2023年4月23日(日)礼拝説教 ルカの福音書24章36-49節 「イエスが与える平安」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>

 イースターから引き続いて、よみがえられたイエス様のことを学んでいます。先週はエマオという村に帰る弟子たちが、イエス様とお話して、最後にやっとイエス様だとわかったお話でしたね。今日は、その後のお話です。イエス様はイースターの日、まだまだ多くの人に会いに来てくださいましたよ。
 ここはエルサレムの弟子のおうちです。ユダヤ人たちが自分たちのことも襲撃してこないか心配で、堅く戸締りをして閉じこもっていました。そこには使徒たちと、エマオから大急ぎで戻ってきたクレオパたちがいます。「イエス様がペテロにも表れたってさ!」「本当によみがえられたんだね!」クレオパたちも「歩いているとイエス様が来て下さったんだよ」みんな興奮しています。

 すると誰かがすーっとみんなの真ん中に立ちました。なんと、イエス様ではありませんか!「平安があなたたちにあるように」とおっしゃいました。でも弟子たちは怯えてしまいました。「イエス様だ…イエス様の幽霊だ―!!」とぶるぶる震えて大騒ぎになってしまいました。今の今まで「イエス様がよみがえられた」と話しあっていた人たちなのに、信じ切れていなかったのでしょうか。
 イエス様は弟子の不安な気持ちを良く分かっていました。そこで叱ったりせずにこう言われました。「私の手と足を見なさい。」そこには十字架の傷跡が残っていますが手足がちゃんとありました。「幽霊なら肉や骨はないでしょう?さわってごらん。私にはあります」。まだ不思議がっている弟子たちにイエス様は言いました。「何か食べ物があったら持っていらっしゃい」。そこで焼き魚を差し上げると、イエス様は一切れ食べて見せました。難しいことを言われるよりも、そういう姿の方が分かりやすかったのですね。

 やっと安心した弟子たちにイエス様は言われました。「救い主キリストは十字架で苦しみを受け、三日目によみがえる、と聖書に書いてあったことが、みなその通りになりました。これが世界中に宣べ伝えられる、とも聖書に書いてあります」。弟子たちの顔をみながら更にイエス様は言われました。「あなたがたはここエルサレムから出発して、このことの証人となるのですよ。わたしが聖霊を送るまでは、エルサレムで待っていなさい。」

 イエス様が亡くなったと思って悲しみおびえていた弟子たちでしたが、復活されたイエス様に出会って喜びに満たされました。彼らにはイエス様が新しく下さった役目があります。それを可能にする聖霊の力も約束されました。イエス様の十字架と復活のメッセージを聞いて信じる人には、このイエス様からの平安と喜びが与えられます。イースターの日のうちに、イエス様はここまで深く弟子たちに伝えて下さいました。私たちにも、復活されたイエス様は語りかけようとしておられます。信じて平安と喜びを受けるように、と願っておられます。イエス様に心開いて、十字架と復活を信じ神様からの役目を受け取って行きましょう。

<祈り>
 「神様、イエス様がよみがえりをわかりやすく教えようとされたことを学びました。また救い主の十字架と復活を聖書のことばによって信じることの大切さ、それを伝える人にしていただけることも教えて下さりありがとうございます。十字架で死なれたキリストは3日目によみがえるという教えを信じます。十字架と復活のイエス様を信じます。私に平安と希望を与えて下さい。御名によってお祈りします。アーメン。」

「これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、『平安があなたがたにあるように』と言われた。」 ルカの福音書24章36節

<適用>

 唐突ですが、皆さんは今までどれくらい葬儀や人の死を体験してこられたでしょうか。私は牧師の家族ということで、多くの方の死や葬儀に関わらせて頂きました。しかし最も心に残るのは、幼い頃に体験した身内の死です。
 母方の祖父は、私がまだ小学校の低学年の頃病院で亡くなりましたが、実は2度臨終を経験しています。1度目の臨終はと言うと、病院で息を引き取った時、祖母が「お父さん、お父さん!」と大声で叫んだそうです。すると、「ふーっ」と息を吹き返して、その後退院できるまでに回復しました。孫の私にも、「あの時はみんなの様子を部屋の隅から見ていたんだよ」と話していたのを覚えています。やがてまた入院し、その後2度目に臨終を迎えた祖父は、もう目を開くことはありませんでした。


 1度目の出来事は、蘇生と呼ぶことが出来るでしょう。蘇生は医学的には起こりうることで、そのため48時間経過しないと火葬することができません。しかし私の祖父がそうであったように、いずれ誰もが本当の死を迎えます。その時が来ると蘇生はもう起きません。いのち有るものすべての理(ことわり)です。
 けれども聖書は、本当の死の後に肉体をもってよみがえった世界にただ一人の存在としてイエス・キリストを指し示します。これはいのちの理をくつがえす主張です。神の奇跡、大能の力が、新しい理を起こしたと言うのです。そしてこの復活はキリスト教信仰の核にある教えなのです。
 今日はイエスが復活にとまどう弟子たちをどのように取り扱って下さったかを、共に学びたいと思います。その理解の糸口は「イエスが下さる平安」です。

1.戸惑いに寄り添うイエス

 イースターの日の夕方、戸を堅く閉めて集まっていた弟子たちにイエスが現れて言われました。36節「平安があなたがたにあるように」。これはユダヤ人の挨拶である「シャローム」とおっしゃったのではないか、と考えられています。「平安あれ」という意味です。おはようもこんにちはもこんばんはも、みな「シャローム」です。でもここでは混乱し不安に満ちている弟子たちに、「平安があるように」と語り掛けられたのです。

 少し前の33,34節を見ると、そこにはエマオで主にお会いした者たちがいました。また詳細は記されていませんが、ペテロはほかの使徒たちより先にイエス様にお会いしたようです。こんなにも確かな証人がいるのに、しかも使徒たちの集まりなのに、彼らは「おびえて震えあがった」「幽霊だと思った」というのです。イエスの復活は、弟子たちにすら受け止めきれないものでした。ここに、復活というテーマを前にした私たちの現実の姿があるように思います。聞いても、見ても、目の前に復活のイエス様が来られたとしても、私たち人間には理解しつくせないのです。

 しかしイエス様は、彼らのとまどいに優しく寄り添ってくださいました。先ほど子どもたちと学んだ通りです。そこには、どんな者にも復活の信仰を与えたい主イエスの思いが示されています。「どうして心に疑いを抱くのですか?」とイエス様は今日語っておられます。戸惑う心、信じきれない心、揺れ動く心、そうしたありのままの自分を主の前に差し出しましょう。「信じきれません、でも信じたいのです。どうぞ導いて下さい。」そう祈りましょう。主はとまどう私たちに寄り添い、信じられるよう導いて下さるお方です。そこから平安を得ることを主は願っておられます。

2.聖書を指し示すイエス

 ご自分が生きておられると示された後、イエスは何をされたでしょうか。44節を見ると、彼らに聖書を指し示されたことがわかります。思えばルカ24章の記事では、いつも聖書が指し示されていました。からっぽの墓に現れたみ使いは、イエスがガリラヤであらかじめ言われたみことばを思い出せと言いました。エマオ途上でイエス様は、聖書全体を解き明かされました。そしてこの時もまた、弟子たちに聖書を解き明かされたのです。

 注目したいのは45節の「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」という部分です。主が私たちの心の目と耳を開いて下さって初めて、聖書を深く理解することが出来るようになるという大切な原則です。このことは「聖霊による照明」とも言われますが、ここではイエス様ご自身が心を開いて下さいました。
 Iコリント15:3~5にはこうあります。「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは聖書に書いてある通りに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから12弟子に現れたことです。」

 イエス様は、みことばによって彼らを平安と確信へと導こうとされました。私たちもまた、みことばを繰り返し学ぶことが大切です。何度も聞いているから、良く知っているからと言って、おろそかにしてはならないのです。主に心開いて頂いて受け取るみことばこそが、私たちに平安と確信を与えるのです。

3.証人を任命するイエス

 イエスは最後にこの復活の証人として弟子たちを任命なさいました。47節後半からは「エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」と言われました。彼らがあらゆる国に宣べ伝えて行くことは、これもまた聖書に預言されている、とおっしゃいました。
 こう言われた弟子たちは、恐らくそれまでと顔色が違ったことでしょう。なにしろイエス様によって心の目と耳が開かれたのです。先ほどまでの、震えあがって「幽霊が出た」と情けないことを言っていた彼らではないからです。

しかしイエスは、焦ってことをさせようとはなさいません。49節の「わたしの父が約束されたもの」とは、聖霊のことです。聖霊の降臨まではまだ証言を始めなくて良い、というのです。これはとても大切な真理です。伝道、宣教、証のわざは、人間的な熱心や人の努力のみで成し遂げられるものではありません。聖霊の爆発的な力(ダイナマイトの語源、デュナミス)に動かされるのでなければ、とてもなしえない働きなのです。
 彼らはペンテコステの聖霊降臨のあと大きく変えられ、命がけでイエスの十字架と復活を宣べ伝えて行きました。主が言われた通りです。彼らは何故そうしたのでしょうか?もちろん主の十字架と復活を真実に理解するようになったからです。それだけではなく、このイエスによらなければ、誰一人として罪赦されることも、神の裁きと滅びをまぬかれることも出来ないと理解するようになったからです。

 J.I.パッカーというイギリスの著名な牧師がいますが、彼は終末論に関する論文の中で、大変重い提言をしています。それは、福音派における神の裁きの理解についてです。すなわち、永遠の滅びとは厳しすぎる裁きである。愛の神は罪人にそのような残酷な裁きを給うはずがなく、悔い改めなかった魂の裁きは、瞬間的に終わる、という考え方です。これも高名な福音派の牧師であるジョン・ストットなどはこうした説をとっているようです。パッカーはこうした考えに対し、神の裁きに人が評価を加えるのは間違っている、と言っています。滅びゆく魂を憂えるのであれば、神の裁きについての教えを曲げるのでなく、むしろ伝道すべきである。それこそが滅びゆく魂に対する憂いを除く道であり、我々が平安を持つ道だ、と言っています。

 イエスの十字架と復活の証人となる、というのは聖霊の力を頂いてさせて頂くとき、私たち自身の平安ともなる道です。皆さん、イエス様によって救いに与ってほしい人は誰でしょうか?あの人、この人、と顔が浮かぶことでしょう。自分自身がその人のために、キリストの証人となれるように、聖霊を満たして下さい、遣わして下さい、と祈って参りましょう。主はそれをよしとなさり、約束通りに私たちを用いて下さいます。

<祈り>
 「神様、復活のイエス様が信じきれない者に寄り添って下さり、平安と確信を与えようとしていて下さることを感謝いたします。聖書のみことばをたゆまず学ぶことの大切さを示されました。私たちの心の目を開き、聖書に秘められた恵みのみ教えを更に深く理解させてください。そしてイエス様の約束通り、聖霊により十字架と復活を証する者として下さい。大切な人たちのために、イエス様の御救いを届けることが出来ますように。御名によってお祈りします。アーメン。」