2022年9月25日(日)礼拝説教 列王記第一 11章1-13節 「信仰を貫くために」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>

 今日はまず、クイズを出したいと思います!ソロモンが神殿を建てた時、神様は何と言われたでしょうか?〇だと思ったら教えて下さい。
Q1.あなたの神殿でのお祈りを聞きました。
Q2.誰かが神殿で祈っても聞きません。
Q3.わたしの命令を守って正しい生活をすれば、イスラエルの国はいつまでも続きます。
Q4.本当の神でないものを拝むと、国は栄えます。
 さあ、どうでしたか?覚えていたかな?ソロモンは若いころは、神様のお言葉を守って立派な王となりました。でも年をとってからは、雲行きが怪しくなっていきます。何があったのでしょうか?

 ここはソロモン王の宮殿です。こちらにいるのは遠いシェバの国の女王様です。「イスラエルはすごく豊かで、王様の知恵も凄い」という噂を聞いて、はるばる確かめに来たのです。先日のエリザベス女王のお葬式中継を見て、王様たちが集まると葬儀ですら豪華だなあ、と思いました。ソロモンとシェバの女王の場合も、それはそれは豪華な対面になったようです。
 女王はまず聞きました。「ソロモン様、私の国ではこれこれの課題で話し合っているところです。あなたはどう考えますか?」すると、どんな難しい質問でもソロモン王はスラスラ答えました。答えられない質問はなかったと言います。また女王は宮殿や宴会のぜいたくさ、家来たちの様子の立派さ、神殿で捧げられるいけにえの多さに驚いて、息も止まるばかりでした。シェバの女王とソロモン王はたくさんの贈り物を贈りあって、女王は満足して帰って行きました。

 一方でこちらはソロモン王のプライベートな様子です。王様の周りにきれいな女の人が何人もいますね。奥さんでしょうか?召使でしょうか?正解は、みんなお妃です。驚くことに、ソロモンは何百回も結婚しました。国同士の結びつきを考えたのか、エジプトの王女様や、周りの国から次々とお妃をもらいました。それだけでなく、きれいな女の人を見ると次々お妃にしました。その数なんと王妃が700人、正式ではないお妃が300人!これはちょっと行き過ぎです。でもソロモンは、こうした女の人たちをそばに置くことが楽しくて、決して離れなかったといいます。
 こういう状態がソロモンの信仰にとって、大きな罠になりました。外国人のお妃たちは「王様、私の国の神様を拝みたいので、礼拝する場所を作って下さいな」とねだり始めたのです。するとソロモンはお妃たちの喜ぶ顔が見たくなって、「いいよ、いいよ」と偶像のための礼拝場所を作らせてしまいました。こうしてイスラエルのあちこちで、諸外国の偶像の神々にいけにえやお香が捧げられるようになってしまいました。

 皆さんはソロモンの状態をどう思いますか?最初のクイズを思いだして下さい。神様から警告されていた良くないことを平気でしていますね。神様よりもお妃たちを愛して、神様の怒りを買うようになってしまったのです。神様はソロモンに言いました。「あなたが私の命じたことを守らなかったので、あなたの国を取り上げて、あなたの家来に与える。だが私に忠実だったあなたの父ダビデに免じて、一部はあなたに残そう。」こうしてイスラエルの国は真っ二つに引き裂かれていくのでした。
 ソロモンは若い時の純粋な信仰をいつしか忘れてしまいました。どんな宝を手に入れたとしても、神様と心が一つになっていないと祝福を失ってしまいます。私たちの中に、神様よりも大事に思えるもの、でも喜ばれないものはないでしょうか。聖書は神様を心から愛することを教えています。神様こそ私たちを愛して祝福して下さる方だからです。今日のみことばを読みましょう。いつまでも祝福を失わないように、神様への愛を大切に持って行きましょう。

祈り
「神様。何かを得た時、高慢になって神様を忘れたり、軽んじたりすることがあると分かりました。私たちをソロモンのような失敗からお守りください。心をこめて神様を愛する歩みをしたいと願います。私たちを強め、歩みをお導きください。御名によってお祈りします。アーメン。」

「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」               申命記6章4~5節

<適用>

 先日YouTube(ライフ・ラインのYouTubeチャンネル)の番組で、羽鳥明先生の最晩年のご様子を改めて見る機会がありました。ご存じない方のために申し上げるなら、羽鳥明先生は福音伝道教団の牧師であり顧問を務めておられました。いつも熱血で、「脳溢血で倒れるんじゃないか?」と心配になるくらい熱いメッセンジャーでした。
 先生が2017年に召天なさる直前の出来事が番組のハイライトでした。そこには、病を得て意識も混濁している羽鳥先生が、突然説教を始める様子が収められていました。バーネット宣教師が涙を流して伝えてくれた福音の恵み。愛のない争いの絶えない家庭に育った自分がイエス様に愛されている、と知った時の大きな喜び。それを輝くような喜びに満ちた瞳で語っておられるのです。死にそうな時に説教をする、というのも驚きですが、元気な時と全く変わらない瞳の輝きが一番の驚きでした。チューブに繋がれ酸素マスクが充てられている状況です。このような晩年とは何と尊いことでしょうか。それは数百回のメッセージ、数万語の説教より、説得力に満ちたものでした。死に至るまで主イエス様への信仰を貫く生涯、輝く喜びを瞳に宿してこの世を去る生き方。私にそういう死に方が出来るだろうか、と深く考えさせられました。神様の側は、私たちに祝福を与え続けたいと願っておられます。問題は私たちの側です。今日はソロモンを反面教師としつつ、信仰を貫き晩年まで祝福を頂き続けるために必要な事柄を学んで参りましょう。

 1.小さな罪に潜む危険

 まず、ソロモンが見過ごしてしまった「小さな(小さく見える)罪」の問題を指摘したいと思います。先ほど見たように、外国人の妻たちの存在がソロモンをつまずかせたのは間違いありません。11:1~3にあるように、1000人もの女たちを、彼はその壮年期までに娶っていました。では、そのきっかけは何だったのでしょうか?理解するカギは1節にある「ファラオの娘」との婚姻だったと思われます。
 I列王記3章1節には、王に即位したばかりのソロモンがエジプト王ファラオと姻戚関係を結んだとあります。つまり政略結婚です。これは政治であり、一国の統治者としてファラオ、相手国エジプトとの関係性を円滑にするための手段だったのでしょう。この世の知恵としてはもっともな事でした。ソロモンも家臣も、また国民も、誰しもそう思ったことでしょう。

 しかしながらここに落とし穴がありました。先ほど見た11章2節にあるように、神様は外国人との婚姻を禁じていたのです。それによって起こる背教と偶像礼拝を予見しておられたからです。ファラオの娘もまた禁じられた異教徒、異邦人でした。しかし若き日のソロモンは「政治」として、「有効な手立て」として、主の教えに背いてもファラオの娘を娶ったのです。これはおそらく「罪」とも認識されなかったのではないでしょうか。しかし主の教えに背くのが罪だとすると、これは小さく見えてもやはり「罪」であります。のちのソロモンの堕落の、最初の一粒の「種」だと言わざるを得ないのです。
 このファラオの娘は、妻たちの筆頭として、ソロモンと同等の宮殿が与えられました。父であるファラオは、カナン人の町を攻め取って結婚祝いとして彼女に与えています。そんな彼女に、エジプトの神々からイスラエルの神への改宗など、求めることは出来なかったでしょう。ソロモンと外国の女性との関わり方の原型が、ここにあるのです。しかもソロモンは、そんな外国の女たちを自ら愛し、離れられなくなっていきました。ここにソロモンの色欲があったのは明白です。

 新約聖書のヤコブ1章15節にはこうあります。「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」欲からネズミ算的に罪が生まれる。最初は小さくわずかに見える罪が罪を生み、人生の崩壊、死がもたらされる。そんな警告です。
 ソロモンの妥協と同じ小さな罪が、私たちの人生の中に座を占めてはいないか、主の前に静まらせて頂きましょう。主に示された罪があるなら、悔い改め、手離し、主に委ねようではありませんか。

2.謙遜に弱さを認める

 2つ目にソロモンに欠けていたのは、謙遜さと自らの弱さへの認識であったと思います。壮年期に得た約1000人の妻たちがソロモンの心を転じましたが、それは老年期になって悪の花を咲かせていきます。11章4節を読みましょう。「ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主と一つにはなっていなかった。」そしてソロモン自身がアシュタロテやミルコムと言った異教の神々に従った、とあります。はっきり偶像礼拝をしたとはありませんが、宗教行事を容認し保護したことは考えられます。神々の託宣に基づく政治をした可能性もあります。6節によれば間違いなく「主の目に悪であることを行った」のです。
 あの英邁な知恵に満ちたソロモン王はどこに行ってしまったのでしょうか。知恵と繁栄による高慢が、彼を堕落した状態に陥れていました。そして老年期になり気力体力が衰えた時に、妻たちのコントロールは利かなくなっていきました。

 イスラエルには周辺諸国と全く異なる神様からの戒めがありました。申命記17章16,17節には「王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。…また王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。自分のために銀や金を過剰に持ってはならない。」とあります。どれもこれも、主なる神への信仰と信頼を損ねる誘惑をはらんでいるからです。しかしソロモンはそれらを追い求めました。強く立派なもの、美しいもの、豊かな繁栄、堅固なシステム、それらは魅力的です。しかし心を支配されるなら、偶像になりうるのです。
 人生の年輪を重ねるほど自分は大丈夫、この経験、知識、見識、財産が私を守る、と思い込む危険があります。また若いうちは、キャリアを積み重ね、次は家庭、マイホーム、子育て、と人生を豊かにしようと考えます。それは素晴らしいことです。しかし神を離れて人生の豊かさを手にしようとする試みは、危険なものでもあるのです。ソロモンも神の怒りを引き起こしてしまいました。

 最後に祝福を失うような生き方、それは避けたいところです。神のみことばに背くなら、祝福はその人を去ります。人生をコントロールする力を失う時が、誰にでも必ず訪れます。その弱さをまず認めることが必要です。その時問われるのは、信仰を同じくする伴走者を大切にしているか、信仰を守り抜く備えがなされているか、ではないでしょうか。大切にすべきものを大切にする。持つべきでないものを手放す。ソロモンはそうしたことに心を配りませんでした。すべてを得たようでいて王国分裂という裁きがなされます。私たちが今大切にすべきは誰でしょうか。大切にすべき事柄はなんでしょうか。人生の秋、そして冬が訪れる前に、今一度自分を見つめなおし、そこに主の助けが与えられるようお祈りいたしましょう。

3.大事なことの反復

 最後に、今日のみことばについてですが、これはユダヤ人には「シェマー・イスラエル」として知られている祈りでもあります。「聞け、イスラエル」のヘブル語ですが、ユダヤ教に熱心なユダヤ人は幼少時からこれを日々唱え、臨終の時に唱える祈りもシェマーだといいます。
 キリストの栄光教会牧師の川端光生先生は、ソロモンがここまで堕落した理由を「大事なことを反復しなかったからだ」と解説しています。イスラエルにはこのシェマー・イスラエルを、日々どこででも何度でも反復して唱えることが求められていました。また安息日礼拝の反復なども求められていました。主を忘れないためのこうした地道な反復がされなかったことが問題だ、と言うのです。確かにそれはおろそかにされかえって偶像礼拝が盛んになった様子が伺えます。私たちはどうでしょうか。日々のみことば、週ごとの公同の礼拝、年ごとの祝祭、大切にし続けているでしょうか。そうしたものが私たちの信仰を守り、祝福からこぼれ落ちることを防ぎます。そしてその反復が次世代への継承に繋がるのです。

 イエス・キリストはこのみことばが、聖書で一番大切なものだとおっしゃいました。これは「主と一つ心で生きる」ということに要約できるのではないかと思います。信仰生涯が最後まで堕落しないように、もっと言えば、晩年の羽鳥明先生のように喜びと輝きに満ちたまなざしで人生を全うできるように願います。日々自分の心にこのみことばを覚え、心を込めてこのみ言葉に生き、私たちに出来ることを励んでいこうではありませんか。

祈り
「神様。礼拝の時を感謝いたします。ソロモンの晩年の姿を反面教師に、信仰生涯を貫き通すため必要なことを学ばせて頂きました。小さく見える罪を自分に許していたでしょうか。弱い私たちを助け、悔い改めるべきを悔い改め、罪の拡大に陥ることがないようお助け下さい。御怒りを引き起こす堕落から守って下さい。謙遜になり、大切にすべきこと、手放すべきこと、あなたのみことばに照らして自らを整えさせて下さい。そしてあなたを愛することに最善を尽くす者となりたく願います。どうぞお助け下さい。御名によってお祈りします。アーメン」