2023年3月26日(日)礼拝説教 ヨハネの福音書15章1-17節 「イエスにつながり続ける」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>

 急に春らしくなりました。町では様々な花が色とりどりに咲き乱れています。冬の間は葉っぱも花もない姿でしたが、時が来て植物の生命力が爆発しているかのようです。
 今日はイエス様がご自分をある植物に例えたお話をします。それは実のなる植物です。トマトでもなく、きゅうりでもなく、ましてやゴーヤでもなく…答えはぶどうです。甘くて、少しすっぱくて、みずみずしいぶどう。成っているところを見たこともあるでしょう。ぶどうの実の房は、こんなふうに木の枝にぶら下がって実ります。農家の人や、植えているお宅の人が一生懸命にお世話をすることで、おいしいぶどうが成るのですね。

 さて、今日のみことばを読みましょう。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」イエス様が木で、イエス様を信じる私たちは枝だというのです。木は根っこから水や養分を吸い上げて、枝のすみずみにまでそれを送ります。すると枝には青々と葉っぱが茂っておいしい実をならせます。そのように、イエス様は私たちに神様の愛といのちの力を送ってくださいます。イエス様に繋がっているなら、私たちは力を頂いて元気に成長することが出来るのです。

 続いてイエス様はこうもおっしゃいました。「人がわたしにとどまり、わたしがその人の中にとどまるなら、その人は多くの実を結びます。」考えてみればわかりますね、ぽきんと折られてしまった枝はもう栄養も水分ももらえず、枯れて行くだけです。どんなに時間がたっても実をつけることはありません。わたしたちも同じです。イエス様から離れてしまうなら、元気がなくなって実を結べなくなってしまいます。

 ぶどうの木には甘くておいしい実がなるのが楽しみですよね。ゴーヤのような苦い実が成ったら、びっくりするしがっかりします(ゴーヤもその苦みが美味しく食べられますが)。父なる神様もイエス様も、当然よい素晴らしい実がなることを期待しています。それもほんのちょっぴりでなく、豊かに多くの実を結ぶことを楽しみにしておられます。
 良い実とは、神様に喜ばれる心と行いのことです。神様と他の人への愛の心、へりくだって神様のみこころを求めること、感謝の心、親切、誠実に生きること、罪を離れ悪を捨てて生きること。一つひとつが大切な実です。きっとほかにも有ることでしょう。

でもこれは、枝が頑張って実をならせる、ということではありません。木につながっていることだけが、良い実をならせる条件です。イエス様は「その人は多くの実を結びます。」と約束してくださいました。大切なのは、イエス様とつながり続けることです。ではどうしたらいいのでしょうか。イエス様を信じる、お祈りをする、聖書を読む、毎週教会に集う、その一つひとつが私たちをイエス様に繋がらせてくれます。それぞれ考えてみてほしいと思います。
 新しい生活が始まる前の今だからこそ、イエス様にしっかり繋がっていよう、離れないように守って頂こう、と思いを新たにしましょう。そしてイエス様の下さる力を頂いて、実を結ぶ人生を実現させて頂きましょう。

<祈り>
「神様、今年度最後の礼拝になりました。1年間の守りを感謝いたします。みんなそれぞれに卒業、進学、進級の時期を迎えています。新しい生活に期待と不安があると思いますが、何よりしっかりイエス様にとどまっていられますように、どうぞお守りください。そして神様が約束して下さった素晴らしい実を実らせていけますよう、恵みをお与え下さい。御名によってお祈りします。アーメン。」

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」  ヨハネの福音書15章5節

<適用>

 花々の美しい季節ですが、同時に花粉症の人には辛い季節となりました。今年のスギ花粉の飛散量は例年の10倍以上ということで、例年以上に症状が重く出るようです。家族全員花粉症の我が家では、ティッシュペーパーが飛ぶようになくなって行きます。私は毎年、スギ、ヒノキ、そしてアカシアが終わるまで花粉症シーズンが終わりません。
 アカシアの花を見たことがあるでしょうか。白い藤の花のような花房がついて、とても美しい植物です。川べりや山ではたくさん自生しています。アカシアからとれる蜂蜜はくせがなくておいしいですし、開きかけの花房は天ぷらで食べると良い香りがして何とも風流です。けれど、ご存知でしょうか。この植物の正式名称はなんと「ニセアカシア」というのです。偽物のアカシア、という名前は、アカシアは本来マメ科アカシア属ですが、この植物がアカシア属ではない、というところから来ているようです。素敵な植物なのに、名前に「偽」と着くのは何だか残念です。しかし本物との区別がしっかりなされている、というのは良いことと捉えたらいいのかもしれません。
 さて今日の聖書箇所は、最後の晩餐の席上でのイエス様のお言葉です。いわば人生最後の告別説教ということが出来ます。これだけは語っておきたい、というイエス様の思いが溢れたお言葉です。弟子たちに対して、イエス様はイスラエルでなじみの深い「ぶどう」にご自分を例えました。しかも「まことの」ぶどうの木とおっしゃったのです。当然持つべき特徴を備え、確実に良い実をならせるのが「本物」です。その本物に連なるのがあなたがたなのだよ、わたしに繋がりとどまっていなさい、とイエス様は語り掛けられます。そのお言葉に耳を傾けましょう。

1.まことのぶどうの木(1~3節)

 1節でイエス様は「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」と言われました。旧約聖書でも神の民イスラエルはぶどうに例えられていました。イザヤ書5章にはこうあります。「わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか。なぜぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、酸いぶどうができたのか。…万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えたもの。主は公正を望まれた。しかし見よ、流血。正義を望まれた。しかし見よ、悲鳴」(イザヤ5:4,6)。
 イスラエルとユダ両王国の偶像礼拝の罪による滅亡は、すでに学んできた通りです。神様はそのご計画によって、御子イエス様を良い実をならせるまことのぶどうの木として新たに植えられたのです。それは良い実を豊かにつけることで、今度こそ神様の栄光が表されるためです。

 ぶどうの木を世話するには、様々な作業があるようです。実は群馬に居た頃、教会の敷地にぶどうの木が植えられていました。毎年夏になるとマスカットがなります。主人の父が牧会中に植えたもので、主人が引き継いで世話をしていました。剪定はもちろんのこと、冬には樹皮をはがす作業までしていました。樹皮と幹の間に虫が入るのを防ぐためだそうです。本当は消毒や肥料やりなどまだまだやることはあったのでしょうが、素人にはこの位が精一杯でした。それでも小さい粒のかわいい房がいくつか取れて、甘酸っぱい果実を愛燦会などで楽しむことが出来ました。この実りと収穫の喜びのために、一生懸命世話をするのですね。

 神様も、信仰者が良い実を実らせることを大きく期待しておられます。今ここに植えられたのは、かつて酸っぱい実(すなわち罪)をならせたイスラエルのような悪い木ではないからです。ガラテヤ5:22にある御霊の実「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を神の民が身に着けていくことが主が望んでおられることです。
 父なる神様はご自身のぶどうの木に刈込みをなさるお方です。いらない枝、取り除くべき病葉を農夫が取り去るように、良い実の結実に妨げとなる罪や重荷を清めようとなさいます。わたしが話した言葉によって既にきよい、とイエス様が言われたように、みことばによって罪を知らされ悔い改めることがその刈込です。
 神様のお言葉は時に耳に痛く、心をさぐり締め付けることがあります。それこそが神様の刈込みです。神様のみことばにへりくだって応答し悔い改めましょう。主はきよめて下さいます。そしてまことのぶどうとして、豊かな結実へと導いて頂きましょう。

2.イエスにとどまり続ける(4~11節)

 先ほども学びましたが、イエス様はわたしたちも枝としてぶどうの木の一部だとおっしゃいました。本日のみことばをもう一度読みましょう。幹から離れた枝は何の役にも立ちません。細い木ですから何かを作るにも適しません。つるならつる細工などに使えるでしょうが、実をとる以外に有用な点がぶどうの木にはないのです。ですから枝は木にしっかりととどまってやがて実を結んでこそ、その存在意義があるのです。

 その鍵の1つはイエス様の「みことば」です。イエス様にとどまる者とは、イエス様のみことばを生活と信仰の基準として生きる者です。その人は、「何でも欲しいものを求めれば、それがかなう」とおっしゃいました(7節)。これはみこころに叶う祈りは聞いて頂ける(Ⅰヨハネ5:14)という聖書における素晴らしい約束の一つです。それは神の栄光が表されるためだからです。これは大きなチャレンジです。みことばを重んじ、主の弟子として実を結ぼうと願う人には、主の恵みが豊かに注がれる。このことを改めて信じます、アーメン、と告白したいと教えられます。

 もう1つの鍵は「イエス様の愛のうちにとどまる」ことです。これは最後の晩餐の席上語られた言葉です。イエス様は、どれだけ弟子たちを慈しみ愛しているかを最後のチャンスとして伝えようとされました。教条的な信仰ではなく、主イエス様の愛をしっかり受け止めることを願っておられるのです。そして、今度は私たちがイエス様への愛を表すことを望んでおられます。イエス様に留まるとは、主のみことばと愛とに、私たちも愛と従順によって答えることで表されるものです。私たちは何をもって主に愛をお返し出来るでしょうか。今一度思いめぐらし、行動にあらわそうではありませんか。

3.イエスのご命令

 最後にイエス様のご命令のお言葉に耳を傾けたいと思います。12節「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」17節「あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。」
 このお言葉の前に、私は自分の愛のなさにうなだれる他ありません。自分から積極的に愛する愛を、生まれながらの罪人はとても持ち合わせていないと思わされるのです。

 しかしイエス様はどのように私たちを愛して下さったのでしょうか。イエス様は13節「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」14節「あなたがたはわたしの友です」と言われました。実際イエス様は私たちを友とよび、そのいのちを十字架の死に差し出して下さいました。友と呼ばれる資格のないものを、あえて選びだして、神の栄光を表すものとして任命してくださいました。作家の三浦綾子さんはこう言っています。「愛するとは、単なる好きとはちがいます。相手を生かし、相手を育てる意思なのです。」イエス様と全く同じように愛せるかと聞かれたら、それは無理かもしれません。しかし主は、あなたたちも私にならって愛という実を結んで欲しい、と語っておられます。このご命令は、何か主からの懇願のようです。このおことばにどう応答するでしょうか。

 人格者でないから私には出来ませんと主にお答えしますか。イエス様のような相手なら愛せるのですが、とお答えしますか。それとも主がお命じになるゆえに、愛のないものですが愛によって行動します、とお答えしますか。十字架に向かわれる主のご命令にどうお応えするのか、一人一人が真摯に応答させて頂きたいと思います。もっとも麗しくもっとも望まれる実、それは愛の実です。まことのぶどうの木のいのちによって愛の実をならせていけるよう、祈り求めて参りましょう。

<祈り>
「神様、受難節の礼拝をありがとうございます。良い実を結ぶまことのぶどうの木、イエス様に結び付けて頂いたことを感謝します。主の語られるみことばと、十字架をも受け入れて下さったその愛に留まり続けます。また、主にならって愛によって歩んで行きたく願います。どうぞ愛をお与え下さい。選んで下さり、主の弟子として任命して下さったことを感謝します。主のご栄光のため豊かな実を豊かにお捧げしていけますよう、続いて恵みをお与え下さい。御名によってお祈りします。アーメン。」