2022年4月17日(日)礼拝説教 マタイの福音書28章1-10節 「復活されたイエス様」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 「ハッピー・イースター!」イエス様は、復活されました。イースターおめでとうございます。「イースター」という言葉は、教会に来ていない人でも知っていたり、聞いた事のある人がたくさんいます。ディズニーランドでは、イースターの時期に「ディズニー・イースター」という特別な企画を行っています。今年は3年ぶりに行われているようですね。また、「イースター」というと「ピーターラビット」と言う人もいるかもしれませんね。いろいろな形でイースターが祝われているような気がします。では、イースターとはいったいどんなことなのでしょうか。そこには、どのような意味があるのでしょうか。

 イースターは、イエス様の復活を感謝しお祝いする日の事です。イエス様は、十字架にかけられ、死なれお墓に葬られました。そして三日目によみがえってくださったのです。ユダヤ人たちの一日は、日没から日没までとなっています。ですから木曜日の日没から金曜日の日没までが一日目となります。丁度、最後の晩餐から、逮捕、不当な裁判、ピラトの裁判、むち打ち、十字架刑と死、埋葬が木曜日の夜から金曜日の日没までの出来事となります。金曜日の日没から土曜日の日没が2日目です。そして土曜日の日没から3日目になり、日曜日は3日目となります。この3日目にイエス様はよみがえられたのです。

 イエス様の埋葬からのことを見てみましょう。土曜日(2日目)に祭司長たちが総督ピラトの所にやって来て言います。「イエスは、3日目によみがえると言っていました。そこで、イエスの墓の入り口の石を誰も開けられないように封印して、ローマの兵隊に墓の番をさせたいのです。イエスの弟子たちがイエスの体を盗み出して、イエスがよみがえったと言わないようにしなければなりません。」祭司長たちは、「三日目によみがえる」と言っていたイエス様の言葉をしっかり覚えていました。ピラトは、「ローマ兵を墓の番に出すから、しっかりと番をするようにしなさい。」と許可しました。当時のお墓は、洞窟のようになっていて、入り口には大きな石で蓋をしていたのです。こうして、イエス様のお墓の入り口の石は誰も開けられないように封印がされ、ローマ兵が番をすることになり、誰も近づけなくなりました。

 イエス様の弟子たちは、悲しみのあまりイエス様の言葉を忘れてしまって、イエス様のよみがえりを信じていませんでした。日曜日の朝の早い時間に、イエス様に従っていたマグダラのマリアはじめ数人の女性たちが、イエス様のお墓に急ぎます。「さあ、イエス様のお体に油を塗ってしっかりとした埋葬をしましょう。」「でも、あの大きな石はどうやってどかしたらいいのかしら?」そんなことを話しながらマリアたちはお墓に急ぎます。すると「ガタガタガタ!!!!」と、大きな地震がありました。彼女たちが慌ててお墓に行くと、お墓の石はどかされていました。御使いが大きな石を転がした時に大きな地震が起きたのです。「まぁー大変、イエス様の体がないわ」「えー、本当だ、イエス様はどこにいってしまったのでしょうか。」びっくりして戸惑っているマリアたちに御使いが言いました。「恐れる事はありませんよ。あなたたちがイエスを捜しているのを知っています。ここにはおられませんよ。前から言っていたように、よみがえられたのです。中を見て確認してごらんなさい。だから、弟子たちにイエスがよみがえったこと、ガリラヤでお会いできることを伝えなさい。」
 マリアたちは、急いで弟子たちの所に向かいます。その途中で、なんとイエス様ご自身がお姿を現されました。本当にイエス様は、よみがえったのです。

そのころ、番兵たちは、祭司長たちに「御使いが突然現れ、石がどかされ、イエスがよみがえりました。」と報告しました。「困ったことになった。そうだ、弟子たちがイエスの体を盗んだことにしよう。」そう考えた祭司長たちは、兵隊にお金を渡して嘘を広めることにしたのです。

 今日、みんなに覚えてほしいことがあります。イエス様は、僕たちの罪のために十字架につけられ、お墓に葬られました。けれどもイエス様は、3日目に永遠の命をもってよみがえり、今も生きておられます。そしてイエス様は、信じる全ての人の罪を赦し、永遠の命を与え、天の御国への約束を与えてくださるのです。救い主イエス様を信じて、永遠の命の約束を与えて頂きましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、イエス様の十字架の救いを感謝します。そしてイエス様が三日目によみがえってくださった事を感謝します。今も生きておられるイエス様を信じます。どうそ僕たちを導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。」
                              マタイの福音書28章5-6節

<適用>

 数年前に、イースターの時期にスーパーに買い物に行った時の事です。そのお店では、卵のセールをしていました。どうしてかわかりますか?店内では、「イースターには卵料理を食べましょう」と放送が流れていました。なんと、イースターエッグから卵料理になってしまったのです。衝撃でした。私たちは、死を打ち破って復活されたイエス様の恵みを覚えて過ごしましょう。

Ⅰ;空の墓

 イエス様の納めてあった墓は、空になりました。これがイエス様のよみがえりの確かな証拠となりました。もう一度振り返りましょう。
 イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかり、死なれ、葬られました(マタイ27:57‐66)。イエス様のお墓の大きな石には封印がされ、ローマの兵隊によって厳重に監視されることとなります。

 3日目の朝の事です。明け方早く、マグダラのマリアとほかのマリアたちが、イエス様の埋葬されている墓にやってきました。彼女たちは、「三日目によみがえる」と言われたイエス様の言葉を忘れ、理解していませんでした。しかも墓に来ても中に入れる保証はありません。イエス様のお墓には、封印がされ、ローマの番兵がつくという厳重警戒態勢でしたので近づくことさえできないかもしれないのです。しかし彼女たちは、とにかくイエス様のもとに行きたかったのです。恐らく、彼女たちは、慌てて埋葬したイエス様の埋葬を落ち着いて自分たちの手で完全な形にしたかったのだと思います(ルカ24:1)。

 けれども、彼女たちが墓に着いてみると、大きな石がどかされていて、お墓の入り口が開いていたのです。御使いが大きな地震とともに石をわきへ転がしたからです。そして稲妻のように輝く御使いが、石の上に座っていました。御使いは言います。とっても嬉しい知らせです。マタイ28章5-6節を一緒に読みましょう。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。」

 4つの福音書を読んでいると、明らかなことがあります。それは、イエス様の復活が、どのように起きたのかは、書かれていないということです。大きな地震が起こってお墓の石がどかされたのは、イエス様がお墓から出て来るためではなく、そのお墓に来るマリアたちのためだと言えるでしょう。そして、石がどかされたのは、確かにイエス様がよみがえって、お墓が空になったことがだれの目にも明らかになるためです。女性たちは、お墓を見てそれが空になっていることを確認しました。ヨハネの福音書には、「亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった(ヨハネ20:6‐7)。」とあります。これはペテロが確認した事でした。布がそのまま置かれていて、体だけがなくなっていたというのは、イエス様の復活が人の手によらない出来事であったことの証拠です。イエス様は、神の力によって布だけを残してよみがえられたのです。

 イエス様は、復活されました。イエス様のお墓は空になったのです。この事実こそ大切なことです。イエス様は、死に支配されるお方ではなく、死を打ち破ってよみがえられたお方です。そしてイエス様は、今も生きておられます。次にその素晴らしい恵みを見ることにしましょう。

Ⅱ;永遠の希望

 復活されたイエス様は、私たちに永遠の希望を与えてくださいます。御使いの知らせを聞いてマリアたちは、うれしくなりました。しかし半信半疑だったと思われます。「恐ろしくはあったが大喜びで(8)」というのは、女性たちの心の複雑さをうまく表現しています。でも確かにイエス様は、よみがえったのです。イエス様が彼女たちにご自身を現された時、彼女たちは、イエス様の足を抱くことが出来ました。ヨハネの福音書(20:19~)には、復活のあった日の夕方、イエス様が弟子たちに姿を現されたことが記されてあります。イエス様は、突然お姿を現し、十字架の傷痕を示しました。これらのことが示すことは、イエス様が見て触れて確かめることのできる体を持ってよみがえったと言うことです。復活されたイエス様は、確かに復活の体をもってよみがえったのです。

 私たち人間の考えでは、この復活、イエス様のよみがえりを受け入れることは困難のように思われます。しかしパウロが言っているように、復活がなければキリスト教の信仰は空しく、意味のないことになります。(Ⅰコリント15:1-19)。
 ではイエス様の復活には、どんな意味があるのでしょうか。それを知るためにもう一度イエス様の十字架のことを考えてみましょう。イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。聖書は「罪の報酬は死です(ローマ6:23)」と教えています。「罪」とは、神様の道から外れ、神様を認めず無視し、信じないで、自分勝手に自我の中を生きることです。そして神様は、罪に対して裁きを定めておられます。けれども神様は、私たちを裁き、滅ぼすのではなく、イエス様に全ての罪を背負わせ、イエス様を裁いてくださったのです。それがイエス様の十字架の死でした。

 ではもし、イエス様が十字架で死んで、何もなかったら、何も起こらなかったらどんなことになるのでしょうか。イエス様が死んで終わりなら、罪の結果である死は私たちを捕らえて離さず、私たちは、罪人として神様に裁かれ、滅びることになってしまうのです。そこには救いはなく、何の希望もありません。イエス様の復活がなければ、結局人は罪の結果である死を迎えるだけで絶望しか残らないのです。
 けれども御使いは、何と言っているでしょうか。「ここにはおられません。…よみがえられたのです(マタイ28:6)。」イエス様は、死んで終わる方ではありませんでした。イエス様は、罪の結果である「死」「滅び」を打ち破ってよみがえったのです。しかも復活の体、永遠の命をもっての復活でした。弟子たちは、イエス様を見ることが出来ました。触れることも出来たのです。彼らは、そこにイエス様がおられるという存在感、臨在を感じることが出来ました。イエス様は、確かによみがえりました。ここに救いがあります。希望があります。

 今日、私たちは、「召天者記念」の時としても集まっています。私たちは、召された方を思い起こし、その信仰の姿、生前の姿を偲ぶことは大切な事です。その生涯から多くの事を学ぶことが出来るからです。同時に、主にあって復活の希望があり、天の御国での再会の希望が与えられていることを確認する時でもあります。皆さん、私たちは、死んで終わりではなく、死んでも生きる命(永遠の命)が与えられる恵みを受けています。イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ14:6)。」と語り、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです(ヨハネ11:25)」と約束してくださっています。

 確かにイエス様は、よみがえりました。パウロは、「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました(ローマ4:25)」と教えています。イエス様は、私たちの罪が赦されるために十字架で死なれ、私たちが永遠の命の希望を持つことが出来るように死を打ち破り復活されたのです。私たちは、イエス様の復活の命を受け、天の御国への希望を持つことが出来るのです。あなたは、この永遠の希望を持っているでしょうか。

 イエス様が永遠の命を持って復活されたという事は、イエス様が今も生きておられるということです。復活されたイエス様は、今も生きていて、私たちのために執り成してくださり、私たちに恵みを与え、私たちと共にいてくださるのです。だから私たちは、イエス様によって永遠の命の希望を持ち、今を生きることが出来ます。
 よみがえったイエス様は、今も生きておられます。永遠の希望を与えてくださるイエス様の復活の力が一人一人を包み込みますように、私たちのために救いを完成してくださったイースターの恵みが一人一人のうちに豊かにありますようにとお祈りいたします。

 祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が私たちの罪を背負い、十字架にかかってくださったことをありがとうございます。イエス様の十字架の血潮によって、私たちは裁きではなく、赦しと救いを受けることが出来ます。
 イエス様が死を打ち破り、復活されたことを信じます。私たちは、イエス様の復活のゆえに罪の赦しが確かであり、永遠の命、天の御国への約束が確かに与えられることを信じます。復活のイエス様が今も私たちと共にいて下さり、導き、執り成し、守り、祝福を与えてくださることを感謝します。イエス様、今を生きる私たち一人一人に力を、恵みを、愛を増し加えてください。
 コロナ過が続きます。収束へと導いてくださり、一人ひとりの健康を守ってください。世界中に十字架の愛と復活の希望が溢れますようにとお願いします。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」