2022年10月30日(日)礼拝説教 列王記第二5章1-19節 「謙遜な心で歩む」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 今月小学校では、運動会がありました。中学校では、学校祭がありました。それぞれ楽しむ事が出来たでしょうか。運動会の練習の時、学年によってダンスがあり、組み立て体操がありました。多分その練習の時には、皆で協力し合いながら、どうしたらうまく出来るのかを話し合ったのではないでしょうか。学校祭では、合唱の発表がありました。合唱のためにも、各パートごとの練習があり、皆で息を合わせ、時にダメ出しをしながら練習したのではないでしょうか。お互いに意見を出し合いながら進める時、相手の言葉をしっかり聞いていくことでチームワークがよくなるものです。

 今日は、ナアマン将軍という人に注目しましょう。エリシャが、エリヤの後を継いで、預言者の働きをしていた時です。北イスラエル王国の隣の国アラムにナアマンという将軍がいました。
 ナアマン将軍は、人々から尊敬され、王様にも信頼されている人でした。けれどもナアマンには、とても重い病気という大きな問題がありました。ナアマンは、体の皮膚にできた病気を治すために色々な手を尽くしたと思います。けれども治らず、体中に広がってしまったのです。

 それを見ていたひとりの少女が「ご主人がイスラエル(サマリア)の預言者のところに行ったらきっと治ると思うのですが」と言いました。この少女は、イスラエルから捕らえられ、ナアマンの妻に仕えていたしもべでした。これを聞いた妻は、すぐにナアマンに言いました。するとナアマンは、アラムの王様にイスラエルの預言者のところに行かせてもらいたいと願い出ました。アラムの王様は、「分かった、イスラエルの王に手紙を書くから、すぐに行って来なさい。」と言って手紙を書き、ナアマンを送り出しました。

 ナアマン将軍は、北イスラエル王国に行って、イスラエルの王に手紙を渡しました。その手紙には、ナアマンを治してもらいたいと書かれていました。これを読んだイスラエルの王は、「病気を治すことなど出来る訳がない」と言って怒り出しました。これを聞いたエリシャは、ナアマンを自分のところによこしてくださいと伝えました。いよいよナアマンは、預言者と会う事が出来て癒してもらう事が出来ます。ナアマンは、「これから預言者は何をしてくれるのだろうか」とワクワク、ドキドキしながら預言者の家に向かった事でしょう。しかしエリシャは、ナアマンに会うことなく「ヨルダン川に行って7回体を洗いなさい」と伝えるだけでした。

 ナアマンは、怒り出しました。「きっと預言者が手をかざして、ありがたい呪文を唱えて、奇跡を起こしてくれるだろうと思っていたのに、ヨルダン川で体を洗えだと。しかも顔を出すことなく伝言だけだなんて、信じられん。」、「川で洗うなら、アラムにも素晴らし川があるではないか。どうしてイスラエルのヨルダン川に入らなければならないのか」。」ナアマンは、「もう帰る!!」と言って帰ろうとしました。
 その時です。一緒に行っていた家来が「将軍、一言よろしいでしょうか。預言者が何か難しいことを言ったら、あなたはそれにチャレンジしたのではないしょうか。預言者は、川に入って体を洗えと簡単なことを言っただけです。試してみてはいかがでしょうか。」ナアマンは、家来に言われて、エリシャの言った神様の言葉の通り、ヨルダン川に入りました。体を水に沈ませて1回目、何も変化がありません。2回目、3日目、こうしてナアマンは、7回体を浸して洗いました。するとどうでしょうか。体中に出来ていた病気が完全に治って赤ちゃんの肌のようにスベスベになったのです。
 ナアマンは、喜びに溢れてエリシャのところに戻りました。そして感謝のしるしとしての贈り物を渡すと言うのです。でもエリシャは、癒したのは主なるまことの神様だから、受取らないと断りました。ナアマンは、イスラエルに主なる神の預言者がいることを知りました。それだけではなく、ナアマンは、主なるまことの神様を信じる信仰に導かれたのです。

 ナアマンは、最初、「どうしてヨルダン川で体を洗わなければならないのか」と激怒し、エリシャによって示された神様の方法と導きを受け入れることが出来ませんでした。けれどもナアマンがへりくだって神様の言葉に従った時、病気が癒され、神様の祝福を受けることが出来たのです。
 僕たちも神様の言葉を信じて、素直に従って歩みましょう。神様は、へりくだって、素直に従う人に恵みを与えてくださいます。今日の聖句を読みましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様がたくさんの恵みを与えてくださることを感謝します。神様に素直に従って歩むことが出来るように導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」ヤコブの手紙4章6節

<適用>

 今日は10月30日、明日の10月31日は、宗教改革記念日となります。1517年10月31日にマルチン・ルターが、95か条の質問状を張り出したことによって宗教改革が始まりました。当時ローマ・カトリック教会は、免罪符を購入することで罪が赦されると教えていました。ルターは、この教えに疑問を持ち、聖書はいったい何と教えているのだろうかと聖書を調べるのです。そして、ルターは「信仰によって罪が赦される」という福音の真理を発見しました。神様は、イエス様の十字架の贖いを信じる、信仰によって罪を赦し、義と認めてくださるのです。こうして宗教改革が始まり、正しい聖書理解が広がり、私たちは、聖書信仰に立って、信仰による義を得ています。
 私たちは、教会に通うようになって、聖書を知り、イエス様を信じる信仰に導かれました。そして私たちは、聖霊なる神様の導きによって悔い改めに導かれ、心の中での改革が起りました。この変化は、イエス様を信じる信仰に導かれてから起こり続けています。聖書の御言葉は、私たちを教え導き、私たちが謙遜な心を持って歩めるように導いていきます。

Ⅰ;神様の祝福がある

 私たちが謙遜な心で歩む時、そこに神様の祝福があります。ナアマンは、エリシャの言葉に対して否定的な思いを持っていました。この否定的な感情は、エリシャを通して語っておられる神様を否定しいるという事になります。

 ナアマンは、何故エリシャの言葉に激怒したのでしょうか。ナアマンは、預言者の家に向かう時にいろいろな事を考えていたはずです。恐らくナアマンは、「預言者エリシャが出て来て、自分の体の上に手をかざして、呪文を唱えて癒してくれるはず。何か不思議な現象が起こり自分を治してくれるはず。」と考えていたのです。しかし、エリシャは、「ヨルダン川で7回体を洗いなさい」と言うだけでした。しかもエリシャは、顔も出さなかったのです。ナアマンは、アラムの将軍がせっかく、イスラエルに来ているのだから、快く出迎えてくれるだろうと考えていたのではないでしょうか。(Ⅱ列王記5:11-12)。
 ナアマンは、エリシャが出て来て、儀式的な事を行い世にも不思議な奇跡を起こしてくれるだろうと考えていました。けれどもそれは、ナアマンが自分で考えていた方法でしかありません。彼に取っては、ヨルダン川で体を洗うという簡単な方法は神の方法ではないと考えたのです。ナアマンは、神様の方法も神様の導きも神様の時も理解せず受け入れる事が出来ませんでした。ナアマンは、神様の方法よりも自分の考えた方法を求めていました。ナアマンは、自分の意に沿わないことを言われて、激怒して従うことが出来ませんでした。

 しかし、気をつけていないと私たちも同じようなことをしています。私たちは、ちょっと難しいこと、人には出来ないことを言われると挑戦したくなるものです。でも簡単なこととなると、それはしなくても出来ると決め込んで挑戦することはありません。また、自分の考えの通りでないと気が進まないことがあります。また、人にアドバイスを求めつつ、そのアドバイスを聞かないという事があるでしょうか。信仰においてもそうです。私たちは、神様に祈ります。でも神様に祈りながら、神様からの答えよりも自分自身の答えを持っていることがあります。だから神様の答えが自分の考えた事と違う時に、「この神様の導きは間違っている。それには従うことが出来ない」と神様の答えや導きを素直に受け入れることが出来ないのです。しかしそれでは正しく神様の御心を知ることは出来ません。

 ナアマンに求められたことそれは、神様の言葉に謙遜に従うということでした。エリシャが何故、姿を現さなかったのか。エリシャがナアマンの面会に応じていたら、きっと人間的な方法を求められたことでしょう。エリシャは、人間的な思いが入らないように、ナアマンが主なる神様だけを見上げ、神様のなさることに心の目を向けるべきだと考えていたのです。ナアマンが、へりくだって神様の言葉に従った時、彼は神様の恵みを経験することが出来ました。私たちもまた、へりくだって謙遜になり神様の御言葉を聞き、信仰をもって従って歩みましょう。そこに神様からの恵みと祝福が与えられていきます。

Ⅱ;ここにクリスチャンがいる

 私たちが謙遜な心で歩む時、「ここにクリスチャンがいる」という事が明らかになります。エリシャは、イスラエルの王がアラムの王の手紙を読んで驚き衣を引き裂いたことを知りました。そしてエリシャは、ナアマンを自分のところによこすようにと言いました。その言葉の中でエリシャは、「そうすれば、彼は(ナアマンは)イスラエルに預言者がいることを知るでしょう(Ⅱ列王記5:8)」と言っています。これは、この国に主の預言者がいることを知るという事であり、イスラエルの主なる神様こそまことの神だと知るようになるという事なのです。この言葉の通りにナアマンは、イスラエルに主の預言者がいることを知りました。それだけではなく、ナアマンは主なる神様の癒しを経験して、イスラエルの神こそ、まことの神様であると知り、信じたのです。

 実は、ナアマンが主なる神様を信じるためには、何人かの人がかかわっています。一人は、ナアマンの妻のしもべとなっていたイスラエルの若い女性です。そしてもう一人は、エリシャです。
 ナアマンの妻に仕えていた女性は、イスラエルに神の預言者がいることを知っていました。エリシャこそ主なる神の預言者であり、神の言葉を語り、神様がエリシャを通してみわざを行われることを信じていました。彼女は、へりくだった気持ちで女主人に進言しました。だからこそ一人のしもべの言葉がナアマンの妻からナアマンに伝えられたのではないでしょうか。
 エリシャは、どうでしょうか。もしエリシャが、自分の功績を求めていたら、きっと彼はナアマンと面会し、手をかざし祈って神の癒しを演出したことでしょう。けれどもエリシャは、ナアマンに会う事をしませんでした。なぜならば、癒しは神様のなさることであり、病をいやす方法や時は神様が定めておられるからです。エリシャは、ナアマンにそのことを知らせたかったのです。エリシャが、謙遜に神様の御心を求めて神様に従った結果、ナアマンは、神様の導きに心を向ける事が出来、病が癒され、主なる神を信じる信仰に導かれたのです。

 一人の若い女性とエリシャは、主なる神様を示すことが出来ました。そしてナアマンは、自分のすぐ側に主なる神を信じる人がいることを知りました。これは、とても素晴らしい事です。私たちの周りの人は、「ここにクリスチャンがいる」という事を知っているでしょうか。また私たちを通して、家族や友達は主なる神様がおられること、この方こそまことの神であり、恵みと祝福を与える方だと知ることが出来るでしょうか。

 皆さんは、宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩を御存じでしょう。この詩の最後に「そういう者に私もなりたい」という言葉あります。この「そういう者」のモデルは、宮沢賢治と同じ東北出身の齊藤宗次郎というクリスチャンだったと言われています。齊藤宗次郎は、当時、クリスチャンであるために迫害を受け、石を投げつけられ、馬鹿にされていたそうです。しかし彼は、迫害に遭い馬鹿にされても人々に尽くすことを止めずに謙遜に接していたと言います。宮沢賢治は、齊藤宗次郎の生き方に触れ「そういう者に私はなりたい」と言ったのではないでしょうか。まさに「ここにクリスチャンがいる」ということです。
 私たちの歩みが、「ここにクリスチャンがいる」と証しするもとなるように祈りましょう。そのために、私たち自身がへりくだり、謙遜に主なる神様を見上げ、御言葉に教えられながら、従順に従って歩みましょう。皆さん一人一人を通して、主なる神様の恵みが証しされ、神様の素晴らしさが広がって行きますように。

 

Ⅲ;神様の守りが約束される

 私たちが謙遜な心で歩む時、神様の守りが約束されます。
 ナアマンは、神様の不思議な癒しを経験し、主なる神様を信じる信仰へと導かれました。そしてナアマンは、イスラエルの土を持ち帰ることを願い出ました。それは、主なる神様への礼拝のための祭壇を作ることを意味していいました。ナアマンは、今後は、天地の造り主である主なる神様以外は礼拝しないと告白するのです。彼の生き方が180度変えられた瞬間でした。

 しかしナアマンは、将軍としてアラムの王に付き添い、アンモンという偶像礼拝の場に出ることになります。そこで膝をかがめても、偶像を礼拝する気持ちはないという事をエリシャに伝えました。エリシャは、「安心て行きなさい。」と答えます。これは、心が神様に向いていれば、偶像礼拝をしても良いという事では決してありません。エリシャが偶像礼拝を容認したわけでもありません。ここでエリシャが言っている事は、信仰の戦いの中にあっても主の守りがあるので、安心して主なる神に信頼しないと言う励ましの言葉です。

 私たちは、日本という異教の中にあって様々な場面に遭遇します。信仰を守ることに葛藤を感じ、霊的な戦いを経験することがあります。けれども私たちは、安心して主なる神様にお任せする事が出来ます。私たちが謙遜な心で歩み、主に信頼して行く時、神様は私たちを助け、必要な守りを与えてくださいます。
 神様は、謙遜な心で歩む者に恵みと祝福を与えてくださいます。そして私たちが謙遜な心で主なる神様に従って行く時、私たちを通して神様の栄光が現わされ、ここにクリスチャンがいることが明らかになり、神様の存在が示されることになります。私たちが謙遜な心で歩む時、私たちは、神様の助けを与えていただくことが出来ます。最後に今週の御言葉を読みましょう。
「神は高ぶる者には敵対し、へりくだる者には恵みを与えられる。」

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今日も神様の御前に進み出て礼拝できる恵みを感謝致します。
 神様、私たちは謙遜に御前を歩みたいと願いつつ、そのように歩めない者です。どうか憐れんで下さり、私たちの歩みを導いてください。神様、私たちが謙遜に御言葉に耳を傾け、御言葉に従って歩むことが出来るように導いてください。私たちを通して神様の素晴らしさが現わされるように、私たち一人ひとりを用いてください。神様、私たち一人ひとりに平安を与え、必要な守りと助けを与えてください。
 神様、新型コロナウイルスの感染がまだまだ続いています。どうかこの感染症を収束させてください。感染している方々が、速やかに癒されますようにとお願い致します。
 戦争・紛争が続いている地域にあっては、速やかに戦闘行為が終りますように。世界中に神様からの平和が与えられますようにとお願い致します。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」