2022年11月13日(日)礼拝説教 列王記第二22章1-13節 「御言葉を心に留める」 説教者:赤松勇二師、赤松由里子師

<子どもたちへ>赤松由里子師

 しばらく南ユダ王国の王様のお話が続いています。先週は、ヒゼキヤ王のお話でした。きょうはそのひ孫にあたる王様のお話です。何という名前かわかりますか?思い浮かぶ人はあまりいないかもしれませんね。その人の名は「ヨシヤ王」です。ヨシヤ王は、みんなと近い年齢で王様になったのですよ。この王様は一体どんな人だったのでしょうか。

 ヨシヤが8歳の時です。お父さんであアモン王が亡くなって、自分が王位に就くことになりました。実はお父さんのアモン王も、おじいさんのマナセ王も、まことの神様を信じずに偶像礼拝に熱心な悪い王様でした。ひいおじいさんのヒゼキヤ王の信仰は、受け継がれていなかったのです。でもひ孫のヨシヤ王は、16歳の頃から熱心にまことの神様を信じるようになっていました。「ぼくは先祖のダビデ王様のように、神様に従って国を治めて行こう」。ヨシヤはそう決心しました。そして26歳の時です。荒れ放題だった神殿を、きれいに修理させることにしました。ヨシヤの命令で工事が始まりました。

 すると工事中の神殿から知らせが来ました。「王様、ご覧ください。神殿で律法の巻物が見つかりました。」なんと、神様のみことばを書いた書物が出てきたのです。誰も存在を知らず読まれもしていなかったのですから驚きですね。家来がそれを読み上げました。聞いているうちにヨシヤ王はショックを受けて立ち上がりました。そして着ていた服を、ビリビリと引き裂いたのです。ヨシヤ王は涙を流しました。「この国は神様のご命令を聞かずに従うことをしなかった。神様は悲しみ怒っておられるのだ。」ヨシヤは祭司や家来に言いました。「これから私たちがどうしたらよいのか、神様のみこころを求めに行きなさい。」そこで家来たちは女預言者フルダのところにみこころを求めに行きました。

 フルダは言いました。「神様は言われます。『あなたがたの罪のため、わたしはユダの国に厳しい罰を与える。だがヨシヤ王はへりくだって悔い改めたので、ヨシヤが生きている間は罰を与えることはしない。』」神様はヨシヤを見ておられたのですね。
 それを聞いたヨシヤ王は、「自分の時代が安全ならいいや」とは思いませんでした。熱心にユダの国を改革していったのです。まず人々を地位の高い人から下々まで集めて、律法の書を読んで聞かせました。それから代表して神様に祈りました。「私たちはこれから、心を尽くし、いのちをつくしてみことばを実行します。」人々もヨシヤ王と一緒に神様に従う約束をしました。

 ヨシヤ王のすごい所は、このあとの怒涛の宗教改革にあります。まず神殿にあった偶像やその祭具を捨てました。そんなものが神殿にあることが驚きですね。また、国中の偶像礼拝の場が使えないように壊して行きました。その改革は徹底していました。
 今日のみことばを読みましょう。神様のみことばは、いつもわたしたちの口と心の近くになければなりません。どこかにしまい込まれてほこりをかぶっていては、ヨシヤ以前の時代と同じです。何が罪で何が神様に喜ばれることなのか、わからなくなってしまいます「あなたはこれを実行できる」とあります。そうです、不可能ではないのです。実行可能なのです。聖書を読み、礼拝に出てお話を聞きましょう。みことばを心にとどめ続けて、ヨシヤのように実行していく力を神様から頂いて歩んで行きましょう。

<祈り>
「神様。ヨシヤ王が神様のみことばをよく聞いて、勇気をもって改革していったことを学びました。みことばを行うことが出来る力は、神様から来ます。どうぞ聖書のみことばに親しみ実行する力を、私たちにお与え下さい。ヨシヤのような純粋で力強い信仰を持つことが出来ますように。御名によってお祈りします。アーメン。」

「まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」                 申命記30章14節

<適用>

 私が、聖書の通読をチャレンジするようになったのは、小学生の時でした。その時は聖書が難しくて長続きせず、3日坊主で終わってしまいました。聖書通読が続けられるようになると、今度は、睡魔との戦いでした。聖書を開いて読み始めると、眠気が襲って来ます。途中で寝てしまい、同じ聖書箇所を何度も読み返したことがありました。寝る前の祈りをしていると祈りの途中で寝てしまい、気づいたらお布団に入って寝ていたという事があり、夜中に目が覚めた時「アーメン。」と言って祈りを終わりにしたこともありました。
 そのような失敗の連続でしたけれども、感謝な事に、聖書を読むことを止めようとは思いませんでした。また、聖書の御言葉から教えらえることを嫌だと思う事もありませんでした。今日は、聖書の御言葉に対して心を開き、御言葉を心に留めることの大切なについて見て行きましょう。「読書の秋」と言われます。もう秋を通り越して冬に入ってしまうような感じですが、私たちは、心を静めて聖書を開き、御言葉に親しむ時間を持ちましょう。

Ⅰ;神の基準を知る

 私たちは、御言葉を心に留めましょう。その時私たちは、神様の基準を知ることが出来ます。
 ヨシヤはⅡ列王記22章1節で言われているように、8歳で王となりました。ヒゼキヤの後その子マナセが王となり、そしてアモンが王となりました。二人とも神様に従うことをせず、神様に対して罪を犯していきました。そしてアモンの後継ぎがこのヨシヤです。幼くして王となったヨシヤは、右にも左にもそれずに神の道を進みました。Ⅱ歴代誌34章をみると「彼の治世の第8年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始め(3)」とあります。ヨシヤは、ユダの王として神様の御前に正しく歩むことを求めて歩みました。そして、彼は、王になってから18年目の時に、神殿の修理を始めました。恐らく、南ユダ王国では、人々が偶像礼拝に没頭するあまり、エルサレムの神殿は荒れ放題になっていたのでしょう。

 何とこの神殿の修復の時に、律法の書を発見したのです。発見したと言うからには、忘れ去られていたものであり、誰も神様の律法を気にする人がいなかったということです。この時代にも預言者はいました。エレミヤはヨシヤの時代に活躍し始めた預言者でした。預言者がいて、神の言葉を語っても、ユダの王はそれを無視していたし、神様の律法の言葉は重要なものとされていなかったのです。
 ヨシヤは、律法の書が発見され、読まれた時自分の衣を引き裂きました。これは、自分の罪を知り、心を痛めたことの表れです。すでに神を求めていたヨシヤですから律法の書が何を言おうとしているのかすぐに理解したことでしょう。彼は、神様の基準を知ったのです。同時に、先祖がこの神の言葉に従ってこなかった事を知りました。ヨシヤは、国全体が神様に罪を犯してきたことを自覚したのです。

 私たちがクリスチャンとして歩む時に、大切なことがここにあります。それは、神様の御言葉を自分への語り掛けとして聞く事です。家に帰った時、聖書をどこかに置きっぱなしにしてはいないでしょうか。聖書をすぐに開ける場所に置いておくことが良いと思います。そして私たちが聖書を開く時、「神様は私たちに何を求めておられるのだろうか。」、「私は、神様の御前にどのように歩むべきなのだろうか」と祈り求めながら読むことをお勧めします。
 なぜなら、「聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」だからです(Ⅱテモテ3:15-16)。

Ⅱ;信仰をもって従う

 私たちは、御言葉を心に留めましょう。その時神様の基準を知ることが出来ます。次に必要な事は、御言葉に信仰をもって従う事です。
 ヨシヤは、律法の書にある神様の言葉を受け留めることが出来ました。そして彼はすぐに、何をするべきか、神様の御心を求めたのです。列王記第二22章13節を見てください。ヨシヤは、「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主を求めよ。私たちの先祖たちがこの書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについて記されているとおりに行わなかったためだ。私たちに向かって燃え上がっている主の憤りが激しいからだ。」を言っています。

 この時見つかった律法の書物が何かは明かではありません。しかしそこにあったのは、神様が語られた律法のことばであり、御言葉に従う者には恵みと祝福を与え、聞き従わないならば厳しい裁きを下すという言葉でした。Ⅱ列王記23章のヨシヤの宗教改革の様子を読む限り、ユダの人々は主なる神様を信じると言いながら、その心は神様から離れている状態でした。表面上は主を礼拝しますが、彼らの心は主を捨て去っていたのです。彼らは、あらゆる偶像、太陽、星などを礼拝し、そして占い、霊媒など神様が禁じていることをことごとく行っていました。そのような状態に対してフルダによって語られた神様からのメッセージは、「南ユダの人々は、イスラエルの神を離れ、偶像礼拝をして罪を犯した結果、必ず神の裁きを受けなければいけない。しかし、ヨシヤ王は忠実に主に従ったので、ヨシヤ王の後の時代にユダの国は滅ぼされる」ということでした。

 ヨシヤは、ユダが滅ぼされることが主の御心であることを知りました。そして自分が生きている時はそれが起こらないことが分かりました。ヨシヤは、それで安心しませんでした。自分は良いかもしれない、けれども後に残るユダの人々のことを考えました。そしてヨシヤは、律法の教えを守り、主の御言葉に従い、生きることを決心しました。まず、民の代表を集め、律法の書を読み聞かせます。そして主に従うと言う誓約を立てます。さらに国中にある偶像を取り壊し、偶像礼拝となるもの全てを取り除いて行きます。徹底して神様に立ち返るように指導していったのです。

皆さん、これは、昔々、南ユダ王国のヨシヤ王の時代に起きた古い話だと思わないでください。神様は、今も私たちにご自身の御思いを語っておられるのです。皆さんは、聖書を読んでいると思います。私たちが聖書を読む時、どのように読んでいるでしょうか。先ほども言いましたが、聖書を通して語られる神様の御言葉を、自分への言葉として耳を傾け、聞き、心に留めることが出来ているでしょうか。
 時々私たちは、聖書の御言葉が何を言っているのか分からず戸惑う事があります。御言葉が頭の上を通り過ぎてしまう様な事がありませんか。御言葉を聞いていても、説教を聞いていても、右の耳から入って左の耳に抜けて行ってしまうということがあるかもしれません。私も自分の信仰の歩みを振り返ってみると、聖書を読んでいても何も心に残らないという読み方をしていました。礼拝での説教も居眠りをしていたり、ボーっとしていて気がついたら終っていたということがありました。その時の牧師先生にも神様にも申し訳ないことをしてしまったと思います。当然このような御言葉の聞き方を神様は喜ばれません。

 私たちは、どのように聖書の御言葉を聞くのでしょうか。ヨシヤ王は、御言葉を聞いた時非常に驚いて、書かれている御言葉に信仰をもって応答する必要性を感じました。彼は、御言葉によって変えられ、信仰の応答をして主に立ち返りました。私たちも信仰をもってしっかりと聖書の御言葉を聞くならば、私たちの心は確実に変わって行きます。神様の愛を救いの恵みを知ることが出来、素晴らしい祝福を与えて頂くことが出来ます。私たちは、それで安心してはいけません。まだ神様を知らない人たちにこの福音の恵みを伝える必要があります。神様の御言葉を証しすることが大切です。そのためにも私たち自身が御言葉を心に留めることが必要になって来ます。

 聖書の御言葉によって罪が示されたら、素直に罪を認めて悔い改めて主に立ち返ることです。そして御言葉にある救いの約束を感謝して、喜びをもって神様を礼拝しましょう。神様は、御言葉を通して私たちを教え、戒め、人生の指針を与えてくださいます。そのことが明らかになったら、信仰をもって従い、信仰の一歩を踏み出しましょう。私たちは、御言葉を心に留め、「心を尽くし、いのちを尽くして主の命令を証しと掟を守る」と決心して一歩を踏み出しましょう。神様の御言葉は、私たちのすぐ側にあり、私たちはそれを読み実行する事が出来るのです。そしてそのような私たちの姿を通して、主なる神様の恵みと愛が周りの人々に証しされるのです。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様が、聖書を通して私たちに語ってくださることを感謝致します。私たちは、聖書の御言葉を通して神様の御心を知り、神様の基準を知ることが出来る事を感謝致します。また私たちは、聖書を通して神様の愛を知ることが出来、救いの恵みも知ることが出来ますから感謝致します。また私たちは、御言葉を通して教えられ、励まされ、罪が示され悔い改めに導かれます。神様、私たちが御言葉に対して信仰をもって応答し、従うことが出来るように助けてください。神様、私たちがいつも聖書を読み、御言葉を心に留め、実行する事が出来るように導いてください。神様からの救いの恵みと祝福を多くの人に証しすることが出来るようにも導いてください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」