<子どもたちへ>
預言者エリヤのお話をずっと聞いてきましたね。前回は、アハブという悪い王様のバアル礼拝に対抗して、カルメル山での対決のお話でした。天から火が下るという、映画にしたら凄そうな出来事で、エリヤが信仰で勝利したのでした。
さて今日は、その後のエリヤのお話です。エリヤは対決の後、心も体もすごく疲れてしまいました。そして「神様、私はもう十分働きました。天国に行かせてください。」と弱音を吐くほどになってしまったのです。でも神様はおっしゃいました。「あなたに代わる預言者を選んであるから、会いに行きなさい。」エリヤは神様に言われたとおりに出かけて行きました。
すると、畑を耕している若者に出会いました。名前をエリシャ、と言いました。するとエリヤは自分の上着をエリシャにかぶせました。これは「預言者の跡継ぎに選ばれましたよ」という合図です。エリシャはびっくりです。「エリヤ先生、私が預言者になるのですか⁉まず家族に挨拶に行かせて下さい。」エリシャはお父さんとお母さんに挨拶をして、エリヤについて行きました。
エリシャが預言者修行を始めて何年か経った時のことです。神様がエリヤを竜巻に乗せて天に引き上げることにされた、と聖書にあります。エリヤが「あなたはここに残りなさい」と言うと、エリシャは「いいえ、私はあなたを離れません!」と言ってどこにでもついていきました。ヨルダン川まで来ると、エリヤは上着で水を打ちました。すると水は両側に分かれて2人は川を渡ることが出来ました。まるでモーセが海や川を分けた時のようですね。
エリヤは言いました。「わたしが神様のところに行く前に、欲しいものがあればを求めなさい。」不安そうなエリシャの気持ちを思いやってくれたのですね。エリシャは言いました。「あなたの霊的な力を2倍分下さい!」偉大なエリヤの後を継ぐには、未熟な自分にはエリヤの倍の祝福が必要と思ったのかもしれません。エリヤは答えました。「難しいことを言うなあ。だが私が天に上る様子を見られるなら、神様が願いにこたえて下さるだろう。」
すると突然2人の間に火の戦車と火の馬が現れました。そしてエリヤは竜巻に乗って天に上って行きました。エリヤは死を経験せずに天に帰って行ったのですね。「エリヤ先生!わが父よ!イスラエルの偉大な方!」エリシャはそう叫びました。大預言者エリヤがいなくなり、いよいよ自分の番が来てしまったからです。エリシャは「エリヤの神様はどこにおられるのですか⁉」と神様をお呼びしました。そしてエリヤの上着で川の水を打つと、水は両側に分かれて川を渡ることが出来ました。エリヤがしたのと同じことを出来たのです。これは、神様がエリシャと一緒にいて下さることのしるしでした。こうしてエリシャはエリヤの働きを引き継いで、預言者として活躍していきます。
皆さんの中でも、上の学年が去って行き残されるのが不安だ、という人がいるでしょう。自分が卒業する側や去って行く側で、後のことや自分のこれからが不安だ、という人もいるでしょう。どちらにも共通して言えることがあります。それは、神様がすべてをご存知で一緒にいて下さる、ということです。
今日のみことばを読みましょう。「召し」とは「神様からの(こう歩みなさいという)呼びかけ」です。自分に神様が望んでいることを良く考えて、ふさわしく行動しよう、というみことばです。それにはエリシャが求めたような神様からの力が、私たちにも必要です。私たちを大切に思っておられる神様は、信じて求めるならその力を与えて下さいます。神様に信頼して歩んで行きましょう。
<祈り>
神様。私たちも自分がこれからどうなるかわからず不安を感じることがあります。でも神様がすべてをご存知で、一緒にいて助けて下さることを知りましたから、感謝します。不安を乗り越えて召しにふさわしく歩む力を、私たちにも豊かにお与え下さい。御名によってお祈りします。アーメン。
「あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。」 エペソ人への手紙4章1節
<適用>
本日の箇所は、「エリヤの昇天と後継者エリシャ」として絵画の題材としても取り上げられています。預言者職とその使命とが引き継がれていく場面です。
日本の中小企業では近年廃業を選ぶ会社が増えているそうです。廃業理由は様々ですが、上位には後継者を確保出来ない、という事柄が入るそうです。後継者問題は企業でも教会でも重要な事柄です。
日本の教会は異教社会にあって長らく少数派です。先日勇二先生と話していたことですが、宣教開始以来決して無くならなかったのは、本当にすごいことだと思います。信仰を生涯かけて守り通し、次の世代に伝えた方々の存在を意味するからです。私たちは罪の赦しといのちを与えて下さるイエス様の福音を、何より大切なものとして信じています。これは決して途絶えさせてはならないものです。この大切な信仰と教会の継承を、行き当たりばったりではなく意識して進めて行く必要があります。
今日は、バトンを渡す側のエリヤの姿、引き継ぐ側のエリシャの姿から、それぞれに学ばせて頂きたく願います。
1.主に委ねて後進を育てる
まずエリヤの姿に注目しましょう。Ⅰ列王記19章をお開き頂きたいと思います。そこでエリヤは、まるで燃え尽きたような姿を見せます。彼はカルメル山での勝利の後、王宮のあるイズレエルに来ていました。しかし狂信的なバアル信者である王妃イゼベルが復讐を誓って「明日の今頃までにお前を殺す」と言ってよこしました。エリヤはこの時、当然祈ったことでしょう。カルメル山と同じような、直接的な主の介入を祈ったかもしれません。しかし事態は動かなかったものと思われます。すると北イスラエル王国を逃れて南ユダ王国の端ベエル・シェバまで、恐れて逃げて行くのです。
「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから」(Ⅰ列王19:4)。彼は死に場所に選んだ木の下で眠りました。しかし御使いが水と食料をもたらし彼は養われました。そんな彼を主は神の山ホレブに導かれます。そこはかつてモーセが燃える柴の中で神にお会いした場所であり、十戒を授かったシナイ山と同一視される場所です。主が最初におっしゃったことはこうでした。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」これは「あなたには私を証する務めがあり、いるべき場所があるのではないか。それなのにここで何をしているのか」という意味でしょう。エリヤは答えます。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。…ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています」(Ⅰ列王19:10)。
そこには無力感と、神への苛立ちがにじみ出ているように思います。日本キリスト改革派八事教会の鳥井一夫牧師はここをこのように解説しています。「あの自分が一番輝いていた日が忘れられずに、エリヤはその日が再び来ることを願う後ろ向きな生き方をしていました。今ここであの日のように力を表してくれない神に、エリヤは失望の色を隠せないのです。」エリヤですらはまってしまった後ろ向きな生き方を、神様はどのように取り扱って下さるのでしょうか。
「主は言われた。『外に出て、山の上で主の前に立て。』するとその時、主が通り過ぎた。…地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった」(Ⅰ列王19:11,12)。大風、地震、そして火。しかしそのどれにも主のご臨在を見出すことが出来ませんでした。ただかすかな細い御声、その中に自らと共にいて下さる神を見出したのです。私たちに必要なのは、このように静かな神の臨在の前に自分を置くことだと教えられます。
この時点でエリヤに大きな変化は起きていません。しかしそんなエリヤに主は、新たな使命の遂行と後継者エリシャの任命を命じられます。先ほど見た通りです。15節から出てくる事柄は、エリヤ自身でなく後にエリシャが行っていきます。つまり、エリヤに託されたのは後進のエリシャを育てる役割だったのです。主の使命は特定の人物に属するものではなく、人から人へ、時代から時代へと引き継がれていくものです。ちょうど、リレーにおけるバトンのようなものです。これまでも今も、主のために労して下さっている皆さん。私たちは静かに主の前に出て、主と交わることで生きる力を頂きましょう。使命を成し遂げて下さる主に委ねて誠実に務め、引き継ぐべき器が起こされるよう祈りましょう。育てる側に回っていく心構えも必要です。用いられるのが自分ではなくとも、主のみわざがなされるのを喜ぶものとなりたいと願わされます。
2.主に信頼して示された道を進む
さて働きを委ねられたエリシャの側に立って見て行きましょう。エリシャが召されてから、数年が経ちました。その間にアハブ王も息子のアハズヤ王も亡くなっていきます。
Ⅱ列王記2章を見ますと彼らがギルガルにいた時、主がエリヤを竜巻に乗せて天に召し上げる計画が示されました。ギルガルには預言者学校があったようです。5年を超えるエリヤによる薫陶がそこにありました。そこから師弟は連れ立って、ベテル、エリコ、ヨルダンへと移動していきます。召天を前にして預言者仲間に挨拶する目的があったのかもしれません。エリシャは片時も師のそばを離れませんでした。迫りくる別れの時、あまりに重い責任に怯えるかのようです。預言者たちに「今日、主があなたの主人を取り上げられることを知っていますか」と言われ、「黙っていてください」と返すような心境でした(2:3、5)。
召天を前にしたエリヤに「あなたの霊のうちから、2倍の分を私のものにしてください」と願ったエリシャ。先ほど見たように、自分にはエリヤに与えられた倍以上の霊の恵みがなければ、とても同じ役割は果たせないと思えたのでしょう。彼にはエリヤの後継者としての地位(=権力)も役に立つと思えませんでした。また彼はかつて裕福な農夫でしたから、それなりに社会的な知恵や能力もあったことでしょう。しかしそれも彼に平安を与えるものではありませんでした。そんな中決定的な瞬間が訪れます。火の戦車と火の馬の出現、そして竜巻によってエリヤが天に召し上げられて行ったのです。
この時エリシャは主を呼び求めました。「どこにおられるのですか」と。どこに?主は、エリシャのそばに共にいて下さいました。川の水を分ける、という奇跡がそれを証明しました。彼が求めた2倍の霊の祝福、それは既に与えられていたのです。「私の召天を目撃することが出来ればそれはかなえられる」とエリヤは言っていました。そこにいれば誰でも目撃できるのでは、と思いますが事実はそうではありませんでした。エリコから来た預言者仲間は見ていましたが、どこかの山か谷でエリヤを探させてくれ、と頓珍漢なことを言っています(16節)。彼らには、火の戦車や馬を見ることが出来なかったのでしょう。そういう意味でもエリシャは霊的に目の開かれた人物、主からの霊を十二分に受けた人物だったのです。そんな人でも不安はありました。ここから教えられるのは、主なる神様に信頼する大切だということです。
イエス様はおっしゃいました、「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのかわかりません。御霊によって生まれる者もみな、それと同じです」(ヨハネ3:8)。風は目に見えない、けれども木々をゆらし葉をそよがせるのを見れば、風があるのが分かる。これは信仰による新生を教えるみことばです。同じように、神のみわざも目には見えませんが、そこに実現していく変化を通して、たしかに神が働かれたと知ることが出来るのです。エリシャの場合もそうでした。
その後エリシャはエリヤの来た道を逆にたどるように、エリコ、ベテル、カルメル山、そして北イスラエルの首都サマリアに進んで行きます。エリシャは目に見えなくても共にいて下さる神に信頼し、進むべき道に邁進していきました。
私たちに大切なのも、主に信頼して進むべき道を進み続ける、ということです。バトンは主によって用意されました。それを勇気をもって受け継ぎ、しっかりと次に運ぶことが期待されているのです。それぞれの走り方でよいのです。偉大な先達の後を追うなどおこがましい、と思うこともあるでしょう。しかしそこで歩みを止めてはならないのです。
私たちも、主から「こう歩みなさい」という召しを一人ひとり頂いています。それはそれぞれの仕事、夢や目標の内に示されているかもしれません。教会における伝道、教会形成への思いもあるでしょう。また家庭や地域において担うべき役割があります。こうしたものの内に、主からの召しは存在しています。主は私にどんなバトンを渡そうとしておられるのでしょうか。もう一たび静まり、その召しの声を聴きましょう。そして、おごらず卑下せず、生き生きとバトンを繋ぐことに励んで参りましょう。
<祈り>
神様、主の日の礼拝に加えて下さり感謝いたします。私たちは時に、使命のバトンを渡す側にも引き継ぐ側にも立つことがあります。その中心にあるのはあなたからの使命です。働きに疲れを覚えるとき、あなたの静かな臨在によって生きる力を新たにお与え下さい。また、引き受けるべきバトンがあるなら、あなたに信頼してしっかりお引き受けすることが出来るように、私たちを励まして下さい。御名によってお祈りします。アーメン。