2022年6月26日(日)礼拝説教 使徒の働き8章1-18節 「時が悪くても」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>

 先週から引き続いて、最初の教会がどんな様子で広がって行ったか、お話していきたいと思います。今日の中心人物は…ピ、で始まる名前の人です。それは誰でしょう?ピリボ、という人です。あまり聞いたことの無い名前かもしれません。どんな人で、どんなことがあったのでしょう?早速見ていきましょう。

 この人がピリポです。「サマリアのみなさん、聞いて下さい!イエス様は救い主です!」そうお話すると、病気の人を治してあげたり奇跡をおこなったりしました。このピリポは、先週のお話で食事の配給係になった7人の内の一人でした。でも、なぜサマリアなんでしょう?仲間のステパノが石打ちの刑で殺されてしまい、エルサレム中のクリスチャンたちも捕まってしまったので、みんな逃げざるを得なかったのです。ピリポたちは思いました。「これも遠くまでイエス様を伝えなさい、という神様のお考えかもしれないぞ。しっかり伝えよう」。それで逃げた先のサマリアで福音を伝えていたのです。
「ピリポさん。ユダヤ人は俺たちサマリア人を嫌っていたのに、イエス様を教えてくれてありがとう!」町中の人が喜びに包まれました。

 そんなある日のことです。み使いがピリポに現れて言いました。「ここから旅立って南の方へ行きなさい。」そこは荒野でした。人っ子一人いません。でもピリポが言われた通りに行ってみると、向こうから立派な馬車がやってきました。乗っているのはエチオピアの女王様に仕える役人です。外国人ですがイスラエルの神様を信じて、エルサレム神殿で礼拝して今帰る途中だったのです。馬車の中で何か声を出して読んでいます。ピリポにはわかりました。「あっ、あれはイザヤ書だ!」
 すると聖霊がピリポに言いました。「近寄ってあの馬車と一緒に行きなさい。」それでピリポは声をかけました。「もしもし、あなたは読んでいることが分かりますか?」
 すると役人はびっくりしてピリポに言いました。「教えてくれる人がいなくてはどうしてわかるでしょうか。良かったら馬車に乗って下さい。そして教えて下さい。」みなさん、イザヤ書は、救い主の預言をはっきりと書いています。ちょうどそこを読んでピリポは言いました。「ここに書いてあることは、イエス様によって実現したのですよ。」そしてわかりやすく教えてあげました。

 するとその人は感激して言いました。「今やっと聖書がわかりました。私もイエス様を信じます!あそこに水があります。どうぞバプテスマを授けて下さい。」すごく積極的ですね。2人は馬車を降りて水に入り、ピリポは役人にバプテスマを授けました。このスピード感、素晴らしと思います。イエス様を心から信じている人は、是非尻込みしないでバプテスマ(=洗礼)を志して欲しいと思います。
 さて2人が水から上がると、聖霊は直ちにピリポを連れ去ったのでピリポは姿を消しました。役人はピリポに会うことが出来ませんでしたが、喜びながら帰って行ったといいます。

 ピリポはこのようにして、思いがけない困難にもめげず、行く先々にイエス様への信仰と喜びを届けました。それは一人でしたことでなく、聖霊様が一緒にいてさせて下さったことでした。聖霊様が私たちとも一緒にいて下さるということ、心にしっかり刻みましょう。
 神様はイエス様を信じる人を、まだイエス様を知らない人のところに遣わして下さいます。「僕に、私に出来ることはなんですか?」と神様に祈りながら、私たちも証人になっていきたいですね。

<祈り>
神様。理想的な状況でなくても、自分の置かれた状況の中でイエス様を証していく大切さを学びました。私たちは弱い存在ですから、聖霊様が励まし導いて下さることをお願いします。そして自分に出来ることをして、イエス様を証させてください。御名によってお祈りします。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」  Ⅱテモテ4章2節

<適用>

 皆さんは、思いがけない困難で人生の計画が大きく狂ってしまった経験があるでしょうか。私はあります。20代のころですが、就職して数年目に留学を考えていたことがあります。アメリカの神学校に行きたいと思い、TOEFLという英語の試験を受ける予定をしていました。さあ申し込もう、という矢先、私は職場で大けがをしてしまいました。右腕の肘を骨折してしまい、字も書けなくなってしまったのです。とても試験を受けられる状況ではなく、そのタイミングでの受験は断念しました。同時に留学という自分の考えに、神様がストップをかけておられるのかもしれないと思いました。実際、別の神学校に導かれて今があります。
 個人としてだけでなく、世の中にも思いがけない状況は多々起こります。新型コロナウイルス感染拡大による一斉休校や世界中での緊急事態もそうでした。ロシアのウクライナ侵攻でも多くの人や社会がそのあり方、生き方を変えざるを得ませんでした。
 世界で初めの教会も、順調な成長と広がりだけではすみませんでした。様々な困難を通されて行きます。先週学んだように、教会の初代役員であった「信仰と聖霊に満ちた人ステパノ」が、反対者たちに命を奪われました。そこから激化した迫害によって、教会は過酷な現実に直面していきます。今日は「時が悪い」としか思えないような中で、教会そして信仰者が心に覚えるべきことは何かをみことばから学んで参りましょう。

1.後退の中での前進

 まず私たちが心に留めるべきは、後退と思える中にも前進の望みがあるということです。使徒8章1~3節は迫害の激しさを記しています。サウロ(のちの使徒パウロ)をはじめとする反対者たちは、家々からクリスチャンたちを引きずり出し牢に入れるという暴挙に出ていました。そのためユダヤとサマリア地方へと離散せざるを得なくなりました。使徒たちだけがエルサレムに残りました。恐らくは「エルサレムを離れないで…」と言われた復活のイエス様のお言葉が、使徒たちにそうさせたのでしょう。あんなに多くの人が信仰に入ったのに、今や教会の前進は止められ風前の灯火となってしまいました。

 しかし聖書はここで散らされた人たちの行動を記しています。4節「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた」というのです。そのうちの一つとして、5節以降にピリポのサマリア宣教が記されます。先ほど子どもたちと学んだように、彼らはこれを「遠くまで福音を伝えなさい」という導きと取ったのでしょう。サマリアには大きな喜びが起こり、多くがイエス様を信じました。このように、迫害というマイナスの出来事から福音宣教の拡がりというプラスの恵みを与えて頂いたのです。

 私たちの物事の捉え方はどうでしょうか。仕事や学業がうまくいかない、私生活が思わしくない、家族や周囲への伝道が進まない。そんな現実を前に「もうやめておこう、もう期待せずにおこう」となっていないでしょうか。
 後ろ向きの捉え方は常識的なものかもしれません。けれども常識を超えた信仰を働かせて前を向くよう、この聖書箇所は私たちにチャレンジしているのではないでしょうか。聖霊の助けの中で、そのような信仰へと励まして頂きましょう。

2.主が遣わされる

 2つ目に覚えたいのは、私たちの歩みは常に「主が遣わされている」事実に忠実であるということです。
 話がだいぶ進んで来ていますが、ここでちょっと脱線して、ピリポについてお話しておきたいと思います。ここを準備する際、私は「これってどのピリポ?」と思いました。聖書には何人かのピリポが出てきますが、皆さんはどのピリポだと思いますか?手掛かりは6章5~7節にあります。初代の教会役員としてステパノに次いで名前が挙げられているのがピリポです。彼ら7人に使徒が祈って手を置く按手の儀式をしています。ここからわかるのは使徒ピリポではないということです。また8章の最後には、ピリポがカイザリアに行ったとあり、21章8節には使徒パウロがカイザリアでピリポの家に滞在したとあります。そこでは「あの7人の一人、伝道者ピリポ」と呼ばれています。ですから今日私たちが学んでいるピリポは、あくまでも信徒でありながら伝道に邁進している人物ということです。

 8章に戻りましょう。サマリア宣教が25節まで続きますが、そのピリポは新しい場所へ遣わされます。26節から少し読んでみましょう。「さて、主の使いがピリポに言った。『立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。』そこは荒野である。」ガザは地中海沿いの地です。サマリアからはエルサレムを横目に通り過ぎ、南の海沿いに進むとガザに着きます。ガザへ行けばサマリア宣教に容易には戻れないと、ピリポには分かったことでしょう。大勢が信仰に入ったサマリアの祝福から離れ、どんな可能性があるかわからないガザへ、それでもピリポは従って行ったのです。

 「時が悪くても」と題しましたが、「自分にとってこのタイミングは望ましくない」という意味での「時が悪い」もあると思います。しかし私たちクリスチャンは、主のタイミングで主が遣わされる所に忠実に出ていくことが求められます。これは信徒であれ伝道者、牧師であれ変わりません。主が命じられるのであればお従いするのです。これは、自己実現を一番に求めていたらできないことです。
 むしろ「主が遣わして下さる場、人間関係、環境を、進んで受け入れて遣わされて行く」ことが大切です。信仰生活においては主のご計画こそが一番です。そこに思いもよらない祝福のみわざが用意されている、ということをエチオピアの宦官との出会いは教えているように思います。

 宦官が朗読していたのはイザヤ書の53章でした。32,33節はまさにメシア預言の中核のみことばです。こうした瞬間にピリポは遣わされました。ピリポが語るイエスこそ預言のメシアであること、その福音のメッセージは、宦官の心を燃やしました。宦官はバプテスマを受け、信仰の火を携えてエチオピアに戻っていきました。彼がエチオピアで黙っていたとはとても思えません。アフリカの地でも、イエス様の福音が伝えられて行ったことでしょう。人の計画に勝る神のご計画が実現していったのが良くわかります。
 私たちの目には時が悪い、後退していると思える状況は常にあるように思います。世界的な疫病、災害、人々の無理解や反対、教会の高齢化や少子化、数え始めれば枚挙にいとまがありません。しかし忘れてはいけないのは、教会は常に聖霊の導きとお働きによって前進させられてきたということです。この聖霊様を心の中心にしっかりとお迎えして、主が示されることに忠実に従っていくお互いにならせて頂きましょう。そして私たちもまた、紆余曲折があったとしても、主にあって前進させて頂きたく願います。今日のみことばを読んで終わりたいと思います。「みことばを宣べ伝えなさい。時がよくても悪くてもしっかりやりなさい。」(Ⅱテモテ4章2節)

<祈り>
 神様。前進したくても出来ない状況の時が私たちには起こって参ります。そのような時に後ろ向きになるのでなく、信仰による期待をもって行動して行けるよう、どうぞお導きください。またあなたの示しがある時、忠実にお従いする者となりたく願います。自分のタイミングや自己実現の思いに囚われてしまわぬようにお守りください。私たちの思いを超えた祝福のみわざを目の当たりにさせて下さるよう、お願い致します。御名によってお祈りします。アーメン。