<子どもたちへ>
「アー困った。アー困った、どうしよう!」僕が中学1年の時に、両親が交通事故に遭った時の最初の衝撃でした。僕は本当にびっくりしてどうしていいのか分かりませんでした。そこで僕は、冷静に考えて、神様に祈って助けてもらおうと決めて祈り始めました。そうしたら、僕は、不思議な神様の守りを感じることが出来ました。
今日の登場人物も「神様、助けてください。」と必死になって祈った人です。名前は、「ヒゼキヤ」と言い、南ユダ王国の王様でした。いったい何があったのでしょうか。
これまで皆は、預言者エリヤとエリシャの話を聞いて来ましたね。エリヤとエリシャは、北イスラエル王国で神様の言葉を語る預言者として活躍していました。エリヤたちは、北イスラエル王国の人たちに悔い改めることを勧めて、そうでないと神様の裁きがあり、隣国の攻撃を受けて滅ぼされてしまうと語っていました。それを聞いても、北イスラエルの王様や人々は、悔い改めて神様に立ち返ることがありませんでした。その結果、北イスラエル王国は、アッシリアという国に滅ぼされてしまうのです。その後のことです。アッシリアは、南ユダ王国に目をつけました。
アッシリアの王様は、南ユダの中心の町エルサレムに将軍ラブ・シャケを派遣します。しかし、一気に攻めとるのではなく、ラブ・シャケは、大きな声で南ユダ王国の人々を馬鹿にしました。
「おーい、ヒゼキヤは頼りにならない王だぞ、南ユダはアッシリアに勝てないし、お前たちの信じている神もアッシリアからお前たちを救い出す事など出来やしない。実際に、前たちの同族である北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされたじゃないか。すぐに降参しろ!!」
これを聞いたヒゼキヤ王は、神様に祈り、そして神様の預言者イザヤに連絡をして、祈ってもらいたいと要請をしました。イザヤは、「恐れる事はない。」と神様の言葉を伝えます。
それでもアッシリアの将軍ラブ・シャケは、しつこく、しつこく、南ユダ王国を馬鹿にして、アッシリアの王センナケリブの手紙までよこしました。ヒゼキヤ王は、アッシリアの王の手紙を読んで、それを目の前に広げて、「神様、どうか私の祈りを聞いてください。そしてセンナケリブの言葉を聞いてください。苦境に立たされている私たちを助けてください。」と祈りました。ヒゼキヤは、心からの叫びを祈りました。それは、ヒゼキヤが主なる神様を信じていたからです。ヒゼキヤは、主なる神様こそ、苦難の中で救いを与えて下さり、導いてくださるお方であると信頼していたのです。
神様は、ヒゼキヤの祈りをお聞きになり、アッシリア軍を全滅させてくださいました。神様は、ヒゼキヤの祈りに答えて、ご自身のみわざを行ってくださったのです。
皆は、困った時どうしますか。「神様に祈る」という事を皆は、どのように考えるでしょうか。「祈っても意味はない」と思うでしょうか。決してそんなことはありません。僕たちは、困ったこと、どうしていいか分からないこと、不安な事、悲しくてどうしようもないこと、など色々な事を経験します。その時、僕たちは、神様に祈ることが出来るのです。そして僕たちの祈りを神様は、聞いてくださり、答えてくださるのです。これは、確かな約束です。だから、どんなことがあっても祈りましょう。神様は、皆の祈りをちゃんと聞いてくれて、御手を伸ばしてくださいます。今週の御言葉を一緒に読みましょう。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。ヒゼキヤの祈りを聞き、苦難の時に救いを与えてくださった事を知りました。今も神様は、僕たちの祈りを聞いて下さてくださることを信じます。僕たちは、いつでも神様に祈ります。どうか助けと導きを与えてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「苦難の日に 私はあなたを呼び求めます。あなたが私に答えてくださるからです。」
詩篇86篇7節
<適用>
我が家の子どもたちが、まだ小さ時の事です。一緒に歩いていると、何も言わずに私の手を握ってきます。なぜなら、隣にいるのがお父さんであり、お父さんは手を伸ばせばしっかり握ってくれると知っているからです。
私たちは、神様に「祈りの手」を上げることが出来ます。神様は、私たちの手を握り、導いてくださいます。神様は、私たちが苦難を経験する時、救いを与えてくださいます。
Ⅰ;堅い信仰をもって
「苦難の中の救い」は、確かにあります。ですから私たちは、堅い信仰をもって歩みましょう。ヒゼキヤの信仰は、どのようなものだったでしょうか。
イスラエルの国は、ダビデ王とソロモン王の時に最盛期を迎えました。ソロモンの後、イスラエルの国は北王国イスラエルと南ユダ王国に分裂してしまいました。北イスラエルの王は、神様に背を向け罪を犯し続けました。そのために、神様は、エリヤなどの預言者を通して悔い改めを勧め、神様の裁きがあることを語って来られました。それにもかかわらず、北イスラエルは、悔い改めることなく、神様の裁きを受けて、アッシリアに滅ぼされてしまいました。その様な中で、南ユダ王国もまた神様に背を向ける時代が続きました。しかし、神様に対して誠実な信仰をもって歩んだ王様もいました。それが、ヒゼキヤでした。
ヒゼキヤについては、「彼は、すべて父祖ダビデが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った(Ⅱ列王18:3)」と言われています。また、「高き所を取り除き、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、モーセが作った青銅の蛇を砕いた。…彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。(Ⅱ列王18:4‐5)」と言われています。南ユダ王国の王様は、ダビデの家系となりますが、代々の王が忠実に神様に従っていたかというとそうではなかったのです。ヒゼキヤの父アハズは、主の目にかなうことを行わず、偶像礼拝をして主に罪を犯していました(Ⅱ歴代誌28章)。
けれどもその子ヒゼキヤは、しっかりと主に従いました。彼は、国の中にあった偶像や祭壇を壊し、モーセが作った青銅の蛇を壊しました。この青銅の蛇は、イスラエルの民が荒野で神様に対して不平不満を抱き、それに対して神様は、蛇による裁きを下しました。その時モーセが青銅の蛇を作ったのです。蛇にかまれても、モーセが作った青銅の蛇を仰ぎ見ると死なずにすんだのです。なんと南ユダの人たちはこの青銅の蛇も礼拝の対象にしていたのです。ヒゼキヤは、このような人の手で作られた偶像をことごとく打ち壊し、主なる神様に頼り、主の教えに従っていました。神様も彼と共におられました。
ヒゼキヤの生きていた時代は、非常に厳しい時代でした。また彼は、時代の流れの中で国の存亡が脅かされる時に南ユダ王国の王という立場になりました。でも彼は、第一にすべきお方をしっかりと見上げ、神様に信頼し、神様に従い、神様を信じて歩んでいたのです。
神様は、苦難の時に必ず救いの手を差し出してくださいます。だからこそ、私たちは、苦難の時だけではなく、普段から主なる神様を見上げ、堅い信仰をもって歩んでいきましょう。
Ⅱ;祈り求める信仰
「苦難の中の救い」は、確かにあります。ですから私たちは、いつでも神様に祈り求めましょう。ヒゼキヤの信仰の姿が、そのことを教えてくれるのではないでしょうか。
ヒゼキヤが南ユダ王国の王となった時、北イスラエルはアッシリア滅ぼされるという時代です。北イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、その脅威は南ユダにまで及びました(Ⅱ列王記18章13節)。アッシリアの将軍ラブ・シャケは、その大軍でエルサレムを包囲しました。けれどもすぐに攻め込むのではなく、心理作戦を繰り広げました。Ⅱ列王記18章19節からその言葉が始まります。それは、ユダの人々を馬鹿にする言葉であり、信仰を否定する言葉でした。そして彼らが信じている神様を愚弄する言葉でした。ラブ・シャケは、言います。「おまえたちの神はアッシリアの神に勝てるはずがない。アッシリアは多くの国々を打ち破ってきた、それはアッシリアの神々が強いからだ。おまえらの神は、何をしてくれる。何もしてくれはしない。アッシリアに降伏すれば平和がやって来る。」
これを聞いてヒゼキヤは何をしたでしょうか。彼は、主に祈りました。そして預言者イザヤに祈りの要請をしました。ヒゼキヤは、何を言われても、苦境に追い込まれても、まず主の前に出たのです。戦国の時代にあって、敵が武力と脅迫で迫ってくる中で、ヒゼキヤはひたすらに祈り、主の導きを求めました。愚かなことでしょうか。ラブ・シャケは、「そんな愚かなこと」と馬鹿にしました。けれどもヒゼキヤは、これこそ、唯一の解決策であると知っていて、信仰をもって祈るのです。彼の祈りがⅡ列王記19章14節から記されています。「主よ。ただ、あなただけが、地の全ての王国の神です。あなたが天と地を造られました。」ヒゼキヤの信仰告白と主に信頼する信仰の現われです。ヒゼキヤの言葉は続きます。「アッシリアは強国であり多くの国々を滅ぼしてきた。神々と言われるものも火に投げ込むこともできた。けれどもそれらは、木や石にすぎず神なのではないのです。」とヒゼキヤは、主なる神様の大いなる力あるみわざを求めて祈ります。
以前、一人の牧師の証しを読んだことがありました。ある時、その牧師が奉仕をしていた教会が火事になってしまい全焼したそうです。牧師は奇跡的に助かりました。牧師が、焼け後で様々な後始末をしている時に、近所の人が「ご神体は大丈夫かい」と尋ねてきたそうです。その牧師は、その時、主なる神様というお方について教えられたそうです。そして、こう答えたそうです。「私たちの神様は、火事の時に運び出さなければ焼けてしまうようなお方ではない。礼拝堂を取り巻く近隣の家や人々に対しても配慮し、守り、パニック状態の自分を無事に火の中から助け出し、そのアフター・ケアーも万全な方である。」
皆さんはいかがですか。皆さんの信じているものは、朽ち果ててなくなってしまうようなものでしょうか。人が造った像ならば、人が管理し守る必要があるでしょう。それらは神ではありません。私たちの神様は、人間を造られたお方です。神様が、私たちに命を与え、私たちの人生を導いてくださるのです。だから神様が、私たちを守り、支えておられるのです。その事を信じますか。
苦難の中で祈っても神様の答えが分からないという事もあるでしょう。いったい神様は、何をしているのだろうかと感じてしまう事もないわけではありません。私たちは、苦難の中で自分の弱さに気づくこともあるでしょう。罪を指摘されることもあるかも知れません。この気づきも神様からの答えです。その時には、私たちは、素直に悔い改めて主に立ち返り、信仰を新たにして、神様の救を求めて祈るのです。神様は、私たちの祈りに耳を傾け、必ず答えてくださるのです。
最初に私が中学1年の時に経験したことを少し話しました。その時私は、本当に不安でどうして良いか分からなかった状態です。でも私は自分の不安を兄弟に知られないようにしていました。でも不安と心配は消えません。その時に私は、聖書を読み祈ることを始めました。私は聖書を読み祈る毎日の中で、神様が側にいてくださると感じるようになりました。そして、なんと表現して良いか分からないのですが、心の不安や心配がなくなって平安が与えられたのです。そして私は、苦難の中で「あー、大丈夫だ」と思える神様の助けと守り、救いを経験しました。
週報にある今週の聖句を一緒に読みましょう(詩篇86篇7節)。
そして次の御言葉も確かな約束を私たちに与えてくれます。
詩篇118篇5節
「苦しみのうちから 私は主を呼び求めた。主は答えて 私を広やかな地へ導かれた。」
詩篇121篇1-2節
「私は山に向かって目を上げる。私の助けは どこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。」
ピリピ人への手紙4章6-7節
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
私たちは、神様に愛されていることを信じましょう。神様は私たちの祈りを聞いてくださることを信じて、あらゆる場合に、どんなことでも祈りましょう。思い煩い心配し悩むのではなく、神様に委ね、神様の助けを信じて祈り求めましょう。神様は、私たちを助け、導き、守り、神様の平安で満たしてくださいます。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様が、私たちの祈りを聞き、私たちに答えてくださることを感謝致します。私たちは、神様の助けと導きを信じます。私たちは、苦難の時に祈り求めます。その時、神様が、すべてを超えた平安で私たちを満たしてくださることを信じます。神様ご自身が、私たちの祈りを導いてくださり、堅い信仰をもって祈り続けることが出来るように力を与えてください。
神様、一人ひとりの上に祝福を与えてください。一人ひとりが置かれている状況をご覧になり、必要な助けと導きを与えてください。
世界中が神様の平安で包まれ、神様の愛に満たされるようにとお願い致します。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」