2023年1月1日(日)新年礼拝説教 ヘブル人への手紙4章14-16節 「恵みの御座に近づく」 説教者:赤松勇二師

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
 私たち家族のためにお祈り頂きありがとうございました。昨年12月後半は、新型コロナとの戦いとなりましたが、家族みんな回復して新しい年を迎えることが出来ました。家族の中では私が最後に陽性になりました。その時には次男は自分の部屋に居続ける事に疲れてしまっていました。お父さんが陽性となれば、家族全員が陽性となるから、部屋に隔離する必要がなくなって、家の中ではある程度自由に動けるのではないかと期待していました。私が、発熱外来から帰って来て「陽性」だと報告した時、若干次男は喜んでいたような気がします。それでも各自は、それぞれの部屋で過ごすという対策を続けて過ごしました。皆さんのお祈りに支えられ元気を回復しています。
 また、木村陽姉の葬儀のためにお祈りありがとうございました。神様の慰めに満たされた葬儀となりました。私たちは、ご遺族が、イエス様を信じる信仰に導かれるように引き続き祈りましょう。
 さて、皆さんは、どのような思いで2023年を迎えられたでしょうか。昨日(12月31日)から今日(1月1日)に変わっただけですが、やはり新しい一年のスタートというのは、特別な感じがしますね。皆さんは、どのような一年としたいと願うでしょうか。私たちは、大胆に恵みの御座に近づいて歩む一年とさせて頂きましょう。

Ⅰ;大祭司イエス様がおられる(4:14、5:1‐3)

 私たちは、大胆に恵みの御座に近づくことが出来ます。なぜなら、私たちには、大祭司イエス様がおられるからです。だから私たちは、どんなに欠けがあり、信仰が弱く倒れやすくても、信仰の告白をしっかりと堅く保ち、御座に近づくことが出来るのです。
 聖書には、「大祭司」と言う言葉が出て来ます。この「大祭司」と言うのは、神殿で神様に仕えるために選ばれた人で、イスラエルの民と神様との間にあって橋渡しをする役目を担っています。それは、旧約時代に始まりました。神様は、モーセを通して祭司職を定めました。そしてアロンとその子孫が大祭司として神様に選ばれたのです。詳細については、触れることは出来ません。ぜひ出エジプト記やレビ記を読んでいただきたいと思います。とにかく、大祭司は、誰かが勝手に自分から志願してなるのではなく、イスラエル人のためにイスラエル人の中から神様によって選ばれ、任命されたのです。
「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、人々のために神に仕えるように、すなわち、ささげ物といけにえを罪のための献げるように、任命されています(ヘブル5:1)。」

 その大祭司は、人々の代わりに神様に仕え、神様に代わって人々を教えるのです。しかし地上の大祭司は、人間ですから完全ではありません。大祭司自身も罪の誘惑に翻弄されると言う弱さを持ち、罪を犯します。ですから、大祭司も自分のためにいけにえを献げる必要がありました。
「また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のゆえにささげ物を献げなければなりません。(ヘブル5:3)。」

 大祭司は、今でいうと教会を代表している「牧師」にあたるでしょうか。日本人の「牧師」に対するイメージを聞くと私は、恥ずかしくなります。以前、何十年かぶりに中学時代の同級生と再会した時、お互いに何をしているのかと話しました。私が「今はキリスト教会の牧師をしている」と言うと、ある友だちは「やっぱり赤松は、おやじさんの後を継いだか」と言い、「聖い生活をしているだろうな」と言うのです。日本では、キリスト教会という場所は清く正しい人が集まる所で、牧師は聖人のように思っている人が多いと思います。私は、そういうことを聞くと「キリスト教会は、神様を信じる人が集まる所だけど、信じていない人が来る場所でもあるんだよ。」と答えています。そして「牧師も人間だから欠けがあり、失敗もするし、神様に罪赦された罪人なんだ」と答えます。地上の大祭司は、自分も弱さを持っているので、人の弱さを思いやることが出来ますが、罪人なので自分のためにもいけにえを必要としていました。

 けれども私たちの真の大祭司イエス様は完全なお方です。地上の大祭司と同じように、イエス様もまたご自分で大祭司となられたのではなく、父なる神様によって立てられました。
「同様にキリストも、大祭司となる栄誉を自分で得たのではなく、『あなたはわたしの子、わたしが今日、あなたを生んだ』と語りかけた方が、それをお与えになったのです。(ヘブル5:5-6)。」
 地上の大祭司は、罪を犯し完全に神様の前に執り成すことは出来ませんでした。けれどもイエス様は、神の子であり、人として完全に正しい罪のない生涯を送られたので、私たちの罪の身代わりとなる事が出来ました。そしてイエス様は、今も生きておられ、神の右の座について私たちのために執り成し、弁護してくださるのです。ですから、私たちは神様の御前で「自分はもうだめだ」と悲痛の叫びをするのではなく、信仰の告白を保ちつづけ、大胆に御座に近づくことが出来るのです。

Ⅱ;弱さに同情してくださる(4:15、5:7-8)

 私たちは、大胆に恵みの御座に近づくことが出来ます。私たちの大祭司イエス様は、私たちの弱さに同情してくださるお方だからです。私たちは、弱くもろい人間です。逆立ちしても完全な者となることは出来ません。イエス様は、そんな私たちを思いやり助けてくださるのです。ヘブル人への手紙の著者は、同じ様な事を2:18でも言っていました。このことが繰り返されていることによって私たちは、本当に大きな慰めを受けます。そのことをはっきりと教えるために著者は、地上の大祭司とイエス様とを比較して説明しています。

 先ほども言いましたように、地上の大祭司は、神様によって任命されました。その役目はヘブル5章1-3節に書かれている通りです。大祭司は、人々の中から選ばれ、神に仕え、人に仕え、罪のためのいけにえを献げるのです。大祭司は人間であるゆえに、自分自身でも弱さを持っています。ですから神様を知らず、罪に迷っている人々のその弱さを思いやり、主の御前に仕えるのです。けれども大祭司もまた、弱さゆえに罪を犯すことがあるので、大祭司は自分自身のためにも罪のためのささげ物をする必要があるのです(5:3)。そういう意味では、地上の大祭司は、不完全であると言えます。

 これに対して私たちの真の大祭司イエス様は、完全なお方でした。私たちは、弱さゆえに試みを受け、罪を犯してしまします。しかし、イエス様は、私たちと同じように試みにあわれましたが、罪を犯すことはありませんでした(ヘブル4:15)。著者は、イエス様の地上での歩みを5章7-8節のようにまとめています。
 「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いそささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、・・・。」

 イエス様は、公に活動を始められる前に御霊の導きによって荒野に行き40日間の断食をされ、神の御子に対するサタンの挑戦をお受けになりました(ルカ4:1-13)。それだけではなく、イエス様の人としての歩みは常に試みがあったと言えますが、イエス様は罪を犯すことがありませんでした。そして十字架を前にしたゲッセマネの園での祈りが、究極の試みと言えます。7節はそのことを言っているのだと思います。イエス様は、「わが父よ。できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください(マタイ26:39)」と祈られました。イエス様は、十字架を避けるために祈ったのではありません。人類の罪の身代わりとしての十字架という神様の御心に従うために祈ったのです。それも「汗が血のしずくのように地に落ちた(ルカ22:44)」と言われるほどの大きな叫びをもって祈りました。イエス様は、その生涯において神様の御心に対して従順に歩まれ、実に十字架の死にまでも従われたのです(ピリピ2:8)。
 イエス様は、罪のないお方なので、自分のための贖いを必要としません。ただ、私たち罪人の救いのためにご自身をささげられたのです。こうしてイエス様は、罪からの救いの道を開いてくださいました。イエス様は、誰よりも罪の誘惑には力があることをご存知です。またイエス様は、罪ゆえに神に捨てられ裁かれることの恐ろしさを知っておられます。だからこそイエス様は、私たちが罪の誘惑に弱いことを知り、深く同情し助けることがおできになるのです。

 私たちは、本当に弱い者です。罪に弱いだけではなく、様々な問題に直面する時にも弱く躓きやすい者です。私たちは、神様を賛美して喜びに溢れているかと思うと、神様に対して不平を言ったり、祈れなくなったり、と私たちの感情は実に忙しく動いています。イエス様は、私たちの経験する試みをご存知で、私たちが弱いこともご存知です。私たちの大祭司イエス様は、私たちが試みに打ち勝つことが出来るように力と信仰を与えてくださるのです。そのために、私たちは、大胆に恵みの御座に近づきましょう。

Ⅲ;折にかなった助けを受ける(4:16、5:9-10)

 私たちは、大胆に恵みの御座に近づくことが出来ます。その時私たちは、「折にかなった助けを受ける」ことが出来ます。イエス様は、父なる神様の御心に従順に従い、私たちの罪を背負い十字架に従われ、ご自身が完全な大祭司であることを示されました。そしてイエス様は、信じるすべての人に救いを与え、永遠のいのちを与えるのです。

 「恵みの御座に近づく」と言うのは、具体的にはどのようなことかと言うと、それは、「私たちの祈り」と言うことが出来るでしょう。私たちは、いつでも、どんな事についても神様に祈り求める事が出来ます。何も遠慮することなく神様に祈り求める事が出来るのです。ヘブル人への手紙の著者は、そのことを「大胆に恵みの御座に近づこう」と表現しているのです。 

 このように大胆に御座に近づく時、私たちは、折にかなった助けを受けることが出来ます。神様は、ご自身のもとに来る者に折りにかなった、その時その時に必要な、確かな助けを与えてくださるのです。この神様の助けは無制限の助けです。神様は、私たちが神様からの無制限の助けを受けられるように、常に私たちの祈りに耳を傾けてくださっています。私たちは、神様の折にかなった、その時に必要な助けを信じて信頼して、遠慮することなく祈り、大胆に恵みの御座に近づいていきましょう。

 私たちには、大祭司イエス様がおられるので、大胆に御座に近づくことが出来ます。私たちの大祭司イエス様は、私たちの弱さに同情し、私たちを励まして下さいます。私たちは、大胆に恵みの御座に近づきましょう。その時私たちは、折にかなった適切な助けを与えていただくことが出来ます。ご一緒にヘブル4章16節を読みましょう。
「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。2023年を迎えることが出来、新しい一年を与えてくださり感謝致します。2023年も導いてください。
 私たちは、大胆に恵みの御座に近づいて祈り求める事が出来る約束を感謝致します。イエス様は、私たちの弱さを知り、折にかなった適切な助けを与えてくださることを感謝致します。私たちは、信仰の告白を堅く保ち、大胆に、遠慮することなく御座に近づいて歩ませていただきます。神様、私たちの歩みを確かなものとしてください。
 神様、一人ひとりの健康を守り、仕事を守り、生活の全ての必要を満たしてください。新しい一年を神様から恵みと祝福で溢れさせてくださいますようにとお願い致します。
 新型コロナウイルスの感染を収束させてください。世界中が神様からの平和で満たされますようにとお願い致します。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」