2022年5月29日(日)礼拝説教 ヨハネの福音書18章12ー27節 「見捨てず支える主」 説教者:赤松勇二師 CS説教:赤松由里子師

<子どもたちへ>赤松由里子師

 みなさんは「失敗」というテーマのことわざや格言を何か知っていますか?早稲田大学の創設者である大隈重信という人は「諸君は必ず失敗する。…失敗に落胆しなさるな。失敗に打ち勝たねばならぬ。」と言ったそうです。
 聖書の中には、弟子たちの失敗がつつみ隠さず書かれています。中でもペテロには「本当は忘れてしまいたい、隠しておきたい」ような失敗がありました。今日はそのお話を見て行きましょう。

 イエス様が十字架にかかる前の夜のことです。最後の晩餐の席でイエス様は大事なお話を色々なさいました。みんなドキドキして聞いていました。するとペテロに向かってこんなことをおっしゃいました。「ペテロ。あなたは悪魔の試みに会います。でも私はあなたの信仰がなくならないように祈りました。立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」。ペテロはびっくりです。「イエス様、私はあなたとご一緒に命も捨てる覚悟です!ほかの誰がつまずいても私はつまずきません!」。でもイエス様は言われました。「あなたは今日、鶏が鳴くまでに3度わたしを知らないと言います」。

 その後何が起こったかは、受難節の時にお話ししましたね。そう、イエス様は逮捕されてしまい、弟子たちは逃げ出してしまいました。イエス様は一人、真夜中のでたらめな裁判にかけられたのでした。ペテロは捕まったイエス様がどうなったか気になって、こっそり大祭司の家の中庭で様子をうかがっていたのです。
 すると門番の女の人がペテロをじっと見て言いました。「あなたもイエスの弟子じゃないの?」ペテロは慌てて「ちがう、ちがう!」と答えました。焚火にあたっていると、別の人が「あなたもあの人の弟子だろう?」と聞きました。ペテロは思わず「弟子なんかじゃない!」と答えてしまいました。すると今度は別の人が「あなたがイエスと一緒にいるのをみたぞ!」と言ってきました。ペテロが「そんな人は知らない!」と言ったその時です。「コケコッコー!」と鶏が大きな声で鳴きました。さらに、捕まっていたイエス様が振り向いてペテロの顔をじっと見つめました。ペテロは気づきました。「ああ、イエス様を裏切ってしまった」。ペテロは外に出て行って大声で泣いたのでした。

 皆さん、失敗とは私たちの弱さや足りなさを明らかにしてしまう、辛いものです。ペテロにとっては、大きな罪として心に重くのしかかったことでしょう。でもイエス様は何と言っておられましたか?今日のみことばを読みましょう。「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました」(ルカ22:32)。イエス様はペテロの失敗で切り捨てるのではなく、つまずいても立ち直れるよう、とりなしの祈りをしていて下さったのです。情けない自分であっても、イエス様の愛と赦しが私たちには向けられています。人は必ず失敗します。でも赦して頂けるということを聖書は教えているのです。

 このあと十字架の死からよみがえったイエス様は、何度か現れて下さいました。3回目はガリラヤ湖でした。漁のあと湖のほとりで朝ごはんを一緒に食べました。するとイエス様はペテロに言われました。「ペテロ。あなたはわたしを愛しますか?」ペテロは「はい、イエス様を愛します」と答えました。それは自信満々ではないものの、心からのことばでした。イエス様は「私の子羊を飼いなさい」と言われました。信じる人たちのお世話をしなさいという意味です。同じことを全部で3回おっしゃり、3回知らないと言ったペテロを赦して下さいました。そして「これからも私に従いなさい」と励まして下さったのです。
 皆さん、イエス様は私たちに弱さがあっても見捨てることのないお方です。悔い改めるべきことをきちんと悔い改めて従おうとする者を、イエス様はもう一度立ち上がらせて下さいます。何があったとしてもイエス様について行きましょう。

<祈り>
「神様、イエス様が私たちのためにとりなして下さることを感謝します。失敗があってもイエス様の愛と赦しを信じ、立ち上がっていくことが出来ますようにお導きください。どこまでもイエス様に従っていけるようお守り下さい。御名によってお祈りいたします。アーメン。」

「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 
                         ルカの福音書22章32節

<適用>赤松勇二師

 日本のプロ野球とアメリカ大リーグで活躍したイチロー選手のインタビューでの言葉です。彼が日米通算4000本安打を達成した時、イチロー選手は、「誇ることがあるとすると、4000のヒットを打つには、8000回以上の悔しい思いをしていること」だと言いました。イチロー選手は、それだけの失敗をしたからこそ、4000本のヒットを打つことが出来たと言うのです。私たちは、失敗します。でもそれを乗り越えた時に見出すことがあるのです。
 ペテロは、人生最大の失敗をしてしまいました。けれどもペテロは、その失敗の中で、イエス様の大きな愛と恵みを知ることが出来、悔い改めに導かれ、変えられたのです。

Ⅰ;失敗しても見捨てない

 イエス様は、私たちを「見捨てず支える」お方です。私たちが失敗しても、つまずいて倒れてしまっても、私たちが弱さのゆえにイエス様から離れてしまうようなことがあっても、イエス様は、決して私たちを見捨てないと約束をしてくださいました。

 私たちは、イエス様から離れてしまいやすい者です。イエス様から離れるなんてことは考えたことがないかもしれません。意識してイエス様を捨てること、イエス様から離れることはないでしょう。弟子たちもそのように思っていたはずです。ペテロは、他の弟子たちがつまずいても自分は決してつまずかないし、イエス様にどこまでも従っていくと言い切っていました。けれども、ゲッセマネの園でイエス様が捕らえられた時、ペテロや他の弟子たちは、イエス様を置いて一目散に逃げてしまったのです。ペテロにとっては思いもよらない出来事でした。でも確かにペテロは、イエス様を見捨てたのです。イエス様は、私たちを決して見捨てません。けれども私たちは、イエス様を疑い、離れてしまう弱さを持っています。ペテロは、そのことに気づくべきでしたが、自分は大丈夫という思い込みがあったのです。だからペテロは、一度は逃げ去ったけれども、弟子のリーダー格という自覚があり、大丈夫という自信がありイエス様が連行された大祭司の家の中庭まで入っていったのです。でも彼は、堂々と入ることはせず、ある程度顔を隠して入ったのではないでしょうか。

 そこでも思いもよらないことが起こりました。ペテロの最大のピンチは、門を入ってすぐに訪れました。門番が、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と突然質問してきたのです。不意の質問にペテロは、「違う」と答えます。先ほども言いましたように、ペテロは、最後の晩餐の席で、自分はイエス様を裏切ることはないと言い切りました。しかし、ペテロは、ゲッセマネの園で逃げたしました。でもそれは、「不意を突かれただけで、その場の雰囲気に流されただけだ。今度は逃げない」という思いがあったでしょうか。ペテロは、逃げないかわりに、イエス様を否定するという更に悪い状況に追い込まれていくのです。ただ、一度言ってしまうとあとは、簡単です。ペテロは、「知らない」と言えば疑われないことを経験してしまいました。
 ペテロは、庭に入って炭火にあたっていました。するとそこにいた人たちが、炭火の火明かりに映るペテロの顔を見て「あなたもあの人の弟子ではないだろうね。」と聞いて来るのです。そのような質問がされることはすでに経験済みです。彼は「弟子ではない」と答えます。

 すると、ゲッセマネの園でペテロに耳を切り落とされた人の親類の人が、ペテロに食って掛かります。一気にまわりの目が、ペテロに集中します。その時ペテロは、もう一度否定しました。この三回目の否定は、決定的なものであり、ペテロは「嘘ならのろわれてもよいと誓い、「そんな人は知らない」と言うのです(マタイ26:74)。その時、鶏が鳴きました。今、この場所は、「鶏鳴教会」となっています。聖地旅行で訪れた時、確かに鶏鳴教会の周辺では、鶏が良く鳴いていました。エルサレムの町の中で、鶏の声が聞こえたのは、その場所だけだったような気がします。しかも頻繁にあちこちで鳴いているのです。私は鶏の声を聞きながら、ペテロの時代は、頻繁には鳴かなかったのだろうかと思いました。ともかく、この鶏の声を聞いた時、ペテロは、我に返り自分が何をしてしまったのかに気づくのです。そして外に出て激しく泣きました。

 皆さん、私たちは、ペテロのことを批判することは出来ません。私たちも同じような弱さを持っているのです。私たちは、人の目を気にすることがあります。人の目が気になりだすと、際限なく誰にでも見られていると感じてしまいます。特に日本では、人と同じにすることが当たり前という考え方があります。ですから、私たちは、無意識のうちに周りに合わせてしまうのです。家族の中でクリスチャンは(教会に行っているのは)、自分だけという状況でしょうか。家族の中ならまだいいのですが、地域の中でクリスチャンは、自分だけということもあるでしょう。

 私たちの住んでいる地域では、伝統行事と言うのが行われます。その多くが異教的な要素を含んでいます。けれども地域の人は、その宗教的要素は知らず、地域の伝統だから皆が参加して当然と思っているのです。「たまにはいじゃないか」と言われることもあるかもしれません。私たちは、時々、自分の信仰が試される経験をします。時には、失敗したり、自分の信仰の弱さを実感し、うなだれることがあるかもしれません。私たちは、聖書が教える神様の御心に従うことが出来なかったり、神様の臨在を疑ってしまうこともあるかもしれません。それでも、なおイエス様は、私たちを見捨てないお方です。

Ⅱ;イエス様の執り成し

 イエス様は、私たちを見捨てず、支えてくださるのです。イエス様は、私たちのために執り成し、導いて支えてくださるのです。
 最後の晩餐の席で、イエス様は、ペテロをはじめ弟子たちがふるいにかけられ、イエス様から離れること、裏切ることを予告していました。ペテロは、自分は大丈夫と言い張るのです。しかしペテロがイエス様を否定することは確実なことでした。でも、いや、だからこそイエス様は、ルカの福音書22章32節のように言ってくださったのです。もう一度今週の御言葉を読みましょう。

 イエス様は、ペテロが躓くことを知っていました。イエス様は、ペテロが大失敗をして打ちひしがれ、絶望し、後悔の念に包まれることを知っていました。「しかし、」なのです。しかし、イエス様は、ペテロの信仰がなくならないように祈ってくださったのです。イエス様は、ペテロが立ち直ることが出来るようにと励まし、執り成して下さったのです。

 皆さん、ペテロは、イエス様の復活の後、初代教会の中心的なリーダーとなり、活躍をしていきます。新約聖書が書かれた時代、ペテロは指導者として尊敬されていたのです。けれども4つの福音書は、このペテロの大失敗、隠しておきたいと思うような挫折を記しています。それは、人間の愚かさや弱さを明らかにするという目的もあるでしょう。しかしそれ以上に、ペテロのために祈ったイエス様の執り成し、罪人のために命を投げ出した救い主イエス様の救いの恵みを伝えるためです。そしてペテロが、イエス様の愛によって立ち直ることが出来たという祝福を伝えるためではないでしょうか。

 そして今も、イエス様は、私たちのために神様の御前で執り成し、私たちを助け、導き、立ち上がらせてくださるのです。「イエスは、いつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります(ヘブル7:25)」。私たちは、イエス様の執り成しによって支えられています。そのことを心から感謝しましょう。そして私たち自身もお互いのために執り成しの祈りをして、支え合う交わりを持ちましょう。実は、私たちがクリスチャンとして歩むためには、お互いの事を覚えて執り成しをすることが非常に大切になります。

 私は、専門学校に入学する時、自分の信仰が試された経験をしたことがあります。そして教会の方々の執り成しの祈りの恵みを経験しました。学校では、新入生を集めて2泊3日くらいの「オリエンテーション」を行います。その初日が日曜日でした。私は、担任になる先生の所に行き、「自分はクリスチャンで、礼拝に出席するので日曜日からのプログラムは出られない」と断りました。すると先生は、「同じクラスの仲間と顔を合わせるのだから参加を考えるようにと」言ってくれました。そして「1回くらい礼拝に出なくても良いではないか」と言うのです。何回か先生と話をして、結局、私は礼拝をして、夕方から参加をすることとなりました。私の個人的な都合での別行動を許可してくれた担任は、許可する代わりとして「クラスのみんなに遅れた理由を説明するように」と付け加えました。私は、急に心が重くなりました。私は、別に遅れた理由など言わなくても良いではないかと思いながら、神様に助けを求めました。私は、不安になり、教会で現状を報告して、クリスチャンとして証しをする事が出来るように祈ってもらいました。日曜日の礼拝が終わって再び祈ってもらい出発をしました。夕方会場に到着すると、クラスの集まりがもたれている時間帯(終了時間直前)でした。私は、クラス全員の前で自己紹介と遅れた理由を話すこととなりました。その時私は、自分がクリスチャンだと言う事、そして日曜日の礼拝をして遅れたと説明しました。私は、みんなから敬遠されるだろうと思っていたのですが、クラスの誰もが私がクリスチャンだと言う事に興味を持ってくれました。こうして私は、クラスに馴染むことが出来たのです。

 イエス様は、ペテロが躓かないように、困難に遭わないようにとは祈りませんでした。そのようなことがあっても信仰が守られ、神様によって立ち直ることが出来るようにと祈ったのです。そしてイエス様は、躓き倒れ、罪の中に絶望するペテロのためにも十字架にかかってくださったのです。私たちは、人生、生きている間に実に様々なことが起こります。時には、不意をつかれる事が起き、信仰が試され、躓き失敗することもあるでしょう。また、苦しみを経験し、「どうして」と思うようなこともあるのです。「しかし」です。そのような時でもイエス様は、私たちと共にいてくださるのです。

 ペテロの信仰がなくならないように祈ってくださったイエス様は、今も私たちの信仰がなくならないようにと祈ってくださるのです。ペテロが立ち直ることを願い祈ってくださったイエス様は、どんなことがあっても私たちが立ち直り、力を与えられて人を励ます事が出来るように導いてくださるのです。
 今もし、試練の中にあるならイエス様が共にいてくださることを心に留めてください。イエス様は、私達のために執り成しをしてくださっています。困難や問題の中にいるなら、その事柄をすべてイエス様の前に祈り注ぎ出しましょう。イエス様は、私たちが立ち上がることが出来るように導いてくださいます。イエス様は、ご自分の信じ信頼する人を導き、見捨てず支え、完全に救うことが出来るお方です。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今日も共に集まり、またZOOMによって共に礼拝出来ることを心から感謝致します。
 神様、私たちは躓きやすく、信仰が弱く、失敗しやすい者です。どうか私たちを強め支えてください。イエス様が私たちの事を見捨てず支えてくださることを信じます。私たちには、不安なこと、恐れを抱くこと、誘惑を感じること、様々な事があります。私たちの経験する全ての問題の中にあってイエス様が力を与えて下さり、立ち上がり、主を見上げる信仰を与えてください。
 今週も見捨てず支えてくださるイエス様と共に歩ませてください。気候が安定せず体調を崩しやすい時期となっています。一人一人の健康を支えてください。
 コロナウィルス感染も収束していません、どうか感染が広がらない様に守ってください。世界では紛争や戦争が絶えません。神様、世界に平和を与えてください。苦しめられている人たちに恵みと平安を与えてください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」