2023年2月5日(日)礼拝説教 エズラ記3章1-13節 「慈しみ深く恵み深い神」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 皆は、学校の授業で日本の歴史を勉強していると思います。今、大河ドラマでは「どうする家康」が放送されています。徳川家康が主人公のドラマです。また織田信長を描いた「レジェンド&バタフライ」という映画も公開されていますね。どちらもまだ見てはいませんが、ちょっと気になるところです。皆は、織田信長も徳川家康も聞いた事があるでしょう。二人とも同じ時代の歴史上の人物です。でも同じ歴史でも、住んでいる場所や立場が違うので、描かれる内容も違いが出てきます。

 これまでダニエルとエステルを学びました。今日はエズラ記を学びます。今日の内容にはエズラは出て来ませんが、おおよそ同じ時代の人たちです。またエルサレムからの捕囚の民ということでも同じ境遇の人たちです。さて、どんな歴史が展開するのでしょうか。
 時代は、エステルの時よりも少しさかのぼり、ペルシアの王キュロスの時代の事です。キュロス王は、「天の神は、自分にすべての国々を与えてくださった。ユダヤ人たちは、エルサレムに帰って、破壊された神殿を建て直しなさい。」という命令を出したのです。こうして突然、捕囚の時代が終わりを告げることとなりました。

 捕囚の時代が終わってエルサレムに帰れることは嬉しいことだけれども、どうしたら良いのでしょうか。キュロス王はこんなことも言っていました。「エルサレムに帰る者は神殿を再建しなさい。帰らないでペルシアに残る者は、エルサレムに帰る人たちを支援するように。神殿を建て直すために必要な物資を捧げるように」と。そこで神様によって奮い立った人々はエルサレムに帰るために準備を整えました。周りの人たちは、銀の器、金、お金、家畜、様々な品物を喜んで献げて、神様への感謝を表し、エルサレムに帰る人々を力づけました。キュロス王もエルサレム神殿から奪い取った品々を全て返すのです。「さぁ、エルサレムに向けて出発だ!!」リーダーの合図と共に移動を開始します。こうして捕囚の民は、エルサレムに帰ることが出来ました。一つ一つの出来事の中には、神様の確かな導きと助けがありました。

 エルサレムに帰った人たちは、まず自分たちの先祖の町に戻って生活を立て直します。そしてみんなで決めた通りの時に一斉にエルサレムに集まりました。いよいよエルサレム神殿の再建となるのですが、人々は、その前にどうしてもしなければならない事がありました。それは、祭壇を築いて主なる神様を礼拝することでした。「まず、エルサレムに帰るように導いてくださった神様に感謝の礼拝をささげよう」と祭壇を築きます。彼らは、元々祭壇のあった場所に、祭壇を築き、モーセを通して教えられた通りの方法でいけにえを捧げ、神様を礼拝しました。神様を礼拝することはとても大切であるということが分かります。

 神様を礼拝した後、人々は神殿を建て直す作業に入りました。ここで質問です。建物を建てる時に一番最初にする重要なことはなんでしょうか。答えは、「土台」を作ることです。ですからエルサレムに集まった人たちは、皆で協力し合って土台を完成させました。土台が完成した時人々は「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と大喜びで神様への賛美を捧げました。これはソロモン王の時代に神殿が完成した時歌った賛美と同じものです。人々は、大喜びで賛美をしました。しかし中には悲しみの涙を流した人もいたのです。それは、ソロモンの神殿を知っている人たちです。ソロモンの神殿は、純金でおおわれ、それは、それは豪華で素晴らしものでした。しかし今、目の前にある土台は、ソロモンの神殿とは比べ物にならないのです。ある人たちは、神殿が壊される程自分たちの罪が大きいものであったと知り、嘆いたのです。
 ともあれ、エルサレムに帰った人たちは、神様を礼拝し、神殿の土台を完成させました。神様がイスラエルの民を忘れず、恵みをもって導き助けて下ったからです。神様は、今も僕たちに恵み深く、僕たちを支え、守ってくださいます。神様を信じて、心からの礼拝をささげて歩みましょう。
 今日の聖句を読みましょう。「ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」詩篇106篇1節。

 祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様は、捕囚とされたイスラエルの民を忘れず、エルサレムに帰ることが出来るようにしてくださいました。そこに神様の大きな恵みがあったことを知りました。今も神様は、僕たちに恵みを与え、守り、導いてくださることを感謝します。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」 
                                      詩篇106篇1節

<適用>

 私が結婚して、妻の親戚の所に挨拶に行った時の事です。帰り際だったでしょうか。妻の祖母が、妻に私の事を「気さくで与作な人で良かったね」と言ってくれたのです。多分「気さくで良さそうな人」と言うつもりだったのかもしれません。私を含め一同「与作??」となり、私は、瞬間的に「じゃぁ木でも切りに行こう」と思ったりして、その場にいた全員が大笑いしてしまいました。このように私たちは、人の印象を「○○のような人」と表現する事がありますね。また、言われることがあります。
 では私たちは、神様についてはどのような方と表現するでしょうか。聖書には、実に多くの表現がされています。その一つが今日の説教題にもある「慈しみ深く恵み深い」という表現です。ご一緒に見て行きましょう。

Ⅰ;慈しみ深いお方

 神様は、慈しみ深いお方です。「主はまことにいつくしみ深い。の恵みはとこしえまで。」という賛美は、ダビデが歌った言葉です(第一歴代誌16章34節)。ダビデはイスラエルの王となった時、神の箱を天幕の真ん中に安置しました。その時ダビデは、喜びをもって感謝の賛美を捧げます。彼は、神様の偉大さ、神様の契約の恵みなどを賛美し、その中で神様のいつくしみ深さと恵みの大きさを賛美するのです。またソロモンは、神殿が完成した時に「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで(第二歴代誌5章13節)」と賛美しました。

 「慈しみ」と訳されている、ヘブル語の「トーヴ」という言葉には、「良い」と言う意味があります。ですから、「主はまことに慈しみ深い」という表現は、「主は本当に、素晴らしく良いお方」ということが出来るでしょう。そしてこの「良い」と言う言葉は、創世記1章31節でも使われています。「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日」神様は、ご自分が創造された世界をご覧になっと時、すべてのものが非常に良かったと見られたのです。それは、神様の造った世界が完全で、完璧であり、欠点の何一つない世界であったという事なのです。人間は、神様によって創造された秩序を守り、罪のない完全な歩みをしていました。そこには全てを支配する神様の完全さが現わされているのです。
 その後アダムの罪によって人類に罪が入り、人の堕落により神様との関係が崩れてしまいました。それ以来人は、神様の御前に完全に正しく聖い存在ではなくなったのです。けれども神様は、私たちに対して、いつでも、どんな時でも「良いお方」であり、完全な御手を指し伸ばして私たちを導いてくださるのです。

 エズラ記に見られる神様の「慈しみ深さ」「神様の完全さ」は、どこにあるのでしょうか。それは、神様が一人一人に働きかけ、神様ご自身への思いを与えてくださったところにあります。
 まず神様は、ペルシアの王キュロスに御手を指し伸ばしました。この時のペルシアは、征服した地域の宗教を認める政策を取りました。そのためにキュロス王は、イスラエル人がエルサレムに帰ることを認めるのです。エズラ1章2節には「天の神、主は、地のすべての王国を私にお与えくださった。この方が、ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された。」というキュロス王の命令を伝えています。キュロス王が神様を信じてこのように命令を出したと言うよりは、キュロスがそのような政策を打ち出し、様々な地域に命令を出したということだと思います。けれども、その背後には神様の御手があるのです。神様ご自身がキュロス王の心を動かしたのは事実だからです。だからこそキュロスは、エルサレム神殿から奪い取った金・銀の器などを返すのです。

 また神様は、イスラエルの民にも働きかけました。この時、既に捕囚とされ50年以上が過ぎています。エレミヤの預言の成就の時なので70年が経っています。捕囚の民も世代が変わっていたことでしょう。という事は、彼らは、ペルシアでの生活の基盤が出来上がっていて、安定した生活をしていたという事です。それでもイスラエルの民は、ペルシアでの生活を止めて、不安定なエルサレムでの生活を選び取るのです。エルサレムはバビロンに滅ぼされて廃墟となっています。先祖の町に行っても、やはりそこは荒れ果てていて、安全の保障はないのです。けれども彼らは、エルサレムに帰る決断をしました。ペルシアに残る人たちは、エルサレムに帰るために必要な品々を進んで献げました。その一人一人に主なる神様が献身の思いを与え、神様に従う信仰を与えられたのです。
 私たちの神様は、慈しみ深く、良いお方です。神様が、私たち一人ひとりを導くその道は、神様によって完全に、完璧に守られることを覚えましょう。

Ⅱ;恵み深いお方

 神様は、恵み深いお方です。この「恵み」は、ヘブル語の「ヘセド」という言葉です。旧約聖書には252回使われています。意味としては「恵み」のほかに、「愛、憐れみ、優しさ、思いやり」となります。「恵みはとこしえまで」という表現は、「神様の愛は、永遠に続く」と言い換えることが出来ます。

 エズラ記の中で神様の恵みは、どんなところに表れているのでしょうか。「エレミヤによって告げられた主のことばが成就するために(エズラ1:1)」と言われていることに注目しましょう。エルサレムは、どうしてバビロンに滅ぼされたのでしょうか。それは、イスラエルの民が罪を悔い改めなかったからです。イスラエルの民は、王も祭司も多くの人が、神様から離れ、偶像礼拝をして自分の欲望を満足させる生き方をしていました。神様は、預言者を通して民の罪を指摘し、神様の裁きがありイスラエルの国は滅ぼされると語っていました。エレミヤもその預言者の一人です。それにもかかわらず、イスラエルの民は、悔い改めませんでした。そのようなことで、エルサレムはバビロンに滅ぼされることとなったのです。神様は、エレミヤを通してエルサレムの滅亡だけではなく、エルサレムの回復のことも語っていました。エレミヤ書29章10節「まことに、主はこう言われる。『バビロンに70年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たし、あなたがたをこの場所に帰らせる。』」

 なんと神様は、イスラエルの民の罪があり、彼らが神様に背を向け積極的に神様を否定するような状態であるにもかかわらず、回復の約束をしてくださっていたのです。そしてこの回復の約束に続く言葉が「わたし自身、あなたがたのために立てている計画を良く知っている ―主のことば―。 それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ(エレミヤ29:11)。」なのです。神様は、確かにイスラエルの罪に対して厳しい裁きをされました。しかしそこには、イスラエルの民が罪を自覚し悔い改めて主に立ち返るためという目的があったのです。そして悔い改めて主に立ち返り、主を呼び求める時、神様は必ず御手を指し伸ばしてくださるのです。
 これが神様の「恵み」です。そして「神様の恵み」と言う時、そこには無限の神様の愛があります。神様の愛は、決して変わることがありません。神様は、私たちへの祝福の約束を決して破ることなく、神様の愛はどんなことがあっても揺るがされる事はありません。

 今日賛美した「慈しみ深き」は、ジョセフ・スクライヴェンと言う人が作詞しました。彼は、大学卒業後、一人の女性と結婚の約束をしていました。結婚に向けて準備をしている時、婚約者が事故で亡くなりました。失意の中で彼は故郷のアイルランドからカナダへ移り住みます。そこで人々に奉仕し仕える生活をしていました。スクライヴェンは、悲しみが癒されつつある41歳の時に結婚へと導かれました。が、婚約者が病で亡くなってしまいました。彼は、深い、深い悲しみと痛みの中で、神様の御前に心を注ぎ出して祈りました。その祈りの中でスクライヴェンは、大きく深い神様の慰めを受けることが出来たのです。彼は、神様の変わらない愛、決して失われる事のない神様の恵みと憐れみを知り、受けて立ち直ることが出来たのです。そして彼は、自分の事を心配している故郷の母親に宛てて手紙を書きました。それが讃美歌「慈しみ深き」です。

 神様は、慈しみ深く、恵み深いお方です。神様は、バビロンに捕囚とされたイスラエルの民を忘れることなく、ご自身がエレミヤを通して語られた約束を破ることなく、神様の時に成就してくださいました。こうしてイスラエルの民は捕囚から解放されてエルサレムに帰還することが出来たのです。
 神様は、多くの預言者を通して救い主・メシアをこの世に遣わすと約束を与えてくださっていました。神様は、その約束の通りに、ひとり子イエス様によって救いの約束を成就してくださいました。イエス様が私たちの罪のために十字架にかかって神様の罰を受けてくださったのは、今から2000年も前の事です。けれどもイエス様の十字架の救いのみわざは、今でも有効です。なぜなら、神様の恵みはとこしえまで続くからです。神様の愛は変わらず、イエス様の十字架による救いを信じる時、私たちの罪は赦され、神の子としての恵みを与えて頂くことが出来ます。神様は、私たちに対していつでも、どんな時でも慈しみ深く良いお方です。そして神様の恵みは決して失われることなく、いつまでも私たちに注がれています。
 皆さん、私たちは今週の聖句にあるように「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と心から自分自身の信仰の宣言として告白をしながら歩みましょう。ご一緒に詩篇106篇1節を読みましょう。
「ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」詩篇106篇1節

 祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様、あなたは慈しみ深いお方です。神様が、私たち一人ひとりに完全な計画を持っておられ、神様によって良い道が備えられている事を信じます。神様の恵みはとこしえまでも続き、私たちへの神様の愛は決して変わることがないと信じます。神様、どうか私たちの歩みを導いてください。
 一人一人の健康が守られ、生活が支えられ、全ての必要が神様によって満たされますようにとお願い致します。
 神様、ロシアによるウクライナへの侵攻が終り、各地にある武力紛争が終りますように、この世界を憐れんでください。
 また新型コロナウイルスの感染が完全には収束していません。まだ私たちの生活には不安があります。神様の助けと導きが必要です。どうか神様の憐れみの御手を指し伸ばしてください。
 受験を控えている受験生たちをお守りください。勉強が神様によって支えられ、しっかりとした準備をする事が出来ますようにとお願い致します。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」