2022年5月8日(日)礼拝説教 マルコの福音書10章35-45節 「互いに愛し合う」

<子どもたちへ>赤松由里子師

 皆さんは友達や家族からニックネーム(あだ名)で呼ばれることがありますか?勇二先生のお父さんの赤松弘先生は、自分で自分にニックネームをつけています。それによると弘先生は「瞬間湯沸かし器」だそうです。その心は「すぐカーッとなるから」とのことです。自称「短気大学在学中」らしいので、「短気」な自分を自覚しているのでしょうね。
 さて、先週からイエス様のお弟子さんのことを学び始めました。先週はマタイでした。今日は、イエス様からニックネームをつけられた兄弟の弟子のお話をします。その兄弟とは、ヤコブとヨハネです。どんなニックネームでしょうね?見て行きましょう。

 この兄弟はヤコブとヨハネです。ぷんぷん怒っていますね。どうしたのでしょうか?イエス様とお弟子さんたちはエルサレムへの旅をしている途中でしたが、泊まるところが必要でした。イエス様に「先に行ってサマリアの町で泊まるところを探しなさい」と言われて仲間が行ってきたのですが、嫌がられて追い返されてしまったのです。報告を聞いたヤコブとヨハネはカンカンに怒ってこう言いました。「イエス様を断るなんて、ひどい奴らだ。イエス様、天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか⁈」
 イエス様は「そんなことは言ってはいけません」と2人を叱って、別の村に泊まることにされました。この兄弟に、イエス様は「ボアネルゲ」とあだ名をつけていました。「雷の子」という意味です。「ガラガラドッカーン!」と雷を落とす感じの激しい性格だったのです。

 他にもこんなことがありました。イエス様が「私はエルサレムで苦しみを受けて死刑にされ、3日後によみがえります」とお話された時のことです。お弟子さんたちはその意味がよく分からなくて、ヤコブとヨハネは、イエス様にこんなお願いをしました。「先生、イスラエルの王様になる時、私たちをあなたの次に偉い位につけてほしいのです。一人を右側に、もう一人を左側に座るようにしてください。」これは一番偉い大臣にしてほしいということです。十字架の意味ではなく、こんなことばかり考えていたなんて残念です。でも実はほかの弟子たちも同じように偉くなろうとしていたので、「ずるいぞ、ヤコブ!ヨハネ!」と怒りました。みんな似たような考えだったのです。
 でもイエス様は言われました。「それは天の父なる神様のお決めになることです。偉くなりたいのなら、威張るのでなくむしろ人に仕える人になりなさい。わたしも仕えられるためでなく仕えるため、人々の救いのために命を捨てるのですから」。そう言われてヤコブとヨハネは恥ずかしくなったことでしょう。

 12弟子のメンバーの有名な2人ではありましたが、こんな風に課題も色々ありました。けれど、イエス様の十字架とよみがえりの後聖霊様を受けると、ヤコブもヨハネも大きく変えられて行きます。
 ヤコブは迫害されても信仰を捨てることなく、12弟子の中で最初の殉教者になりました。またヨハネは聖書を記しました。ヨハネの福音書、ヨハネの手紙3巻、ヨハネの黙示録などです。その中でヨハネが特に強調した教えが今日のみことばです。一緒に読んでみましょう。「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです」(Ⅰヨハネ4章7節)。イエス様の十字架の愛を知って、愛することの大切さをヨハネは知ったのです。ヨハネはその後「愛の使徒」と呼ばれるようになりました。晩年は島流しにされましたが、最後まで主に仕えました。

 私たちも最初からイエス様にふさわしい性格や価値観を持っているとは限りません。成長が必要で、変えられるべき課題があると思います。でもみんなは育ちざかり、成長ざかりです。神様は、イエス様を信じ従おうとする者を、イエス様に似た者へと作り変えて下さいます。心の深いところまで神様の恵みの取り扱いがあるように、祈って行きましょう。

<祈り>
 神様。礼拝へと導いて下さり感謝します。ヤコブとヨハネを作り変えて下さった神様が、私たちも成長させて下さるようお願いいたします。心のふかいところまで作り変えて下さって、イエス様の愛によって歩めるようお導きください。御名によってお祈りします。アーメン。

「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。」        ヨハネの手紙第一 4章7節

<適用>赤松勇二師

 私は、イエス様をはっきりと信じ高校生まで、愛の足りない者でした。父に似て私は、短気で、怒りっぽく、毎日のように兄弟げんかをしていました。けれどもイエス様を信じて、神様の愛に気づいた時、兄弟と喧嘩し、言い合いをすることが空しい事だと知りました。その時から私は、兄弟げんかをしなくなったのではないかと思います。10代前半の自分を振り返っても、今は、「穏やかなになったなぁ」と思います。でも、まだまだ短気な部分があり、反省することがあります。私は、これからもずっと神様の愛を受けて、変えられ続けなければならないと思わされています。
 今日は、イエス様の愛によって変えられたヨハネの姿に注目しましょう。

Ⅰ;無条件の愛で愛されている

 私たちは、互いに愛し合いましょう。なぜならば、私たちは、神様の無条件の愛で愛されているからです。イエス様の弟子たちは、最初その事が分からず、理解できないでいました。当然ヨハネもイエス様の愛、神様の愛が理解できないでいました。
 ヨハネには、ヤコブと言う兄弟がいて、彼らはイエス様から「雷の子(ボアネルゲ)」というニックネームをつけられていました。イエス様が、そのようなニックネームをつけるほど、この二人は、短気で気性が荒い人たちだったという事です。ある時ヨハネは、イエス様の弟子ではない人が、イエス様の御名を使って悪霊を追い出しているのを目撃しました。そしてヨハネは、「イエス様、あなたの弟子ではなく、私たちの仲間でもない人が、イエス様の御名によって悪霊を追い出しているのを見かけました。自分たちの仲間ではないので止めさせてやりましたよ。」と得意顔で報告するのです。ヨハネは、イエス様の弟子ではない人が勝手にイエス様の御名を使って奇跡を行っていることが気にくわなくて、嫌だったのでしょう(ルカ9:49‐50)。またある時ヤコブとヨハネは、イエス様を受け入れない人たち対して、「私たちが天からの火で焼き滅ぼしましょうか」と激高するのです。

 このようなヤコブとヨハネは、短気なだけではなく、虎視眈々とイエス様の側近としての立場を狙うという野望を持っていました。マルコ10章32節を読むと、イエス様はご自身の時が近づいていることを弟子たちに話したとあります。エルサレムでイエス様の身に起こる事、それは、イエス様の十字架の事です。イエス様は、ご自分が祭司長、律法学者たちに捕らえられ死刑に定められ、異邦人(ローマ人)の手に渡されること、あざけられ、つばきをかけられ、鞭打たれることなど、具体的にお話になりました。この時すでにイエス様の周辺では、不穏な動きがあったことでしょうし、弟子たちもイエス様の態度から危険を感じていたに違いありません。けれども弟子たちは、イエス様が語る十字架の予告の真意を良く理解していませんでした。弟子たちは、イエス様がイスラエルをローマの圧制から解放してくれる救い主と理解し、その日が近づいているとしか受けてとめていなかったのです。イエス様の受難の予告が、どうしてローマ帝国からの解放とつながるのかわかりませんが、弟子たちはそのように理解したのです。

 だから弟子たちは、イエス様の受難の予告を聞いて、誰が一番偉いかと言い争うことしか出来なかったのです。ヨハネとヤコブは、ひそかにイエス様にあることを願い出ました。その願いとは、イエス様が栄光の座につく時(イスラエルの王座に着く時)には、自分たちを右大臣、左大臣にして欲しいと言う願いです。なんと厚かましい、欲望に満ちた願いでしょうか。
 けれどもヤコブとヨハネだけではなく、他の10人を含めて12弟子全員が、自分こそイエス様の左右に座るべきだと思っていたのです。弟子たちは、自分こそ上に立つことが出来る、自分こそイエス様の側近にふさわしいと考えていたのです。ヤコブとヨハネと他の弟子たちは、他者を受け入れることが出来ず、他者を愛するという事に考えが及ばなかったのです。ヤコブとヨハネは、イエス様が教える神様の無条件の愛を理解していませんでした。

 今日5月8日は「母の日」です。6月には「父の日」がありますので私たちは、今日の礼拝を「両親への感謝」を覚え大切にする時としても集まっています。皆さんは、親が子どもを愛することを知っています。親である方は、自分の子どもだから愛するでしょう。親として悲しいことですが、子どもは、親の愛にあまり気づかないものです。でもわが子が反抗期であっても、親の言葉が子どもの心に届かなくても、親は子ども愛することを決して止めません。同じことが神様と私たちとの関係で起こるのです。神様は、私たちを愛することを止めません。たとえ私たちが神様の愛に気づかず、背を向けていたとしても神様は、私たちを愛し続けておられます。皆さんは、その事を分かっているでしょうか。私たちもまたイエス様の愛、神様の愛を知らないのではないでしょうか。

 聖書は、神様が私たちを愛しておられると教えます。しかも聖書を読んでいくと、神様の愛は、無条件の愛だということに気が付きます。神様の愛は、愛される資格のない者を受け入れてくださると言う、広くて、深くて、大きな愛です。私たちは、神様に敵対している者であり、神様の御前に罪がある者です。私たちは、神様の愛を知らず、神様の愛に答える事も出来ず、聖書で教えられている神様の御心に従うことが出来ない愚かで、弱い者です。けれども神様は、聖書を通して私たちを愛していると言ってくださるのです。ヨハネは「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し(Ⅰヨハネ4:10)」と教えています。神様は、私たちの罪を憎まれます。しかし罪人の私たちを憐れんで下さり、愛して下さり、イエス様を送ってくださったのです。私たちは、この神様の愛で愛されています。

Ⅱ;イエス様の愛に満たされて

 私たちは、互いに愛し合いましょう。そのためには、私たちの心がイエス様の愛で満たされることが大切です。私たちの本来持っている「愛」は、自己中心であり、自分の気持ちが優先されるものです。しかしイエス様は、違った愛の基準を持っていました。ヨハネは、それを知り「愛の人」と変えられました。今週の御言葉を一緒に読みましょう。「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者は皆神から生まれ、神を知っています。(Ⅰヨハネ4:7)」これは、イエス様から雷の子(ボアネルゲ)と呼ばれていたヨハネの言葉です。ヨハネは、自分たちの仲間ではないからと言って差別し、弟子仲間であっても他者を蹴落としてまで高い地位を確保したいと画策した人物でした。ヨハネの持っていた愛は、自己中心であり、自己満足であり、自分の気持ちや考えが実現すれば、他の人はどうでも良いと考えていたのです。ちょっと言い過ぎかもしれませんが、彼は、人の気持ちを考えることや相手の本当の必要を見ようとはしなかったのではないでしょうか。そんなヨハネが、どうして「愛」を教える者となったのでしょうか。ヨハネは、イエス様の弟子たちの中で一番長く生きた人だと言われています。そして彼は、ヨハネの福音書とヨハネの手紙、そしてヨハネの黙示録を書きました。その中には、「愛」と言う言葉が多く使われています。雷の子に何があったのでしょうか。

 ヨハネが変えられたのは、彼がイエス様の愛、神様の愛に気づき、知り、信じたからです。Ⅰヨハネ4章7節の続きを読んで見ましょう。「愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって 私たちにいのちを得させてくださいました。それによって 神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめのささげものとしての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:8-10)」

 皆さん、私たちは、「互いに愛し合う」という事が大切だと知っています。しかし知っていることと、それをどのように実践しているかは別な話です。私たちは、「互いに愛し合う」と言った時、そこに何かの基準を持つものです。私たちが愛する時、そこには必ず愛の対象がいます。私たちは、知らず知らずに愛すべき対象とするための基準を持っているものです。例えば「気が合う人なら愛せる」「あの人は親切そうだから受け入れられる」「話しが合うから大丈夫」と言うものです。私たちが冷静に考えると、その基準は、いつも自分の価値観であることに気づきます。それは当然だと言うかもしれません。
 確かに私たちは、気の合わない人や敵対する人には近づきたくありません。別に近づく必要はないかもしれません。けれども敵対したままでよいと言うのではありません。イエス様は、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われました。これがイエス様の愛の姿です。ヨハネは、神様が、罪人を愛し、罪人のためにイエス様をこの世に遣わしてくださったこと、そしてイエス様が、全ての人の罪を背負い十字架で死んで神様の裁きを受けてくださったことを知ったのです。その時ヨハネは、イエス様の本当の愛を知ることが出来ました。イエス様は、誰が一番偉いかを議論していた弟子たちに、「あなたがたの間で偉くなりたいなら皆に仕える者になりなさい(マルコ10:43)」と言われました。そしてイエス様は、ご自分が「仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです(同45節)。」と言われたのです。イエス様は、人々から仕えられる立場であったにもかかわらず、その権利を捨て、全ての人の罪が赦され救いを受けて永遠の命を与えられるために、命を捨ててくださったのです。ここに救いがあり、神の愛があります。

 私たちは、ヨハネのように愛の足りない者であり、神様の愛を知らない者です。けれども神様は、神様の愛を無視し、背を向けている私たちを愛してくださっているのです。イエス様は、誰よりも謙遜で、誰よりも深く大きく広い愛をもっておられます。このイエス様の愛に満たされた時、私たちは愛を実践することが出来るようになるのです。あなたの愛は、独りよがりな自己中心な愛になっていませんか。あなたは、イエス様の愛に満たされ変えられる必要がありませんか。イエス様の愛に満たして頂きましょう。
 私たちは、互いに愛し合いましょう。まず、神様が私たちを無条件の愛で愛してくださいました。そのこと感謝し、イエス様の愛に満たして頂きましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今日、神様の愛、イエス様の愛を教えて下さり感謝致します。神様、私たちの心を神様の愛、イエス様の十字架の愛で満たしてください。そして互いに愛し合う者となさせてください。神様、一人一人の家庭を神様の愛で満たしてください。両親が、神様の愛に満たされ子どもたちを育てることが出来るように導いてください。子どもたちが、親の愛を受け愛の人として成長することが出来るように導いてください。教会が、神様の愛で満たされ、互いに愛し合う神の家族として成長することが出来るように励まし、導いてください。
 それぞれの職場が、平安に満たされ、互いに愛し合い、受入れ合う場となりますように助けてください。そのために一人一人を主の器として用いてください。
 世界を平和で満たし、御心が天で行われているように、地でも行われますようにとお願い致します。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」