2022年9月4日(日)礼拝説教 使徒の働き9章36-43節 「信仰を表そう」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 最近僕は、「友だちっていいなぁ~」と思う事があります。小学生の時の友だち、中学・高校の友だち、教会やバイブルキャンプで出会う友だちなど色々います。ぜひ、皆には、今の友だち、これから出会う友だちを大切にしてもらいたいと思います。それは、お互いを助け合い、支え合う存在となるからです。僕たちは、親切にされると嬉しいし、優しい友だちに出会えると楽しくなりますね。でもされるだけではなく、僕たちは、友だちに親切し、誰かを助けることが出来るのです。神様は、そのような人になるようにと僕たちを導いてくれます。

これまで、伝道者パウロさんの話を聞き、そしてイエス様を信じて神様に従っていたテモテやアキラとプリスカの話を聞いて来ました。今日は、もう一人、信仰の人「タビタ(ドルカス)」から学びましょう。
 タビタは、「女の弟子」と言われていますので、クリスチャンであり、その地域の教会の中心的な人物だったと思います。けれども彼女は、多くの人にメッセージを語ったとか、聖書の事を教えたとは言われていません。聖書には、「多くの良いわざと施しをしていた(36)」と書かれています。

「お隣のお子さん大きくなったから新しい洋服が必要かしら、お向かいの奥さんに、上着を作ってあげよう。」タビタは、得意の裁縫で人々に着る物などを作ってあげていたのです。恐らくその他にも彼女は、出来る限りのことをして周りの人々を助けてあげていたのだろ思います。
 彼女は、愛の人で良いわざと施しをして周囲の人々に尽くしていたのです。そんなタビタが病気になり、亡くなってしまいました。「あんなに親切にしてくれた優しいタビタさん、死んでしまうなんて」周りの人たちは、どれほど悲しかったことでしょうか。でも泣いてばかりはいられません。人々は、悲しみを我慢しながら、彼女の体を洗い屋上の間に安置して埋葬の準備をします。その行動は、当時の習慣に従っていたと思いますが、人々は、ある希望を持っていたのかもしれません。
 「そう言えば、近くのリダと言う町に使徒のペテロさんが来ているらしいよ。ペテロさんは、アイネアと言う人の病気を治したそうだよ。ペテロさんなら奇跡を行うことが出来るのではないか。」こうしてすぐにペテロに使いを送り、ヤッファに来てもらいました。

 ペテロが到着すると人々は、「これは、タビタが作ってくれた上着です。タビタはとても親切なクリスチャンでした。タビタは、神様の愛に生きた人です。」と話しました。ペテロは、人々を部屋から出し、一人ひざまずいて、静に神様の御前に祈りました。そして「タビタ、起きなさい」と呼びかけます。するとタビタは、目を開けて起き上がりました。ペテロは、神様の力によってタビタを生き返らせました。だから人々は、生き返ったタビタを見て、主を信じたのです。

 皆さん、タビタが生き返ったことは素晴らしい事です。ペテロの信仰も素晴らしものです。けれども今日、注目したいのは、タビタの生き方です。タビタは、イエス様の十字架の救を信じ、罪人を赦してくださる神様の愛を知りました。タビタは、イエス様の救い、神様の愛を多くの人に伝えるために、自分にできる限りのことをしました。
 今皆は、小学生や中学生、高校生です。神様のために出来ることはないと思うでしょうか。いいえ、皆の出来ることがあります。今週の御言葉(Ⅰヨハネ3章18節)を読みましょう。
 まず神様を信じ、イエス様の十字架の救いを信じましょう。そして僕たちを愛してくださる神様の愛に感謝しましょう。そして自分の信仰や神様への感謝をどのように表わすことが出来るか考えてみましょう。友だちのために祈ることも出来るでしょう。声をかける事や手紙を書くことで友だちを励ましたりすることも出来るでしょう。
 友だちのために何かをするよりも前に、自分が神様の助けが必要だと言う人もいるでしょう。その人は、自分の気持ちや思いを神様に祈りましょう。神様は、皆の祈りを聞いて、必ず助け、励まし、導いてくださいます。

 祈り
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。タビタは、神様を信じが、自分に出来ることを通して神様に仕え、人に仕えていました。神様、僕たちも神様の愛を伝えるために何かが出来ることを知りました。どうか、教えてください。自分の出来る限りのことを通して、友だちに神様の愛を伝えることが出来るように助けてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」
                          ヨハネの手紙第一 3章18節

<適用>

 今から30年以上も前になりますが、私が夏に行われている大学生キャンプ参加した時の事です。その時、キャンプでは、「エンジェル・ゲーム」と言うのをしていました。何かと言うと参加者一人一人が、最初にくじを引きます。そのくじには、他の参加者の名前が書いてあります。キャンプ期間中、自分が引いたくじに書かれている人に対して親切にするという事でした。例えば、お菓子や飲み物をプレゼントするなどです。しかも、自分が何かをしていることを知られないようにというルールでしたので、別な人に頼んで渡してもらうとかしていました。参加者が誰かを支え、そして支えてもらうと言うキャンプとなりました。このチャレンジは、他の人を励まし、仕えるという事の大切さ、自分が支えられることの喜びを教えてくれました。キャンプ期間中、サポートする人を注意深く観察して、今何が必要なのかを判断して行動するのです。緊張感のあるキャンプだったと記憶しています。
 タビタは、一人一人をよく観察して、相手にとって本当に必要な事は何かを判断していたのだと思います。そしてタビタは、必要な時に、手を差し伸べるという事を通して、自分の信仰を表していたのです。

Ⅰ;自分の出来ることを通して

 しかもタビタは、自分の出来ることを通してそれをしていました。私たちは、自分の出来ることを通して、信仰を表しましょう。タビタは、人々の前に出て御言葉を伝える働きをしたわけではありませんでした。パウロの伝道の働きを一緒にしたわけでもありませんでした。しかし彼女を通して、多く人が福音を知り、励まされ、力づけられ、信仰に導かれたのです。それは、タビタが、多くの良いわざと施しをしていたからです。タビタは、自分に出来ることを通して神様に仕えていたのです。
 そのタビタが病気のために死んでしまいました。人々は、当時のしきたりに従って遺体を洗って、屋上の間に置き、死者を葬るのです。タビタの死は、多くの人々を悲しみに沈ませました。そこには、もう親切なタビタがいないのです。そこでヤッファに近いリダにペテロがいることを知っていた人々は、ある期待を持ってペテロを呼び寄せます。彼らは、リダでの癒しの奇跡を聞いていたのでしょう。人々は、ペテロが着くと、屋上の間に案内しながら、タビタのしてくれた数々のことを話しました。

ペテロは、人々を部屋から出して、ひざまずして祈りました。そして「タピタ、起きなさい。」と言いました。するとタビタは、生き返り起き上がりました。それは、かつてイエス様が行ったのと同じやり方です(マルコ5:35-43)。集まっていた人々は、神様の奇跡のみわざを驚いたと共に、大きな喜びに包まれました。ペテロに奇跡の力があったから、タビタが生き返ったのではありません。ペテロは、リダでアイネアを癒す時「イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。(使徒9:34)」と言っています。タビタの場合も同じことでした。イエスご自身が、ペテロを通して奇跡を行い、神様の力が希望を与えたのです。タビタは、このイエス様の救い、神様の恵みを伝えるために忠実に仕えていたのです。

 私は、使徒の働きにあるタビタの姿を読むたびに、行田教会で奉仕をしていた時に出会った一人の婦人の事を思い出します。その方は、若い頃、洋服を作る会社に勤めていました。その方は、社長が信頼する程、優れた技術を持っていたようです。クリスチャンになってからは、教会の中でも裁縫を生かしてたくさんのものを作ってくれました。亡くなる数年前に私にもシャツを作ってくださいました。彼女は、もちろん家族のために洋服を作りました。それは、家族にも神様の愛を伝えるためであったと思います。彼女は、とても穏やかな方で、とても親切な方でした。彼女は、自分に出来ることを最大限に生かして神様に仕えていました。

 私たちは、福音を伝える働きには様々なことがあることを覚えておきましょう。今月からトラクト配布を行います。詳細が決まり次第お知らせします。ぜひ、一人ひとり無理せず、自分に出来る範囲の中で協力していたければと思います。神様は、私たちの趣味を用いてご自身の愛を伝える働きをしてくださることもあります。ぜひ、神様の愛を伝えるために今の自分に何が出来るのかを考えみてください。

Ⅱ;実践しましょう

 私たちは、何が出来るのかを考え、それを実践しましょう。そのようにして私たちは、信仰を表すことが出来ます。
 ヤコブは、手紙の中でこの信仰の真理を教えています。「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。…。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。(ヤコブ2:14‐17)」

こ れは、何か良いことをしないと罪の赦し救いがないという事ではありません。ヤコブは、信仰には行いが伴い、行いは信仰によって発生することを私たちに教えています。パウロは、人はイエス様の十字架の贖いを信じる信仰によってのみ救われ、義と認められると言っています(ローマ3:23‐24、使徒4:11‐12)。これが福音の真理です。しかし、ヤコブは「信仰は行いによって完成されました。」、「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない」と言っています。一見パウロと矛盾しているように思われるのですが、決して矛盾しているのではありません。ヤコブは、信仰によって罪赦され神の愛を知った者が、その信仰を行いによって表現しなければ、そのような信仰にはいのちがないと言っているのです。

 私たちの信仰の歩みを車に例えるならば少し理解できるでしょう。信仰と言う前輪があります。信じることは大切なことですが、それだけならば前に進むことは出来ないのです。前にタイヤがついていても、後ろにタイヤがなければ車は動きません。そしてこの後輪の役目をするのが、「行い」です。確かに私たちが救われたのは、聖書が教えるように信仰によることです。私たちは、恵みのゆえにイエス様の十字架を自分のためと信じる信仰によって救われます。ヤコブは、罪赦され、神様の無償の愛を受けた者として良い行いをすることを教えているのです。

 ヨハネも同じことを私たちに教えています。一緒に今週の聖句を読みましょう。「子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう(Ⅰヨハネ3:18)。」私たちは、神様の愛を表し、互いに愛し合い、支え合うために、信仰を行動に表しましょう。あなたは、神様のために何をすることが出来るでしょうか。「何も出来ない」という事はありません。私たちは、神様の無条件の愛で愛されているのです。私たちは、この神様の愛を表していく必要があります。そのためには、様々なことがあります。教会での奉仕、聖書について説明する、教えるだけではありません。誰かのために祈る事、手紙を書く事、尋ねる事、電話をする事、穏やかに人と接する事、周囲の人に親切にする事等々、実に多くの事柄があるのです。もし出来ることがあるならば、それを実践しましょう。

 しかし、一つのルールを持っておくことをお勧めします。それは、実践する時や方法について祈りつつ神様の導きを求めるという事です。もし、相手の事を考えず、自分の都合で行動に起こすとしたら、それは自己満足となってしまう可能性があります。私たちは、自分の出来ることを考えて、神様のためにと実践します。けれども、私たちは、神様が導かれる時と神様が喜ばれる方法を祈り求めながら実践しましょう。

 子どもたちにも話しましたが、今は、自分が助けを必要とし、励ましを必要としているという時もあるでしょう。そのような時は、無理に行動をする事はないと思います。神様の助けを求めましょう。神様は、ふさわしい時と方法によって助け手を送ってくださいます。そのように私たちは、何かを受ける幸も知ることが出来ます。
 ともかく、私たちの信仰は、私たちの生き方に反映される必要があります。私たちは、信仰を表しながら歩みましょう。皆さんを通して、神様の愛の輪が広がっていくようにと祈ります。

祈り
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、神様の無条件の愛によって愛されていることを感謝します。そして、イエス様の十字架の救いを信じる信仰によって救われていることを感謝します。
 私たちは、愛され、赦されている者として、信仰を表しながら歩みます。神様、私に何が出来るのかを教えてください。そしてそれを実践する知恵と力を与えてください。私たちの生き方を通して、神様の栄光が表れるように導いてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」