自分の罪を悔い改め、イエス様の十字架の救いを信じるなら、あなたの罪は赦されます。私たちは、絶望ではなく救いを、滅びではなく永遠の希望を、呪いではなく神様の愛と恵みと平安を与えて頂くことが出来ます。
 今日、私たちは、信仰をもって祈りましょう。すでにイエス様を信じている人は、信仰の確信を持って祈りましょう。今、イエス様の十字架の救いを受けたい、罪を赦して頂きたいと願う人も、一緒に祈りましょう。皆で声に出して祈りましょう。私の後について祈ってください。
「愛する天の父なる神様、イエス様が私の罪のために、私の罪の罰を全部背負って十字架にかかってくださったことを感謝致します。ゴルゴタの十字架は、私の罪のためであることを信じます。神様、私の罪をお赦し下さい。十字架の血潮によって私の心をきよめてください。救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、イエス様の十字架によって、絶望や滅びではなく救いを与えられ、呪いではなく愛と恵みと平安を与えていただけることを感謝致します。
 神様、今、祈りました一人一人の心に続いて御手をさしのべてください。神様、私たちの心を赦されている喜びで満たしてください。一人一人の生活が守られますように。
 神様、今世界は混乱しています。どうか憐れんでくださり、天からの恵みと平安のうちに導いてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」