2023年3月5日(日)礼拝説教 ヨハネの福音書10章1-18節 「良い羊飼いイエス」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 この写真(週報にも印刷してあります)、何の写真か分かりますか?イスラエルの国での羊の群れの写真です。イスラエルに旅行に行った方からいただきました。観光バスが通る道でこれほどたくさんの羊の群れを見られるのは珍しいそうです。写真では小さくですが、先頭付近に羊飼いが映っています。
 羊の群れにとって羊飼いは、とても大切な存在です。何故ならば、羊は羊飼いがいないと生きていけない動物だからです。羊飼いは、どのように羊たちを連れて行くのでしょうか。

 羊飼いは、羊の囲い場の入り口に立って「さあ、出かけよう。」と羊たちに声を掛けます。そして羊飼いは、「ジョン、メリー、ケン、ジェリー、トム、・・・・・。」と一匹ずつ名前を呼びます。羊たちは、羊飼いの声を知っているので、羊飼いの声を聞くと喜んでついて行きます。羊飼いは、牧草地に連れて行ってくれるし、水を飲ませてくれるし、休ませてくれるからです。

 羊は、羊飼いがいないと生きていけません。羊は、とても弱くて、臆病で、群れの一匹がパニックになるとつられてパニックになってしまいます。また体の毛が伸びてしまった羊は、自分の毛の重さで、自分で起き上がることが出来ないそうです。羊飼いに起こしてもらう必要があります。そして羊の目は、顔の横についているので、前や横、後ろまでとても広い範囲を見渡すことができます。けれども、視力が良くありませんので、遠くは見えないし、ピントも合わないのです。だから羊は、一度迷子になったら、方向も分からなくなり、元の道に戻ることが出来ません。だから羊飼いは、羊が群れから離れないようにといつも目を配り、もし一匹でも羊が迷子になったなら、羊を捜し続け、助けに来てくれます。羊飼いは、獣が襲ってきた時には、命がけで羊を守ります

 イエス様は、ご自分の事を「わたしは良い牧者です」と言われました。イエス様が、良い羊飼いだということです。羊は、僕たち一人ひとりです。僕たちは、羊と同じように弱くて、誰かの助けを必要としています。皆は、不安な事もあるでしょう。気持ちが落ち着かず落ち込んでしまう事もあるでしょう。友だちとの関係の中ですぐに緊張してしまうことや、人間関係が上手くいかないということもあるでしょう。イエス様は、僕たちのそのような心の内側の思いを知っていてくださいます。そして僕たちの名前を呼んで導いてくださるのです。イエス様は、どんな時でも僕たちを見つけ出し、離さず、守ってくださいます。それだけではなく、イエス様は、僕たちの罪が赦され、救いを受けられるように、十字架にかかってくださいました。イエス様は、命を捨てて、僕たちが永遠の命、天の御国への希望を持ち、神様の愛を受けて歩むことが出来るようにしてくださったのです。

 良い羊飼いであるイエス様に従って行く時、僕たちは、安心することが出来るし、喜びが与えられるし、生きる力を与えて頂くことが出来ます。今週の聖句を一緒に読みましょう。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」ヨハネの福音書10章11節。イエス様は、あなたの羊飼いです。

 祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。良い羊飼いであるイエス様が、いつも僕たちに目を留め、導き、助けてくださることを感謝します。僕たちは、羊飼いであるイエス様を信じて、従って行きます。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」ヨハネの福音書10章11節

<適用>

 私が、中学生になり英語の授業で最初の頃に勉強したのは、「これはペンです(This is a pen.)。」や「私の名前は○○です(My name is~.)」です。そして自己紹介をする時のもう一つの言い方として「私は、○○です。(I am ~.)」を学びました。
 イエス様は、地上での歩みの中で何回か「わたしは、○○です。」と自己紹介をしています。ヨハネは、このイエス様の自己紹介を書き留めています。今日の聖書箇所は、そのうちの一つです。今日からしばらくヨハネの福音書から、イエス様について一緒に学びましょう。

Ⅰ;羊の門

 イエス様は、良い羊飼いです。そしてイエス様は、羊が通る「門」でもあります。イエス様は、言われます。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です(7)」。イエス様は、大切なことを語るときに良く「まことに、まことに」という言葉を使います。ですから私たちは、このイエス様の言葉にしっかりと耳を傾け、心に留める必要があります。

 イエス様は、羊の囲い場のたとえを話されました。羊飼いたちは、自分の家の敷地の中で羊を守ります。また放牧に出る時は、羊のための囲いを作り、一つの門を作ります。また囲い場を作れないような時には、洞窟を捜し、洞窟に羊を入れ、羊飼いたちは洞窟の入り口で番をすることとなります。また羊を放牧する時、やはり複数の群れで協力して羊たちを守ることがあります。その時、門を通らず、囲い場に入るような者は、盗人や強盗なのです。羊は、門番が居て、羊飼いのいる門を通って出入りし、牧草地に連れていってもらう事が出来ます。イスラエルの国では、羊の放牧が行われ、誰もが羊飼いの様子を見て知っていたでしょう。ですからイエス様が、1-5節で言われたことがそれほど特別なことではなく、当然のことであると理解出来たのです。聞いていた人たちは、当然すぎることをイエス様が話すので、その理由、その意味を理解できないでいました。

 そこでイエス様は、このたとえがイエス様ご自身のことであると説明されたのです(7節から)。イエス様は、羊の門です。イエス様より前に来た偽預言者や偽教師たちは、門の柵を乗り越えて人々を神様から引き離してしまったのです。ですから彼らは、「盗人であり強盗です(8)」と言われているのです。イエス様は、羊の門です。イエス様を通して囲い場に入るなら私たちは、平安を得ることが出来ます。羊の門であるイエス様から入ると言うのは、神様の救いに入ることであり、神様の愛を受けて平安を与えられるということです。イエス様は、「羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです(10)」と言われました。この「豊かに得る」の「豊かに」は、「十分に、あふれるばかりに」と言う意味があります。イエス様を通して与えられる救いと平安は、私たちにとって十分なものです。イエス様が、私たちに与えてくださる命は、あふれるばかりに与えられる、永遠の命、天の御国への希望です。

 イエス様は、まさに私たちを守る門です。私たちは、イエス様の囲いの中に導かれ、イエス様を通して出入りし、イエス様の与えてくださる平安と憩いを得ることが出来るのです。

Ⅱ;私たちを導く

 イエス様は、良い羊飼いです。良い羊飼いであるイエス様は、私たちを牧草地へと導いてくださるのです。その牧草地とは、神様の恵みと祝福のことです。

 羊は、羊飼いがいないと生きていけない弱い動物です。先ほど話したように、羊は目が顔の横についているので、270度から320度と広い範囲を見渡すことが出来ますが、すべてをはっきりと見ることが出来ません。ですから羊は、近くの羊が飛び上がれば、飛び上がる必要があると感じすぐに飛んでしまいます。また近くの羊が騒ぎ出すと、それを見て危険を感じ騒ぎだし、次から次へとパニックになるのだそうです。また羊は、群れで行動する動物ですから、一端群れから迷い出た羊は、生きていくことが出来ません。

 しかし羊は、視力が弱い分、聴力が良く、耳からたくさんの情報を得ることが出来ます。羊は、シープドッグ(牧羊犬)の声を聞いて動きます。そして何よりも羊は、羊飼いの声を聞いて自分の羊飼いに従って行くのです。羊飼いも羊の名前を呼んで羊を連れて行き、羊の群れの先頭に立って導いて行きます。
 同じようにイエス様は、私たちのことをいつも見守り、気にかけていてくださるのです。そして私たちの名前を呼び、私たちの人生の先頭に立って(時には後ろから)導いてくださるのです。「良い羊飼い」の「良い(ギリシャ語:カロス)」と言う言葉は、「素晴らしい」とか「非の打ち所のない」「欠けのない」という意味があります。イエス様は、素晴らしい羊飼いであり、私たちに対するイエス様の導きは、非の打ち所のないほど完全なのです。

 良い牧者であるイエス様は、私たちが間違った方向に向かうことのないようにと常に愛の目を注いでくださっています。そればかりかイエス様は、私たちが罪から離れ、神様に立ち返るようにと私たち羊のために十字架で命を投げ出して救いの道を開いてくださいました。イエス様は、私たちが神様と和解し、神様の愛を受け、祝福を受け、永遠の命が与えられるために命を捨ててくださったのです。私たちは、それほどまでにイエス様に愛され守られているのです。イエス様は、素晴らしい、非の打ちどころのない羊飼いです。イエス様は、私たちを守り、私たちを呼び、私たちを神様の祝福という牧草地へと導いてくださるのです。

Ⅲ;ついて行こう

 私たちのイエス様は、良い羊飼いです。私たちは、羊の門であるイエス様から入り、イエス様によって導かれて歩むことが出来ます。私たちのすることは、良い羊飼いであるイエス様に従いついて行くことです。羊飼いは、羊一匹一匹を名前で呼び、それぞれの必要を知り助け、導きます。羊は、羊飼いの声を知っているので、羊飼いの声に従って行きます。羊の特徴の一つとして、羊は、とても記憶力が良く、人や他の羊の顔を何年も記憶することが出来るという研究データがあるそうです。

 羊だけでなく、動物は、飼い主の声だけではなく足音をも記憶しているそうです。以前、私はある光景を見たことがあります。良く通っていた道のある一軒のお宅では、外で犬を飼っていました。ある時、その家の犬が犬小屋から出て、座り込み身動きせず一定の方向を見ているのです。何をしているのかと観察していると、その家の人が帰って来るだろう方向を見ていることが分かりました。帰って来る時間なのか、遠くで家の人の足音がしているのを聞いていたのでしょう。その犬は、まだ姿が見えない飼い主の足音を聞き取って、帰ってくるのをじっと待っていたのではないでしょうか。その犬は、自分が安心して生きるために誰に従うべきかをしっかりと知っていたということでしょうか。羊も同じだとイエス様は言われました。羊は、羊飼いの顔と声を覚え、その羊飼いにしかついて行きません。

 私たちは、どうでしょうか。イエス様は、私たちのことを知っていてくださり、私たちの名前を呼び、必要を知り助けてくださるお方です。皆さんは、そのイエス様の声を知っていますか。イエス様は、「わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています(14)」とも言われました。こんなことを言われると、「穴があったら入りたい」と思ってしまうほど、申し訳ないような気になってしまいませんか。私たちは、イエス様の愛、イエス様の優しさ、イエス様が与えて下さる平安を知っているでしょうか。

 私たちが、「イエス様を知る」とか「イエス様の声を知っている」というのは、どういう事でしょうか。それは、イエス様の教えを心に留めるという事です。すでに皆さんは、イエス様が私たち一人ひとりを導いてくださっていることを体験しているし、イエス様がしてくだった数々のことを知っているし、覚えているはずです。そのことを忘れず、感謝をもってイエス様を見上げて行きましょう。そして私たちは、聖書の御言葉を通して、イエス様の喜ばれることを知り、学び続けて歩みましょう。私たちは、聖書を通して神様のこと、イエス様のことを更に知ることが出来ます。「神様、教えてください」との祈り心を持って聖書を読み進めていきましょう。
 イエス様は、良い羊飼いです。イエス様は、私たちが平安を得ることが出来るための門です。イエス様は、素晴らしい、完全な羊飼いです。私たちは、イエス様に従いましょう。その時、私たちは救いを与えられ、あふれるばかりの平安と祝福を得ることが出来るのです。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、良い羊飼いであり、私たちは羊です。イエス様が、私たち一人ひとりの名前を呼び、導き、助け、人生を共に歩んで下さることを心から感謝致します。私たちは、イエス様を通して祝福を与えられ、平安が与えられ、生きる力を与えて頂くことが出来ます。私たちは、良い羊飼いであるイエス様について行きます。イエス様、私たちの人生を導いてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」