2022年7月3日(日) 使徒の働き9章1-20節 「全てが新しくなる」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 皆さんは、学校でことわざについて勉強したことがあるでしょうか。ことわざの中には、聖書から取られているものがあります。「豚に真珠」は、「真珠を豚の前に投げてはいけません(マタイ7:6)。」というイエス様の言葉が起源とされています。「目からうろこ」ということわざも聖書が起源となっています。これは、一人の人物の経験したことと関係があります。その人物の名前は、「パ」から始まります。「サ」から始まる名前もあります。皆さんも良く知っている、聖書の登場人物です。
 その人は、「パウロ」です。今日は、パウロと呼ばれる前のユダヤ名の「サウロ」で登場しますので、サウロと呼ぶことにしましょう。サウロは、どんな経験をしたのでしょうか。一緒に見て行きましょう。

 サウロは、そうとう怒っていますね。怒り心頭と言った顔をしているでしょう。「イエスを救い主と信じる者は、男も女も全員捕まえろ。抵抗する者は、殺してもかまわない。」サウロは、大声で叫びながら、イエス様を信じる人たちの家々を回って逮捕します。
 そう、サウロは、クリスチャンへの迫害に全力を注いでいた人です。実は、ステパノが石打にされ殉教する時に、その処刑に賛成した人たちの中にサウロがいたのです(使徒8:1)。サウロは、クリスチャンへの迫害が自分の使命とばかりに、大祭司(ユダヤ教のリーダー)の所に行って言いました。サウロは、「イエスを救い主と信じる者たちは、エルサレムから逃げて行きました。遠く離れたダマスコと言う町にも逃げて行ったという情報があります。ダマスコに行って、この道の者(クリスチャン)たちを捕まえて、エルサレムに連れて来るための権限をください」とお願いしました。こうしてサウロは、迫害の全権を与えられてダマスコに向けて出発しました。

 いよいよ、ダマスコの町に入ろうとしていた時です。「あーっ、まぶしい、立っていられない」と思いもよらない出来事が起こりました。サウロたち一行は、天からのまぶしい光に照らされ、サウロは地に倒れてしまいました。その時、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と天から声がありました。サウロは、何が起こったのか分からず、「主よ、あなたはどなたですか」と聞き返しました。するとさらに驚くような返事がありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と言うのです。そうです、イエス様がサウロに表れてくださったのです。サウロは、イエスを救い主とは認めていませんでした。けれども、この時サウロは、イエス様が神様であり、救い主であることを知ったのです。サウロにとっては、本当に思いもよらないことです。周りにいた人たちは、声は聞こえても誰も見えず、ただ立っているだけでした。サウロは、目が見えなくなり、手を引いてもらってダマスコの町に入って行きました。

 神様は、もう一人アナニアと言う人にも声をかけました。アナニアは、ダマスコにいるクリスチャンでした。アナニアは、幻の中で迫害者サウロに会いに行きなさいという声を聞きました。「それは出来ませんよ、神様。サウロはエルサレムでクリスチャンを迫害した人です。ダマスコにも迫害のために来たのは知っています。そんな人に会いに行ったら捕まってしまいますよ。」心配するアナニアに、神様は、「大丈夫、サウロは、キリストへの信仰に導かれています。そして彼は、アナニア、あなたが来るのを待っています。サウロは、福音を多くの人に伝えるためにわたしが選びました。」と言われました。

 アナニアは、神様の言葉を信頼してサウロに会いに行きました。そして、サウロのいる家に入って行き、「兄弟サウロ。」と呼び掛けて手を置いて祈りました。するとサウロの目から、うろこのような物が落ちて、目が見えるようになったのです。これが「目からうろこ」ということわざになりました。サウロは、実際に目が見えるようなっただけではなく、イエス様が神様であり、旧約で預言されていた救い主であり、イエス様の十字架によって罪赦され、救いがあることなどを知るようになったのです。サウロは、心の目が見えるようになり、福音の真理を知ることが出来たのです。
 そしてサウロは、ダマスコの町で「イエス様は、救い主です。」と伝道を始めたのです。サウロは、この後パウロと呼ばれるようになり、世界に福音を伝える伝道者となりました。

 皆さん、イエス様は、救い主です。イエス様は、僕たちのために十字架にかかり死なれましたが、三日目によみがえり今も生きておられます。そしてイエス様を信じる人は、誰でも救いを受けることが出来、新しい心が与えられ、新しい人生をスタートすることが出来ます。今日の御言葉(コリント人への手紙第二 5章17節)を読みましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様は、迫害者サウロを救いに導いてくださいました。イエス様は、僕たちの罪を赦し、救いを与え、新しい心を与えてくださることを感謝します。神様の恵みの中を歩ませてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 
                   コリント人への手紙第二 5章17節

<適用>

 皆さん、「アハ体験」と言うのを聞いた事があるでしょうか。これは、分からなくて、うずうずしている事柄が「分かった瞬間」のことを表しています。この「アハ体験」は、私たちの脳にとても良い刺激になると言われています。私たちは、御言葉を読んでいて「アハ体験」のような、「聖霊様による気づき」と言うものを経験することが出来ます。その時私たちは、神様が聖書を通して語っていることが分かるという事があるでしょう。私たちは、自分が経験している事柄について、「聖霊様によって分かる」という瞬間があるでしょう。サウロは、ダマスコへの途上で、まさに「全てが新しくなる」という「聖なるアハ体験」をしたと言えます。

Ⅰ;過去がどうであれ

 私たちは、過去がどうであれ、「全てが新しくなる」という祝福を受けることが出来ます。
 そもそもサウロは、どうして「主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻く(使徒9:1)」ほど、クリスチャンへの迫害の急先鋒となったのでしょうか。使徒9章では、「クリスチャン」ではなく、「この道の者」と呼ばれていました。キリスト者(クリスチャン)と呼ばれるのはもう少し後の事となりますが、分かり易く、クリスチャンと言う表現を使います。
 サウロ自身が、クリスチャン迫害の時を振り返って証ししています(使徒26:9-11)。「実は私自身も、ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反対すべきであると考えていました。そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を受けた私は、多くの聖徒たちを牢に閉じ込め、彼らが殺されるときには賛成の票を投じました。そして、すべての会堂で、何度も彼らに罰を科し、御名を汚すことばを無理やり言わせ、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついに国外の町々にまで彼らを迫害して行きました。」

 サウロのクリスチャンへの迫害は、残虐なものであり、容赦のないものでした。どうしてサウロは、そこまでの迫害を行ったのでしょうか。それもサウロ自身が、証ししています。
 「私は、私たちの宗教の中でも最も厳格な派にしたがって、パリサイ人として生活してきました(使徒26:5)。」、「私は、キリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しく教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした(使徒22:3)。」

 サウロは、ユダヤ教のパリサイ派の者として律法を教えられ、旧約の律法とユダヤ教の伝承を守る事こそが大切で、正しい行いこそ救いを受ける道だと信じていたのです。そして律法を厳守することが、神様への熱心の現れであり、神様に仕えることだと確信していたのです。その情熱のためにサウロは、イエス様が、救い主であるという事を決して認めることが出来なかったのです。律法によれば、木につるされた者は呪われた者とされていたからです。ですからサウロは、十字架につけられたイエス様が、神であり救い主であることなどありえないと考えたのです。そしてサウロにとって、イエスが復活し生きていることなど、神様への冒瀆でしかありませんでした。サウロは、クリスチャンを迫害することが、主なる神様への忠誠だと考えたのです。

 サウロは、イエス様を救い主と信じる気持ちなど少しもなく、イエス様の十字架の救いからは、かけ離れた生き方をしていました。そのサウロに対して、イエス様は「サウロ、サウロ」と語りかけてご自身を示してくださったのです。私たちからしても、当時のクリスチャンたちからしても考えられないことです。「サウロに会いに行きなさい」と言われた時の、ダマスコのアナニアの言葉は、当時のクリスチャンたちを代表する言葉です。アナニアも、サウロが神様と出会い、イエス様と出会い、十字架の救いを信じるなど考えられないし、何かの間違いだと思ったことでしょう。

 けれども確かに神様は、サウロを導いておられました。イエス様は、確かにサウロに対して、ご自身による救いの道を示したのです。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」という言葉が、サウロの心にある間違いに光を与えました。神様にとってサウロの過去は問題ではありませんでした。イエス様は、過去がどうであれ、人を救いに導くことが出来るのです。

 私たちは、それぞれ異なった人生を歩んでいます。私たちの過去の人生、経験した数々の問題なども十人十色です。それでも、私たち一人一人が、神様の導きの中にあって、教会に導かれ、神様を信じる信仰、イエス様を救い主と信じる信仰に導かれてきました。そしてこの神様の恵みの働きは、私たちだけのことではなく、これからも継続していく働きです。神様は、過去がどうであれ、「全てが新しくなる」という祝福を与え続けてくださるお方です。

Ⅱ;キリストによって

 私たちは、キリストによって「全てが新しくなる」という経験へと導かれます。しかも「誰でも」です。
 サウロは、キリストと出会って全てが変えられました。サウロは、ダマスコに近づいた時、天からの光に照らされ地に倒れ、天からの声を聞きました。これは、サウロにとって非常に大きな、衝撃的な出来事でした。太陽よりもまぶしい天からの光は、サウロにとって、神様ご自身の栄光を意味しています。そして天からの声と言うのは、サウロが信じ、従ってきた主なる神様の声なのです。その声が、「どうして、わたしを迫害するのか」と言うではありませんか。サウロは、クリスチャンを迫害してきました。それが、どうして神様への迫害につながるのでしょうか。しかも天からの声が「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と言うのです。サウロにとっては、ダブルパンチのような衝撃となりました。

 目が見えなくなったサウロは、ダマスコの町に入っても何もすることが出来ませんでした。彼の心の中では、天からの声が言った言葉が響いていたのではないでしょうか。そしてサウロは、3日間の断食祈祷の中で、これまで読んで来た旧約聖書を思い返し、預言者の言葉を思い巡らしたのです。そして、聖霊なる神様の導きの中で、サウロは、救い主に関する預言が、イエス様によって成就したことを知ったのです。そしてキリストにこそ救いがあり、人は行いではなく、イエス様を信じる信仰によって罪赦され、救いを受けるという恵みを知ったのです。

 皆さんは、どのようにして導かれて来たでしょうか。少し私の救いの証しを話したいと思います。私は、牧師の子どもとして育ちました。ですから、私は、母のお腹の中にいた時から教会に行き、聖書を聞き、賛美を聞き、祈りを聞いていたと思います。私は、日曜日には教会に行き、礼拝すると言う環境が与えられ、成長しました。でも小学生や中学生の時には、教会学校や礼拝を休む口実を見つけようとして努力しましたが、ことごとく失敗していました。唯一の抵抗としては、礼拝中に説教を聞いているふりをすることでした。
 そんな教会生活を送っていましたが、私は、小学4年生の時のバイブルキャンプで、イエス様を救い主と信じる祈りをしました。私は、学校では担任に叱られ、家では親に叱れるような感じでしたので、「悪いことをしている」という自覚がありました。だからキャンプで語られるイエス様の十字架の救いが心に迫り、信じる事が出来ました。けれども私は、信じたものの、生活が変わるわけではなく、信仰があるのか無いのか分からない日々を過ごしていました。洗礼について考えても良く分かりませんでした。そんな悶々とした日々が高校生まで続きます。

 高校1年の夏のバイブルキャンプで、神様は、はっきりと答えを下さいました。メッセージの中で、ヨハネ15章16節が開かれたのです。この御言葉で信仰に導かれた人は多くいますが、私もその一人です。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。・・・」私は、メッセージを話している先生が、私だけを見て話してくれていると思うほど、聞き入りました。初めての経験です。その時、私は、今まで牧師の子どもだから神様を信じていると思っていたし、神様を信じるということを、自分で見出そうと思っていたことに気づいたのです。と同時にそれが間違いだという事も気づきました。神様が、私を選んで救いに導いてくださいました。私は、イエス様が私の罪のために十字架にかかり死んでくだったことを改めて知り、イエス様によって救いが与えられ、祝福が与えられ、人生が変えられると信じる事が出来たのです。こうして私は、救いの確信を持つことが出来て、その年に洗礼を受けることが出来ました。

 皆さん、サウロは、イエス様に出会って人生が180度変えられました。私たちもイエス様によって、人生が180度変えられ、罪から救へ、闇から光へと変えられます。何もないような人生が、イエス様による祝福に溢れた新しい人生となるのです。誰でもキリストにあるなら、「全てが新しくなる」という恵みを受けることが出来ます。信じて全てをゆだねましょう。
 イエス様を信じていない友だち、家族がいますか。信じないと決めつけないで、「誰でも、キリストのうちになるなら」新しくされることを信じて祈り続けましょう。イエス様は、確かに導いてくださいます。
 私たちは、問題や困難に直面していて、どうにもならないと感じることがあるかもしれません。また私たちは、様々な出来事の中で人生に不安を覚え、迷い、疑いが生じることがあるかもしれません。けれども、「誰でもキリストのうちにあるなら」、イエス様による導きの中で新しい道へと導いて頂くことが出来ます。私たちには、人生を変える力はありませんが、イエス様には、私たちの人生を変え、恵みを与える力があります。イエス様こそ私たちの救い主です。信仰をもって見上げて歩みましょう。
 今週の御言葉(コリント人への手紙第二 5章17節)を一緒に読みましょう。

 祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。サウロは、十字架の救いとは遠く離れた歩みをしていましたが、神様は、サウロをイエス様の救いへと導いてくださいました。神様は、私たちにも目を留め、導いてくださり、感謝致します。誰でもキリストのうちにあるなら、全てが新しくされることを信じます。イエス様の十字架の救いの喜びで満たしてください。神様、私たちの人生を導いてください。神様によって日々新しい祝福の中を歩ませてください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」