<子どもたちへ>
今週から、サッカーワールドカップが開催されます。日本代表も出場します。まず予選を通過するための戦いが始まります。日本は決勝に進むことが出来るのでしょうか。気になるところです。ワールドカップでは、各国のサポーターたちが自分の国が勝つようにと願いを込めて応援しますね。決して、「自分の国が負けしまう」とは言いませんね。
今日は、南ユダ王国が外国に攻め込まれて滅亡すると語った、預言者エレミヤが登場します。これまで北イスラエル王国の王様が罪を悔い改めることなく、国が滅ぼされたことを学びました。そして南ユダ王国については、ヒゼキヤ王やヨシヤ王という信仰熱心な王様について学びました。しかし神様の前に正しく歩んだ王様は少なくて、南ユダ王国でも神様を信じないで、神様の言葉に従わない王様が多くいたのです。神様は、不信仰な南ユダ王国に対して、預言者を通して語って来られました。その預言者の一人がエレミヤでした。
エレミヤは、「あなたたがは、罪を悔い改めて、神様を信じなさい。そして信仰をもって神様に従って神様だけを礼拝するのです。そうしないと、神様による滅びが南ユダにやってきます。南ユダ王国は、力強い国バビロンに滅ぼされてしまいます。」と大きな声で語り続けました。けれども南ユダ王国のゼデキヤ王様は、エレミヤの言葉を聞こうとせず、罪を悔い改めることをしませんでした。
エレミヤは、さらに「バビロンが攻めてきたら降伏して、バビロンへの捕囚となりなさい。そうすれば助かり生きることが出来ます。」という神様からのメッセージを語りました。「降伏したほうがよい」と言われてゼデキヤ王の側近たちは、エレミヤを捕まえて、井戸に投げ込んでしまいました。その井戸には、水はなかったけれども、「泥」がありました。エレミヤは泥に埋まりながら過ごさなければなりませんでした。
エレミヤへの仕打ちを知った、エベデ・メレクという人が「エレミヤを井戸に投げ込むのは不当です。このままでは死んでしまうので助け出させてください。」とゼデキヤ王に訴えました。王様の許可を得てエベデ・メレクは、泥でふやけてしまった体を守るために古布を脇に挟むようにエレミヤに指示して助け出しました。
ゼデキヤ王は、エレミヤを呼び寄せてもう一度神様からのメッセージを聞きました。何か良いことでも言ってもらえると思ったのかもしれません。けれどもエレミヤは、以前と同じように、「エルサレムは、神様の裁きを受けてバビロンに滅ぼされる。だから、バビロンに抵抗しないで降参しなさい。」と神様の言葉を伝えました。これは、最終的な警告の言葉となりました。しかしゼデキヤ王は、エレミヤによって語られた神様の言葉に従う事はありませんでした。こうして、エルサレムは、バビロンに攻め込まれ、町は破壊され一部の人々を残して、多くの南ユダの人々は、バビロンに捕らえ移されて行きました。
エレミヤは、エルサレムの町が滅ぼされるという厳しいメッセージを伝えましたが、それだけを語っていたのではありません。今週の聖句(エレミヤ書7章3節)を見てください。一緒に読みましょう。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。」
エレミヤは、南ユダの人々に「神様を信じて、自分の生き方や行いを改めるように」と語っていました。なぜなら、心からの悔い改めには、神様からの救いが約束されているからです。神様は、僕たちにとても素晴らしい祝福と恵みを与えてくださいます。だからこそ、僕たちは、神様を信じて信頼して、御言葉を心に留めることが必要なのです。神様は、約束したことを必ずその通りにしてくださるお方です。もし今、神様の前に悔い改めるべき事があるなら、神様に祈りましょう。神様は、罪を赦し、祝福と恵みを与えてくださいます。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。エレミヤは、南ユダ王国への神様の裁きを語りましたが、同時に神様の祝福と恵みの約束を語り、悔い改めることを教えました。
神様、僕たちの罪をお赦しください。僕たちは、神様を信じて、信頼して歩みます。神様、僕たちを守り、祝福し、導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。」 エレミヤ書7章3節
<適用>
私は、小学校4年生の時にギターを始めました。最初私は、独学で、見よう見まねで覚えていきました。しかしそれだけでは上達出来ず、上手にギターを弾ける人から教えてもらうことが必要でした。またギターのお手入れについては、基本的なことはしていますが、細かい事となるとギターの構造のことを良く知っている人から教えてもらう必要があります。そうすることで、よりギターのことを知ることが出来るようになるのです。
私たちは、より豊かな、より恵みに溢れた日々を送るためにはどうしたらよいのでしょうか。それは、私たちのことを良く知っている神様から与えていただくことが必要となっていきます。
Ⅰ;神様は待っておられる
私たちへの祝福と恵みは神様から与えられます。神様は、私たちに祝福と恵みを与えるために待っておられます。神様は、私たちに対して何を待っておられるのでしょうか。神様が待っておられるのは、私たちが生き方と行いを改めて、主なる神様に立ち返えることです。
少し預言者エレミヤという人物について見ることにしましょう。エレミヤ書1章1-3節には、次のように書かれています。「ベニヤミンの地、アナトテにいた祭司の一人、ヒルキヤの子エレミヤのことば。このエレミヤに主のことばがあった。ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第13年のことである。それはさらに、ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの時代にもあり、ユダの王ヨシヤの子ゼデキヤの第11年の終わりまで、すなわち、その年の第5の月、エルサレムの民の捕囚まで続いた。」
ヨシヤ王については、先週、列王記第二22章を通して学びました。ヨシヤは、エルサレム神殿の修復の時に発見された律法の書に従い、悔い改めと主への礼拝を取り戻すという宗教改革を行った王様でした。しかしその影響は、ヨシヤ王の生きている間だけで、その子どもたちには継承されず、その子のエホヤキムとゼデキヤは、御言葉を心に留めず、神様に対して罪であることを行います。そしてヨシヤ王の後の時代は、バビロンの勢力が拡がり、南ユダ王国がバビロンに脅かされ、占領されるという時代でした。エレミヤは、多くの預言者が預言し続けてきたエルサレムの滅亡を目の当たりにすることとなりました。エレミヤは、南ユダ王国の罪を指摘し、神様の裁きがあることを語りました。そして預言者としての後半のメッセージは、南ユダ王国が必ずバビロンに滅ぼされるという事でした。これは、エレミヤを通して語られた神様からのメッセージでしたが、エレミヤにとっては、とても辛い働きだったことでしょう。
けれどもエレミヤは、南ユダ王国の滅亡ばかりを語ったのではありません。エレミヤは、神様が語っておられる祝福のメッセージも語っていたのです。その一つが、「今週の聖句」で取り上げているエレミヤ書7章3節です。エレミヤは、主の宮の門で主なる神様を礼拝するために神殿に来た人々に叫び語りました。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。」
神様は、人々が生き方と行いを改めて、神様に立ち返ることを望んでおられるのです。さらに神様の言葉は続きました。神様は言われます。「わたしの声に聞き従え、そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。あなたがたが幸せになるために、わたしが命じるすべての道に歩め(エレミヤ7:23)」
この語りかけは、エレミヤの時代だけのことではありません。今の私たちへの神様の言葉でもあります。では「生き方と行いを改める」とは、どのような事でしょうか。それは、私たちの思いや考えを変えるという事ではないでしょうか。私たちは、自分の心に思うことを言葉で表現します。私たちは、心で考えていることが、実際の行動となって表れてくるものです。もし私たちが、神様なしの自己中心の事しか考えていないとしたら、その生き方や行いは、神様なしの自分の都合だけを追い求める生き方や行動になるのです。そしてそこには、満足のない平安のない徒労感しか生み出さない結果となります。しかし、私たちが、神様の御声に聞き従い、神様の喜ばれることを考えるならば、私たちの生き方や行動に、神様のみわざが現わされることとなるのです。
今日の午後に洗礼式を行います。人が、神様の前に罪を悔い改めてイエス様を信じ、それを告白して洗礼を受けると言うのは本当に素晴らしい事です。私たちは、洗礼を受ける人が、引き続き信仰を持って歩めるように祈り続けましょう。そして私たち自身も、神様の御前に改めるべき事柄がないかと考えて見ましょう。私たちは、神様の御言葉をどのように聞き、受け止めているのでしょうか。私たちの考えや思い、言葉や行動は、神様に喜ばれ受け入れてもらえるものとなっているでしょうか。私たちは、神様の御前に「生き方と行い」を改め、主を見上げて歩み続けましょう。その時神様は、私たちの事を「神の民」と宣言し、祝福と恵みを与えてくださるのです。
Ⅱ;将来と希望の約束
祝福と恵みは神様から与えられます。そこには、神様からの「将来と希望」の約束があります。実は、南ユダ王国はバビロンからの攻撃を受けて、段階的に徐々に衰退していきました。エルサレムの人たちは、その都度バビロンに捕囚として連れていかれていたのです。自分の国が負け、自分たちが異国の地(占領軍の国)に連れていかれるという事は、絶望でしかありません。なぜならば、敵国に捕囚として連れていかれてしまったら、もう自分の国、自分の家に帰ることなど期待できないからです。意気消沈している捕囚の民に対してエレミヤは手紙を書きました。エレミヤ書29章1節「預言者エレミヤは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、すなわち、長老で生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、および民全体に、エルサレムから次のような手紙を送った。」
エレミヤは、バビロン捕囚の人々に対してバビロンでどのように過ごすべきなのかを伝え励ましています。その中でエレミヤは、捕囚の時代がすぐに終わるわけではないけれども、神様は、必ずユダの人々をエルサレムに帰してくださると語りました。その時まで、しっかりと信仰をもって神様を見上げ、祈りつつ神様の導きを受けるように教えました。この手紙の中でエレミヤは、神様からの約束をはっきりと伝えるのです。それが、エレミヤ書29章11節です。神様は言われます。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている。―主のことば―。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
「あなたがたに将来と希望を与える」という部分をある聖書は、「ばら色の将来と希望を約束する」と表現しています。「ばら色」なんて言われると、素敵なことが待っているという印象を持ちますね。皆さんは、どんな「ばら色」を想像するでしょうか。でもある人は言うでしょう。「神様が立てている計画があるなら、どうしてこんなことが起こるのか」「何故自分は、辛いことや悲しみを経験し、試練に遭わなければいけないのか」と。エレミヤの手紙を読んでいたイスラエルの民も、国が滅び捕囚とされていますから、「将来と希望」など期待できないと考えたのではないでしょうか。
私たちは、いつもハッピーと言うわけではなく、何か問題があったり、試練があったりします。時には、どうしてそうなるのか理由の分からない出来事があるものです。「ばら色」と表現されますが、確かにバラは美しく咲き、きれいな色をしています。しかしその枝には、トゲがあるのです。「きれいな花だなぁ」と思って手を差し伸べると、トゲにチックとやられる経験ありませんか。「ばら色の将来と希望」と言う時、試練がないわけではありません。時には、鋭いトゲが刺さることもあるでしょう。しかし私たちの人生は、そのような試練(トゲ)を通ることによって、彩られて行くのではないでしょうか。出来る限り、トゲがないほうが良いですが。
いのちのことば社から「三浦綾子文学カレンダー」というのが販売されています。これは、三浦綾子さんの著書からの言葉が紹介されているカレンダーです。今月の言葉は「難病日記」という本の中にある一節「孤独になり、行き詰った時にこそ、その隣に神はいられるのだ。」が書いてありました。三浦綾子さんは、本当に辛く寂しく、痛みを覚える時、そんな自分に寄り添ってくださる主なる神様を知ったのではないでしょうか。
これは、聖書を通して神様が語ってくださっている約束でもあります。神様は、「インマヌエル」と呼ばれるお方です。その意味は、「神様が私たちと共におらえる」という意味です。
イエス様は、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」と約束してくださいました。また
ダビデは「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます(詩篇23:1‐2)」と歌いました。神様は、いつも私たちと共にいてくださり、私たちの隣に寄り添ってくださるお方です。
私たちよりも、私たちのことを知っていてくださる神様が、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。」と言っておられるのです。そして神様は、私たちに平安を与え、将来と希望を与えると約束をしてくださるのです。だからこそ、私たちは、主なる神様を信じ、信頼し、助けと導きを祈り求めましょう。祝福と恵みは神様から与えられます。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。祝福と恵みは神様から与えられます。そのことを信じます。私たちは、生き方と行いを改め、神様を信じて歩みます。どうか私たちの日々の歩みを導いてください。神様は、私たち一人ひとりのために計画を立てていてくださり、平安と将来と希望を約束してくださることを感謝致します。神様が、いつでも、どんな時でも私たちに寄り添って励まし、助け、導いてくださる事を信じます。私たちの心を神様からの平安で満たしてください。
今日は、洗礼式を執り行います。洗礼式を神様の栄光と臨在で包んでください。神様の恵みが洗礼を受ける者のうえに豊かにありますようにとお願い致します。
新型コロナウイルスが未だに収束しません。神様、どうか憐れんでくださり、収束へと導いてください。戦禍にあるロシアとウクライナとの間にあって、戦争が終わり、平和が訪れますようにとお願いします。
この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」