2022年7月24日(日)礼拝説教 使徒の働き15章1-12節 「信仰による一致」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>

 今日は教会の前もお祭りでにぎやかなことになっていますね。小川のお祭りは和紙を使った七夕飾りに特徴があるようです。屋台や出店、にぎやかな雰囲気も、夏らしくてワクワクするのかもしれません。けれども一方で、偶像の神を祭る異教的な要素があります。皆さんの中にも楽しみにしている人がいると思いますが、偶像礼拝にはよくよく気を付けて節度をもって楽しんで欲しいと思います。
 さて、今日のお話を始めましょう。アンティオキアに生まれたばかりの外国人教会で、ある大問題が起こってしまっていました。一体どうしたのでしょうか?

 この人たちはエルサレム教会からアンティオキア教会にやってきたユダヤ人のクリスチャンたちです。何だか怖い顔をしています。彼らは外国人のクリスチャンたちに言いました。「外国人の皆さん。私たちユダヤ人と同じように、モーセが教えた決まりを守って下さい。そうでないと救われませんよ!」何が言いたいのでしょうね?この人たちが言いたいのは、「イエス様を信じるだけでは足りませんよ。ユダヤ人と同じようにユダヤ教の決まりを守らなくてはいけません」というのです。

 外国人クリスチャンたちは心配になりました。でもそこで教えていたパウロとバルナバが前に出て反論しました。「そんなことはありませんよ。イエス様を信じるだけで救われるのです!」このことはとても大事なことなので、エルサレムの教会に行ってしっかり話し合いをすることになりました。これを「エルサレム会議」と言います。教会の歴史で初めての、重要な会議です。

 パウロとバルナバがエルサレムに着くと、教会の人たちが歓迎してくれました。ペテロやヨハネら、12弟子もいます。イエス様の弟のヤコブという人も、エルサレム教会のリーダーとしてそこにいます。
 パウロとバルナバが言いました。「私たちの伝道旅行で、たくさんの外国人がイエス様を信じましたよ。」みんな喜んでくれたのですが、厳しい顔の人もいました。そう、アンティオキアまで来た人たちの仲間です。「外国人にも私たちと同じ決まりを守らせるべきです!」と言って譲らないのです。

 その時です、ペテロが立ち上がって言いました。「皆さん、私も外国の百人隊長のところでイエス様を伝えるよう、神様に示されたことがあります。その人たちがイエス様を信じた時、彼らにも聖霊が降られたのです。これは外国人も神の子とされたしるしです。私たちも彼らも、イエス様の恵みによって救われるのは同じなのです!」。
 イエス様の弟ヤコブも意見を言いました。「聖書にはもともと『外国人も神様を信じるようになる』と書かれています。ですから外国人を悩ませてはいけません。ただいくつかの大切なことを守ればよいと、知らせてあげましょう」。これは救いの条件ではなく、聖い生活のために必要と考えられたことです。こうして結論が手紙に書かれて、アンティオキアの教会に届けられました。エルサレム教会の2人のリーダーもやってきて、外国人クリスチャンたちを励ましてくれたので、みんなとても喜びました。

 教会が会議まで開いて確認したこと、それは、救いは信じるだけで与えられる神様のプレゼントだということです。今日のみことばを読みましょう。自分はあれが出来るから神様に喜ばれている、とか、特に悪いことはしてないから神様の子だ、というのは間違いです。失敗ばかりだから神様の子どもじゃない、というのも間違いです。イエス様を救い主と信じる信仰があるならば、罪が赦され神様の子どもにして頂けるのです。私たちもこのメッセージを喜んで受け取らせて頂きましょう。

<祈り>
「神様。イエス様を救い主と信じることで、罪赦されて神様の子どもとなれる恵みを感謝いたします。教会が確認したこの大きな恵みを私たちも正しく理解して、喜びをもって歩めるようお導きください。御名によってお祈りします。アーメン。」

「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」
                             エペソ2章8節

<適用>

 皆さんはどんな会議に出席したことがありますか。学生の内なら学級会や生徒会総会があります。自治会やPTAの総会は多くの人が経験しています。教会にも役員会や総会、教団の各種会議などがあります。すんなり決まる会議は気楽ですが、重大な判断や決断を求められる会議も時にあります。そんな時皆さんはどんな反応をされるでしょうか。議論に勝てるよう激論の準備をしますか?根回しをしますか?それとも欠席?疲れるから敬遠する?人によって対応は分かれるかもしれません。
 今日学んでいるエルサレム会議は、重大な意味を持つ会議でした。初代教会は重いテーマに真正面から取り組み、福音とは何かを確認して信仰によって一致して進んで行きました。今日はこのエルサレム会議から学ばせて頂きましょう。

1.かたくなな主張の罠

 ことのきっかけは先ほど見たように、エルサレム教会のユダヤ主義クリスチャンでした。この人たちは5節によれば、パリサイ派から信者になった者たちと思われます。これについて使徒やエルサレム教会は後に24節でこう言っています。「私たちは何も指示していないのに、私たちの中のある者たちが出て行って、色々なことを言ってあなた方を混乱させ、あなたがたの心を動揺させたと聞きました。」そう、彼らのかたくなな主張によって異邦人教会は混乱させられてしまったのです。これは救いの根幹にかかわる事柄ですので、パウロとバルナバは猛烈に抗議し反論しましたが、対立は深まるばかりでした。そこでエルサレムに上り使徒たちと協議することにしたのです。

 ユダヤ主義者の言っていることを言い換えるならこうです。「ユダヤ人と同じようにモーセ律法を守り、男性は割礼の儀式を受けなくては救われない。」つまり、まずは男も女もユダヤ教徒にならなくては救われない、という意味なのです。彼らの考え方は教育、歴史、伝統などすべてによって形作られていましたから、クリスチャンになってもそうした部分がかたくななまでに残っていました。4節で異邦人の回心など神のみわざを報告しても、それはユダヤ主義者の心には響かなかったようです。感謝も、賛美も、喜びも全く生じませんでした。ただ改めて「割礼を受けさせよ」と主張したのです。

 ここからわかることは、自分の主義主張、考え方に固執すると、神のみわざを妨げる場合があり、神に喜ばれない者になる危険がある、ということです。私たちもそれぞれ、教育、歴史、伝統などのバックグラウンドがあります。物の考え方において、他者を理解できないことが教会でも起こって参ります。そういう時こそ私たちの在り方が問われています。そこに知るべき神のみこころがあるのではないだろうか、と敏感に問い直すことが大切ではないでしょうか。柔らかい、教えられやすい心を祈り求め与えて頂きましょう。

2.ただ恵みによる救い

 エルサレム会議においてペテロは立ち上がって語りました。それは先ほどまでの議論が静まるほどの、説得力のある言葉でした。10~11節「なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」これによって、先ほどは黙殺されたパウロとバルナバの宣教の報告、しるしと奇跡に対して皆が改めて耳を傾けることになったのです。

 「ただ恵みによる」という救いの根幹に関しては、教会は何があっても譲ることは出来ません。最近、阿部元総理が銃撃された事件に絡んで、旧統一協会の問題が取り上げられています。今日ここで詳しく取り上げることはしませんが、キリスト教を標榜する新興宗教であり、異端であります。彼らは恐怖心を煽って壺や仏像などを高額で売り付けたり、信者に経済破綻するほどの献金をさせたりします。それがこの度の事件の背景にあったことが分かっています。この教団に関して正当な教会と混同されてしまうと大変なことになると、危惧しています。彼らは偽キリストを創設者に戴く団体であり、救いも福音も聖書から逸脱しています。こうした逸脱に対して、教会は何があっても譲ることは出来ないし、キリスト教などと認めることは出来ないのです。

 教会が議論と対立に時間を割くなんて、と否定的な思いが沸くかもしれませんが、時にそうした話し合いが避けられない時があります。そのような時、私たちは「へりくだって主のみこころを求める」必要があります。教会の会議は、世の会議と全く異なります。それは「民主主義」というより「神主主義」とでもいうべきでしょうか。意見の落としどころを見つけるとか、議論の勝ち負けを決する、というものではなく、みことばとみこころの実現こそ目指すべきところなのです。エルサレム会議で確認された「ただ恵みによる救い」は、今も私たちに届けられ、私たちを生かす福音そのものであります。私たちもいつもみこころを求め、受け取り、従う姿勢で、物事に望むことが出来ますように。

3.自由は他者のために

 最後に会議の結論から学びたいと思います。主の兄弟ヤコブが立ち上がって議論をまとめました。19~21節を読みましょう。ヤコブは「異邦人を悩ませてはいけない」と言いました。割礼や律法の厳格な順守を求めない、ということです。と同時にいくつかのことを異邦人クリスチャンに求めました。それは、異邦人としての自由を、他者(特にユダヤ人クリスチャン)に配慮して用いてほしいということです。

 ここでヤコブが提案した事柄は、旧約の律法に関することです。「救いはただ恵みによる」と言ったばかりなのに、どういうことでしょうか。これは救いの条件としての戒めではないのです。敬虔なユダヤ人が忌み嫌った特に目立つ4項目を慎むように、との言葉です。町々のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)でモーセの律法が読まれ教会内外のユダヤ人が聞いているから、つまずきを与えないようにしてほしいということです。救いには全く関係のない事柄ではありますが、それを大切に思っている人を馬鹿にしたりせず、配慮する愛が福音宣教には必要なのです。

 半世紀以上前に亡くなった方ですが、スイスの神学者でエミール・ブルンナーという方がいます。神学的には私たち福音派と相容れない部分がある方ですが、こんなエピソードがあります。彼はある時大学や神学校での講義のため来日しました。彼は大変な愛煙家で、著書の表紙の写真はパイプをくわえているものが多いそうです。しかし日本滞在中、彼は1本も煙草を吸わなかったそうです。心配した人が聞きました。「先生、日本のたばこはお口に合いませんでしたか?」するとブルンナーは言いました。「私は日本のクリスチャンの多くは、禁酒禁煙を大切にしていると聞きました。私が目の前で煙草を吸うと、つまずく人がいるかもしれない。もし一人でもつまずく可能性があるといけないので、日本にいる間は一本の煙草も吸わないことに決めたのです。」そう言って彼は本当に煙草を吸わなかったそうです。

 パウロはIコリント9章で言いました。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。…何とかして幾人かでも救うためです」(19~22節)。
 また主イエス様もそのようにして下さったことを思い出したいと思います。神である方があえて人の性質をもって生まれて下さり、十字架にご自身を捨てて下さいました。
 エルサレム会議では無条件の救いという恩恵だけでなく、自分の自由を捨ててでも福音に仕えることの大切さが示されたのです。
 教会が、このような福音信仰から出た一致に導かれますように。定期的に様々な会議がありますが、そのたびに思い起こし、みこころを求める機会とさせて頂きましょう。

<祈り>
「神様。ただ、恵みによって救いに入れて下さったことを感謝いたします。エルサレム会議から学びました。今の時代においても教会での話し合いで私たちがへりくだってみこころを求める者となさせて下さい。福音信仰によって一致し、宣教の前進に仕える者となりたく願います。どうぞ整えて下さい。御名によってお祈りします。アーメン。」