2022年9月18日(日)礼拝説教 列王記第一 8章1-21節 「神を人生の中心に」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 2学期が始まり、これから運動会が行われる学校があるでしょうか。中学校は、「学校祭」の準備が始まっているでしょうか。運動会の準備の一つとして、応援のための団長が決められます。団長は、自分たちのチームへの応援をリードします。団員は、団長の声に合わせて力いっぱい応援をすることとなるでしょうね。「学校祭」のためには、色々と計画を立て、時間をかけて発表の準備をします。
 さて、前回イスラエルの国では、ダビデの後、ソロモンが王様となったことを聞きました。ソロモン王様は、神様に聞き分ける心、民を導く知恵を求めたのでしたね。神様は、ソロモンの願いを喜ばれ、ソロモンに知恵を与えてくださいました。それだけではなく、神様は、富も名誉などたくさんの祝福を与えると約束をしてくださいました。今日は、ソロモンが、神様のために神殿を建てたことを学びましょう。

 「さぁ、皆さん、エルサレムの都に神様を礼拝する神殿を建設します。父ダビデ王が神様によって与えられた設計図にしたがって作ります。皆で、力を合わせて取り組みましょう。」そう言ってソロモンは大勢の大工に命令しました。ダビデ王は、設計図だけではなく、たくさんの材料も用意していました。神殿は、神様がこのように造りなさいと命じたとおりに造られます。

 建物の大きさは、長さがおよそ26m、幅が9m、高さが13mとなりました。だいたい3階建てくらいの高さになります。建物の材料は、石や木材です。今では、ダンプカーで大きな荷物を運ぶことが出来るし、3階建ての建物でもクレーン車を使って柱などを持ち上げて組み立てることが出来ます。しかしソロモンの時代は、ダンプもクレーン車などもありません。大きな石でも人の力で運ぶ必要があります。建築現場では、石を割る音や鉄の音などがしなかったと言われています。石を切り出す場所は別にあって、そこで石や木材が切り出され、建築現場に運ばれます。「そーれっ!!」と皆で力を合わせて大きな石と押して、引っ張って運びます。建築現場では、運ばれた石をやはり皆で力を合わせ、声を合わせて組み立てるのです。大変な作業となりました。
 神殿の内側は、上質の杉の木の板で覆われ、美しい模様が刻まれました。神殿には「至聖所」という場所があります。至聖所は、神様がモーセを通してイスラエルの民に与えた十戒の石板の入った契約の箱を置く最も大切な場所です。この至聖所は、全部「純金」でおおわれました。神殿は、杉の木の良い香りがして、至聖所は、ピッカピカの純金です。こうして7年かけて神殿が完成しました。

 ソロモン王は、完成した神殿を「神様に捧げます」と言って奉献式を行いました。契約の箱が至聖所に運び込まれた時、神様の素晴らしい臨在と輝きで神殿全体が包まれたのです。それは、神様が人々の礼拝を喜ばれ、いつも一緒にいるという約束でもありました。ソロモンは、イスラエルの民を代表して神様に祈り、人々は神様を礼拝しました。ソロモンは、神様の御言葉に聞き従い、神様の教えを守るようにと人々を教えました。
 今週の聖句を読みましょう。「わたしは、あなたがわたしの名をとこしえに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目と心は、いつもそこにある。(Ⅰ列王記9章3節)」神様は、いつもイスラエルの民と共にいて導いてくださると約束してくださったのです。今、僕たちは、教会に集まって神様を礼拝しています。それは、神様を礼拝する事がとても大切だからです。また僕たちは、一人一人が毎日の生活の中で神様を賛美して、礼拝することが大切です。そして聖書の御言葉を学ぶ事が大切です。神様は、心から礼拝する一人一人を喜んでくださり、皆のことを心に留め、どんな時でも皆を見守っていてくださいます。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。ソロモンは、神様を礼拝するための神殿を建設しました。神様は、それを喜び、祝福してくださいました。僕たちは、心から神様を礼拝します。僕たちの心を守ってください。僕たちの毎日を守り、導いてください。神様の御言葉に従って歩むことが出来るようにも助けてください。この祈りをイエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」

「わたしは、あなたがわたしの名をとこしえに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目と心は、いつもそこにある。」               列王記第一9章3節

<適用>

 今月4日に、群馬県嬬恋村で「キャベツ畑の中心で妻に愛を叫ぶ」というイベントが3年ぶりに開催されたそうです。キャベツの産地として有名な嬬恋村、この嬬恋村にある「愛妻の丘」と言う場所でイベントが行われたようです。そこに行かなくても愛を表現することは大切ですね。
 私たちは、「○○の中心」という表現をよく使うかもしれません。そして「中心」と言う訳ですから、何か大切なことを表す時に使うのだと思います。私たちの地域の中には、「公民館」などの建物があります。その建物が、地域の中心のようなものとなり、地域のコミュニティーの場所と言うことになります。そのような意味では、「公民館」などは地域の中心という事が出来るのかもしれません。
 今日の説教題にも「中心」と言う言葉を使っています。私たちは、最も大切な人生を考えた時、人生の中心には何があるでしょうか。今日は、「神」を人生の中心にする大切さと祝福を見ることにしましょう。

Ⅰ;神様が共に歩まれる

 まず、「神を人生の中心に」した時、その人生には神様が共に歩まれるという祝福があります。
 そのことを知るためにも私たちは、ソロモン王がエルサレムに神殿を建設し始めた時の記録に注目しましょう。Ⅰ列王記6章1節には「イスラエル人がエジプトの地を出てから480年目、ソロモンがイスラエルの王となってから4年目」とあります。どうして、このような表現がされているのでしょうか。それは、神殿が単なる建物ではなく、神様の臨在を示す重要なものだからです。イスラエルがエジプトを出た時と言うのは、モーセの時代です。神様は、モーセによってイスラエルの民をエジプトから脱出させました。そして神様は、シナイ山でモーセに十戒を与えてイスラエルの民を導きました。そして神様は、モーセに幕屋(聖所、至聖所)を造るようにと言われました。モーセは、神様が指示した通りに幕屋を造り、祭壇や十戒の石板を入れる契約の箱などを造りました。幕屋が完成した時、「主の栄光が幕屋に満ちた。(出エジプト40:34)」と言われています。そして、「昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった(出エジプト40:38)」とあるように、イスラエルの民は、幕屋を中心に宿営し、主の臨在によって導かれることとなりました。これは、神様が、モーセと共に歩まれ、イスラエルの民と共にいてくださったということなのです。

 ダビデは、幕屋ではなく神殿を建てるという志を持ちますが、神様は、ソロモンが建設するようにと導いておられました。こうしてソロモンが、神殿建設をするのです。実にモーセから480年後のことでした。ソロモンが神殿建設に取り掛かった時神様は、「わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。(Ⅰ列王6:13)」と約束してくださいました。また、神殿の奉献式が行われた時、「主の栄光が主の宮に満ちた(Ⅰ列王8:11)」のです。建物は、幕屋から神殿に変わりますが、幕屋と同じように神殿は、神様がそこに臨在される場所であり、イスラエルが神の民であるということを表しているのです。イスラエルの民は、神殿を中心に形成されるのです。という事は、イスラエルの民は、神を中心に生きる民だという事なのです。

 私たちは、何を人生の中心にして生きて行くのでしょうか。これは、私たちの人生の価値基準、存在意義がどこにあるのかという問いかけでもあります。私たちは、「学歴社会」と言われて来た中で生きて来ました。今は、以前ほどは強調されなくなったように思いますが、まだまだ「学歴社会」という風潮があるような気がします。そのような社会では、「学歴があれば良い、学歴がないとだめ」という事になり、学歴だけが価値基準のようになってしまいます。その延長線上には、「何かが出来る事」が存在意義となってしまいます。そのような価値基準や存在意義は、狭く息苦しく、人を幸せにはしないのです。

 神様を人生の中心にすると私たちの可能性は限りなく広がって行きます。なぜなら、神様ご自身が共にいてくださり、捨てないと約束をしておられるからです。神様は、私たちが何が出来る、出来ないに関係なく愛しておられます。学歴を求めてはいけないと言うのではありません。学生にはたくさん勉強して、大いに知識を蓄えて欲しいと思います。なぜならば、学んだことは、私たちの人生の中で有意義に用いられることとなるからです。ただそれ以上に、私たちは、神様を求める事、神様と共に歩めると言う祝福を心に留めることが大切だということを忘れてはならないのです。私たちは、神様から生きる力を頂くことが出来ます。そして神様は、私たち一人一人の存在を喜び愛してくださるのです。私たちは、「神を人生の中心に」して歩みましょう。

Ⅱ;礼拝・御言葉・祈り

 「神を人生の中心に」する歩みは、神様を礼拝し、御言葉に生かされ、主に祈るという幸いな歩みへと導かれて行きます。
 神様は、ソロモンに「あなたがわたしの掟に歩み、わたしの定めを行い、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしはあなたについてあなたの父ダビデに約束したことを成就しよう。(Ⅰ列王6:12)」と言われ、イスラエルのただ中に住み、捨てないと約束されました。だからソロモンは、神殿奉献式の中で「私たちの神、主と心を一つにし、主の掟に歩み、主の命令を守らなければならない(Ⅰ列王8:61)」とイスラエルの民に命じているのです。
 これは、主なる神様を礼拝し、御言葉を心に留め、御言葉に従い、主に祈りつつ御心を求めて従順に歩むことが大切だという事です。このように聞くとある人は、「やっぱり神様は、あれをしろ、これをしろと命令して、自分たちを従わせ、何が出来るか出来ないかを見ているのではなか」、「なんか窮屈で不自由な人生だ」と反論したくなるかもしれません。

 私自身、ある時「神様を信じて何になるのだろうか。聖書を読んで従って何か意味はあるのだろうか」と考えた時期がありました。私は、教会には通っていましたが、聖書を読むことはなく、積極的に祈ることもしませんでした。その時の私は、「神様に従わなくても自分は生きける」という神様への反抗期を迎えていて、自分の自由に生きる道があると考えていたのだと思います。そのような日々の中で私の心は、徐々に気力を失って行きました。そして「なぜ自分は生きているのだろうか、これからの人生どうなるのだろうか」という不安な気持ちが私の心を支配しました。「自分の自由に生きる」予定が、何か不自由な感じになりました。そのような状況で、私は、何をしても満足を得ることはなく、空しさだけが心に溢れるのです。私は、これでは本当にダメになると思い、神様の御前に悔い改め、聖書を開きました。すると神様は、御言葉を通して私に語りかけてくださり、私の心を神様からの恵みで満たしてくださいました。

 ソロモンが行った奉献式は、神様への礼拝となりました。その礼拝は、神様への感謝に溢れ喜びに包まれていました。ソロモンは、「イスラエルの神、主よ。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と恵みを守られるお方です。(Ⅰ列王8:23)」と告白しています。神様は、心から礼拝する者を祝福し恵みを豊かに与えてくださいます。またソロモンは、「あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、今日、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。(Ⅰ列王8:28)」と祈りました。神様は、私たちの心の叫び、祈り、願いにしっかりと顔を向けて耳を傾けて聞いてくださいます。神様は、今週の聖句にあるように「わたしの目と心は、いつもそこにある(Ⅰ列王9:3)」と言っておられます。

 皆さん、聖書を読み神様の教えに従って歩むことは、私たちを神様の恵みの中に導くことになります。神様を心から礼拝するという事は、神様から与えられる喜びによって人生が彩られるという事なのです。神様に祈り求めるという事は、神様が私たちの人生に祝福を与えてくださるという事なのです。
 私たちは、「神を人生の中心に」迎えて歩みましょう。そして神様を心から礼拝し、御言葉に教えられ主に従い、祈りつつ歩みましょう。そのような人を神様は、決して見放さず見捨てず、「わたしの目と心は、いつもそこにある」と約束してくださるのです。神様は、私たちの人生を共に歩んでくださいます。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様が、私たちと共に歩んでくださることを感謝致します。私たちが御言葉を読み教えられる時、私たちは神様の導きを知ることが出来ます。私たちが心から神様を礼拝する時、神様は私たちを祝福し喜びで満たしてくださることを感謝致します。私たちが、神様の御前に祈り求める時、神様は御顔を向け、耳を傾けて聞いてくださり、御手を伸ばしてくださることを信じます。私たちは、神様を人生の中心にお迎えして歩みます。どうぞ導いてください。
 私たちが生かされている世界は、不安定で先の分からない状況です。神様、どうか私たちの心を神様の平安で満たして、助け守ってください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」