2022年8月7日(日)礼拝説教 使徒の働き17章16-34節 「十字架のことば」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 学校では、最終学年の時に修学旅行に行きますね。今年、行く学年の子もいますね。多分楽しみにしていることでしょう。修学旅行に行ったことの人たちは、どこに行ったか覚えていますか。修学旅行で行く先は、お寺が多いような気がします。そこでは偶像が神としてまつられていて、必ずお参りすることになっているのではないかと思います。僕たちは、修学旅行であっても偶像礼拝にならないように注意して行きましょう。教会学校の先生に祈ってもらい、神様の助けを頂くことも良いと思います。
 さて、パウロがアテネという町に行った時の事です。「なんて偶像の多い町なのだろうか。金や銀の偶像があり、石で作られた像まである。とってもきれいに作られているけれど、どれもこれも偽物の神々だ。しかも『名前の分からない神様』というものまる。皆本当の神様を知らないんだなぁ」。パウロは、これは大変だと思い、アテネに住んでいるユダヤ人の集まる会堂で聖書の事を教え、町の広場ではそこにいる人たちにイエス様の事を伝えました。

 アテネの人たちは、パウロが話しているイエス様の事が珍しくて、パウロが新しいことを話していると思いました。そこでアテネの人たちは、パウロを町の中心である大きな会場に連れて行き、そこで話をさせる事にしました。
 パウロは、皆の真ん中に立って話しはじめました。「アテネの皆さん、私は町を歩いていて、皆さんが『名前が分からない神』という祭壇を作るほど、熱心に神様を礼拝していることが分かりました。私は、皆さんが知らないで拝んでいる本当の神様をお話しします。」集まった皆は、興味津々です。パウロは続けました。「本当の神様は、天地を造られたお方です。人が人間の力で神様を支える必要はありません。また本当の神様は、人が食べ物をお供えして世話をする必要もありません。神様は、天地のすべてを造って、人間を造り、私たちに必要なものをすべて与えてくださるお方です。また神様を金や銀や石で作り出す必要もありません。それらは人間が知恵を出して作り出した偽物の神でしかありません。
 神様は、私たちが神様に背を向けて罪を犯し、偶像礼拝をする空しい生き方を止め、悔い改めることを願っておられます。そのために神のひとり子イエス・キリストがこの地上に来てくださったのです。イエス様は、私たちの罪が赦され、私たちが永遠の命を受けられるようにと十字架にかかってくださり、三日目によみがえって今も生きておられるのです。そして罪を悔い改める人を赦し救いを与えてくださるのです。」

 アテネの人たちは、黙ってパウロの話を聞いていましたが、「イエスと言う人が十字架で死んで、よみがえっただって、そんな馬鹿な話があるものか」と笑い、「その話は、また今度聞くことにしよう。」と帰ってしまいました。しかし中には、パウロの話を真剣に聞いて、イエス様を救い主と信じ、罪を悔い改め本当の神様を信じた人たちがいました。
 イエス様の十字架は、僕たちの罪を赦し、救いを与えるためのものです。神様を無視し、神様を否定し、自己中心に生きる罪を悔い改めるなら、僕たちは神の子とされ、天の御国への約束を与えて頂くことが出来ます。罪を悔い改めてイエス様を信じましょう。

 祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様が僕たちを愛し導いてくださることを感謝します。僕たちは、イエス様が罪のために十字架にかかり死んで下さり、三日目によみがえって永遠の命の約束を与えてくださることを信じます。
 僕たちの周りには、偶像の神々と言われるものがたくさんあります。偶像礼拝から守ってくださり、心から天地の造り主である神様を礼拝し祝福を頂く毎日を歩めるように導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」
                   コリント人への手紙 第一1章18節

<適用>

 修学旅行でお寺などに行く話をしましたが、海外から日本に観光に来る人たちもやはりお寺や神社に行きます。そのような映像がニュースで流れるたびに、私は、「一緒にいる添乗員が、お寺や神社で奉られている偶像の事をしっかり説明し、お参りしている動作が偶像礼拝につながることを教えてあげれば、多くの人が偶像礼拝から守られるのになぁ」と思う事があります。
 パウロが見たアテネの町と同じように、私たちの日本には偶像が多いことを実感します。そして私たちがイエス様の事を伝えようとする時、パウロが経験したことと同じ現象が起こります。それは日本だけに限らず、イエス様の福音が語られる所では必ず起こる反応です。

Ⅰ;愚かな話だとする人たちがいます

 まず一つの反応は、「十字架のことば」を愚かな話だとする人たちの反応です。アテネの人たちの多くは、パウロが話す十字架のことばを「愚かな話」と決めつけて拒絶しました。
 パウロとシラスたちは、ピリピでの宣教の後、テサロニケとベレヤで伝道活動をしました。行く先々で迫害を受けたパウロは、ベレヤの弟子たちの案内でアテネに行きます。当時アテネは、世界文化の中心地であり、アテネから哲学、思想、芸術が世界に広がっていきました。そしてアテネは、偶像の町でもあったのです。パウロは、多くの偶像を見て憤りを感じ、会堂ではユダヤ人たちに、広場ではそこに居合わせた人たちに語りました。丁度そこにエピクロス派とストア派という哲学者グループの人たちがいました。エピクロス派とは、神を否定し、神を認めてもこの世界とは関係ない存在としていたグループです。ストア派とは、宇宙精神と一致した生活をすること、個人的な満足を求めるグループでした。またアテネの人たちは、新しいことを見聞きすることで日々過ごし、人はどうしたら幸せに暮らすことが出来るのかを論じ合っていたのです。

 その結果、アテネでは多くの神々が存在し、偶像が溢れることとなったのです。誰もが手当たり次第に神と言われるものを拝み、一時的な安心感を得る事にしていたのです。「知られない神」という祭壇まであったのは、気づかず忘れている神がいると困ると考えたらではないでしょうか。パウロは、「知られない神」を糸口にして福音を語ります(使徒17:22‐31)。
 まことの神は、全世界を造られた「天地の主」です。ですから神様を人の作った建物などの中に閉じ込める事は出来ません。また人間に作り出される必要も無ければ、人が懸命に守ってあげなければならないこともありません。神様は、ご自身で存在し、すべてを支配しておられる方だからです。神様は、人間を造り、「いのちと息と万物」を与えるお方です。偶像は、人間が作り出したものですが、創造主なる神様は、人間を創造されたのです。そして、神様は、全歴史をも支配し、私たちの一瞬一瞬まで導いてくださるのです(26)。

 聞いていたアテネの人たちの多くは、パウロの伝える神様を受け入れようとしませんでした。そしてイエス様の十字架を愚かな事として否定してしまったのです。なぜならば、彼らの考えている神とあまりにもかけ離れているからです。しかし、かけ離れているのは、私たち人間のほうなのです。
 日本も同じような状況でしょう。人々は、いつも不安で、何かを頼りにしなければ生きていけません。だから多くの偶像を作り出し、礼拝し自分を慰めているのです。星占いで良い結果が出なければ、カード占い、それでもダメならおみくじ、それでも満足出来なければ血液型占いなど次から次へと際限なく続きます。私たちが、本当の神様がおられる事を伝えてもそれを受け入れることが出来ません。

私たちも以前は、そのような反応をしていたのかもしれません。しかし神様は、罪を悔い改める者を受け入れ、いつでも救いを宣言してくださいます。なぜなら、十字架のことばは、信じる者には救いを与える神の力だからです。

Ⅱ;本当の救い(神の力)とする人たちがいます

 それがもう一つの反応は、「十字架のことば」を本当の救いを与える福音と受け入れる反応です。
 神様が、すべての事を支配し、導いておられるのは、私たちが神様を求めさえすれば、いつでも神様を見出すことが出来ることを示しているのです。神様は、決して私たちから遠く離れているようなお方ではありません。私たちが、求める時、祈る時、すぐ側にいて祈りを聞き、ご自身を表してくださるのです。「確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません(27)」。もし、私たちが、神様を遠くに感じると思うならば、それは私たちが神様から離れているのではないでしょうか。

 確かに神様は、私たちの側におられます。なぜなら、「私たちは、神の中に生き、動き、存在している(28)」からです。28節の言葉は、当時一般的に知られていた、ギリシャの詩人の言葉からの引用です。パウロは、人々が知っている言葉を天地創造の神様の説明として用いて分かりやすく教えています。
 私たちは、神様の御手の中に生かされています。そして私たちは、神様の恵みに支えられ、動き、存在しています。だから人は、神様を求めれば、神様の助けを受けることが出来、神が近くにおられることを知ることが出来るのです。また神様ご自身も、信じる私たちの心の中に住んでくださるのです。「神の中に生きる」とは、神様による平安を持つ事が出来ると言う事です。「動く」と言う事は、神様の御言葉によって支えられる日々を送る事が出来ると言う事です。「神の中に存在する」と言うのは、私たち自身の生きる目的、存在意義が神様によって確かにされると言うことです。

 私たちは、神様に背を向け無視し、信じない歩みをしてきました。聖書は、それが罪だと教えます。そしてこのような生き方をしていると平安を失います。神様なしの人生は、根本的な土台がないので自分の存在意義も生きる目的も持つことが出来なくなります。何よりも神様との平和の関係が失われ、裁きと永遠の滅びに向かうのです。
 イエス様は、そのような私たちに救いを与えるために、私が罪赦され、義とされ、永遠の命の祝福を受けるために、十字架にかかってくださいました。そして三日目によみがえり今も生きていて、私たちのために執り成していてくださるのです。一緒に今週の御言葉を読みましょう。コリント人への手紙 第一1章18節「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」

 イエス様の十字架は、私たちに救いを与える神の力(ローマ1:16)です。この「力」と訳されているギリシャ語は、「デュナミス」という言葉が使われています。この言葉から、「ダイナミック」、「ダイナマイト」という言葉が派生しています。この言葉には、「強力な力、超人的な力」などと言う意味があります。という事は、「十字架のことば」は、私たちの罪を全て消し去る力があり、天よりの全能の主なる神の力により私たちを変える力があるという事です。
 十字架のことば(イエス様の十字架の救い)は、私たちを罪から解放する力があります。十字架のことばは、私たちを暗闇から光に、失望を希望へ変える力があるのです。私たち自身は、そんな力を持っていません。けれどもイエス様は、私たちを力強く導いてくださるのです。

 私たちは、十字架のことばをどのように受け止めるでしょうか。愚かとしますか、救いを与える神の力とするでしょうか。今、私たちは、自分の心に手を置きしっかりと見つめましょう。もし神様に背を向け信じない生き方をして来た、神様ではなく自分の考えで生きている、まことの神様ではなく違う神を拝んで来た、信じていても真剣に信じていたわけではない、そのような罪を見出したならば、悔い改めましょう。神様は、イエス様の十字架の救いの故に、私たちの罪を赦し、永遠の命を与えてくださいます。
 十字架のことば(イエス様の救いの恵み)は、私たちを救う神の力です。イエス様は、私たちの人生を新しく造り変えてくださるお方です。私たちは、イエス様を信じ信頼し、全ての事柄をイエス様委ねましょう。イエス様は、私たちに天からの力で満たし、祝福を与えてくださいます。最後にもう一度今週の御言葉を読みましょう。

 祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。十字架のことばは、救われる私たちには神の力であることを感謝致します。私たちは、神様に背を向けてきたことを悔い改めます。時に私たちは、不信仰になってしまう事、信仰が弱ってしまう事があります。どうぞ神様お赦し下さい。十字架の救いの恵みを感謝し、いつも感謝と賛美をもって歩むことが出来るように導いてください。神様、私たちは、全ての事を御手に委ねます。どうか、神様ご自身の力で私たちの人生を導いてください。私たちは、あなたの助けが必要です。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストに御名によってお祈りします。アーメン。」