2023年6月25日(日)礼拝説教 創世記11章1-9節 「神 中心の生き方」 説教者:赤松勇二師、CS説教:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 先週まで、ノアのお話を学んできました。大洪水のあと、神様はノアたちに「子どもをたくさん産んで、世界中に増え拡がりなさい。」とおっしゃいました。そこから人々はどんどん増えて行きました。神様は世界中にひろがれ、と言われましたが、人々は平らで住みやすそうな場所を見つけて、そこに住み着いていました。

 これを見て下さい。この人たちは何か手にしていますね。「見てくれよ、いい具合にレンガが焼けたぞ」「おう、ほんとだ。これで天に届くような高い建物を作ろう。」「俺たちを攻撃して来るものがないように、力を示さなきゃ!この平らな場所にずっと住み続けたいしね。」人々はそう言って高い建物を作り始めました。神様のお考えとは違う方向に進んでいたのです。
 人々はレンガをせっせと運び、積み上げて行きました。塔はどんどん高くなっていきました。「すごい塔が出来て来たぞ」「気分がいいなあ。まるで神様になったみたいだ」とそんなことを言い出しました。「神様なんて頼らなくても、俺たちは何でもできるのさ」と思い始めていたのです。

 それをご覧になっていたのが神様です。神様は人が建てた塔を見に降りてこられました。あれれ?天に届くような高さのはずでしたね?でも神様からすれば、降りて来なければならないほど低いものでした。神様は言われました。「彼らは同じ言葉であるのをいいことに、私に逆らって高ぶっている。放っておけばもっと悪いことをするに違いない。彼らのことばを混乱させて、話が通じないようにしよう。」
 さてそんなこととは知らずに、人々は今日も工事に集まってきました。「おーい、そこのレンガを取ってくれよ」「〇×、‘%’?$!」「え?なんて言ってるんだい?分からないよ!」お互いのことばが全く通じないので、大混乱になりました。これでは力を合わせて働くことは出来ません。「これじゃ仕事にならないよ」「塔を建てるのはもうやめよう」。人々は結局、それぞれ別の場所に引っ越していきました。それでこの町は「混乱」という意味の「バベル」と呼ばれました。この塔は有名な「バベルの塔」です。

 みなさん、塔を建てようとした人たちは何が間違っていたのでしょうか?一つは神様のお考え(=世界中に広がる)を無視して自分たちの考え(=平らなところに住み続ける)を優先したことです。もう一つは「神様を頼る必要はない、自分の力で何でもできる」と高慢になったことです。今日のみことばを読みましょう。私たちも神様を忘れて、自分の知恵や力に頼り、高ぶってしまうことがないでしょうか。勉強、スポーツ、特技、何かで物事がうまく進むと、思い上がってしまうことがあるのが私たちです。神様の前に謙遜になって、支えと恵みを下さる神様と周囲の人たちに感謝の心を忘れないようにしたいと思います。そして神様からいただいている力や知恵を、自分のためだけに使うのでなく、神様と他の人のために使うようにしていきましょう。そのことが自分にも周りにも祝福と喜びをもたらすことを、今日のお話は教えてくれているのです。

<祈り>
「神様、バベルの塔の話を通して、高ぶりへの警告を学びました。いつでも神様の前にへりくだることの大切さを教えられました。混乱につながる高ぶった生き方でなく、祝福と喜びを頂ける謙遜な生き方をして行けますように、整えて下さい。御名によってお祈りします。アーメン。」

「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる。」
                              ペテロの手紙第一 5章5節

<適用>
 日本で一番高い建物は、電波塔としての役目を持つ「東京スカイツリー」で634mあります。日本の地下鉄で一番深い所にある駅は、都営地下鉄大江戸線の六本木駅だそうで、42.3mの深さのようです。建物は、どんどん高くなり、電車は地下に拡がり深くなっていきます。
 世界に目を向けると東京スカイツリーよりも高い建物があります。人は、高い建物を作りたがるし、高い山に引きつけられるものです。高い所に立つというのは、達成感と共に何か人の気持ちを高揚させるものがあるのではないでしょうか。また、高層ビルというのは、繁栄の象徴だったり、経済、権威の象徴だったりします。頂上、頂点を目指すというのは、旧約聖書の時代も現代も変わらない人間の思いなのでしょうか。
 その人間の思いの中に「創造主なる神」を認めるのか認めないのかでその生き方は大きく変わっていきます。

Ⅰ;神 中心ではない生き方

 まず、神 中心ではない生き方とはどのようなものかを見ることにしましょう。
 神 中心でない生き方は、人が「神のようになる」という方向に向かっていきます。ノアの洪水の後、人類はまた増え拡がり多くの民族が誕生することとなりました。その一覧が創世記10章に記されてあります。このように人々が増え広がったのは、「生めよ、増えよ、地に満ちよ(創世記9:1)」という神様の祝福の結果です。しかし人類は、この神様の祝福の約束を忘れてしまいます。その時は、一つの言葉しかなく皆が共通の言葉を使用していました。人々は、シンアルの地に平地を見つけ定住することとなりました。そしてそこに一つの町をつくり、「頂が天に届くような塔を建てよう」と話し合います。町を建てること自体は間違っていないと思います。生活の基盤を持つことも間違っていないと思います。しかし、そのすべての動機が間違っていたのです。彼らの動機は、「散らされるといけない」ということと「名を上げる」という事でした。「散らされるといけない」という事は結果的に「地に満ちよ」という神様の命令に反する状態となってしまいます。そして「名を上げる」というのは「名声を得る」という意味があり、ある聖書翻訳では「有名になろう」と訳しています。と言うことは、人々は、神様を求めるのではなく、神様の栄光を現わそうということもでもなく、自分たちの力を示したい、人に注目されたいという動機があったと言うことです。

 そして「頂きが天に届く塔を」という表現の中には、神にまで届き、神のような力と支配力を持とうという人間の思い上がりがあるのではないでしょうか。この「神のようになる」という思いは、悪魔がエバを誘惑した時に用いた言葉です。悪魔は、園の中央の実を指して「それを食べるそのとき、目が開かれ、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです(創世記3:5)」と誘惑しました。「自分が神のようになれる」と思った瞬間から、人は、神 中心で生きることを止めてしまい、罪を犯し堕落する事となってしまいました。今でも悪魔は、「あなたは何でも出来る、神なしでも大丈夫」と誘惑しています。気をつけなければなりません。

 そのように「神のようになれる」という思い上がりに陥ると、次には「自分中心」で考えることとなります。神中心でない生き方は、自分中心の生き方となり、高慢へと至らせます。天まで届く塔を建てようと考えた人類は、どうだったのでしょうか。実は、彼らは、新しい技術を習得していました。それは、レンガを作って瀝青(アスファルト)を用いて、より丈夫な建築方法を手に入れたのです。これは、とても大きな技術革新となったことでしょう。しかしこの技術革新が、人々を「自分たちは何でも出来る」という高慢な道、神を無視し、自分の思いを中心に考え行動する道に進ませることとなったのです。

 いつの時代でも技術が発達すると人は、それを用いて大きな建物、高い塔を作ったり、戦いの道具にしようとします。それは、その技術を通して自分たちの実力や能力を見せびらかすためです。私たちの歴史は、そのことの繰り返しではないでしょうか。そのような人類の心の底には、私たちが神様に守られていることを忘れ、神様が私たちに命を与え生かしておられることを認めないという神様への反逆があるのです。

 私たちは、最先端技術ではなくても、新しい知識を得ること、新しい技術を習得することがあります。また私たちは、生きていくために必要な様々な知恵を習得しながら生きていきます。今までも私たちは、そのように学びながら生きてきたはずです。私たちは、何かを習得し、多くの知識を学ぶことが出来た時こそ注意が必要です。その時こそ、私たちの心は高慢になりやすく、自己中心に陥りやすいからです。ですから私たちは、神様を心の中心にして、学び、考え、生きることが大切です。私たちは、神様の祝福と恵みを忘れて思い上がることがないようにしましょう。

Ⅱ;神を中心とした生き方

 神様を中心にしない生き方は、「自分が神のようになれる」という思い上がりと「自己中心」という間違った方向に向かわせました。では、神様を中心にした生き方は、どのような方向に進み、そこには何があるのでしょうか。
 神様を中心とした生き方は、「神に似せて造られた」という姿を取り戻す事となります。神様は、「人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう(創世記1:26)」と言われました。元々人は、神に似せて、神のかたちとして造られているのです。人は、神に形造られ、その鼻にいのちの息を吹き込まれて生きる者となりました(創世記2:7)。神に似せて造られていると言うのは、人は、神様と交わり、神様の祝福と恵みを受けて喜び生きることが出来ると言うことなのです。

しかし人は、罪を犯し神様から離れ、神様との交わりを楽しみ、神様の祝福を喜ぶのではなく、神様を無視し、神様との交わりを捨て、自分たちの力で生きる道を選ぶようになりました。バベルの塔を建てた時も人々は、自分たちの町を建て、自分たちの力を誇示し、自分たちの欲望を満たそうと考えていたのです。そこには、神様との交わりを求める姿はありません。その結果、彼らは、言葉が混乱し、散らされることとなってしまったのです。
 私たちは、神様を中心とした生き方を追い求めましょう。なぜなら私たちは、神様と交わりを持つ存在として造られ、愛されているからです。罪によって失われてしまった神様との関係が、イエス様の十字架のみわざによって回復しています。私たちは、イエス様の救いを受けて、神様と交わり、神様の祝福の中を歩むことが出来るのです。

 神様を中心とした生き方のもう一つの面は、「平安」が与えられる約束があるということです。天まで届く塔を建てようとした人類は、団結と安定を求めました。しかし神様は、彼らの言葉を混乱させ、散らされました。人々は、「自由を手に入れた。自分たちは何でも出来る。自分たちには力がある」と思ったのです。しかしそこには不自由と不安がつきまとうこととなりました。

 私は、高校卒業後、浪人生となり予備校に通うことになりました。その時家から通う予備校ではなく、家を離れて東京の予備校に通いました。私は、高校を卒業したら実家を離れると決めていたし、新聞配達をしながら予備校やその後の学校に通うためにも家を離れる必要があったのです。家を離れた私が思ったことは、「やっと自由になれた」でした。一人暮らしですから、門限はありませんし、何を食べても良いし、自分の好きなように生活することが出来ます。私は、最初、「何でも自由だ!!」と考えていました。しかし一人暮らしを初めてしばらく経った時、自由にできると思っていた事柄が自分を縛り、不自由にしていることに気がつきました。門限はないけれども生活リズムは崩れました。好きなものを食べていましたが、栄養面を全く考えていないので、風邪を引きやすい身体になりました。私は、自分の好きなようにやっていたはずなのですが、それでは生活が成り立たないことが分かったのです。そしてそのような生活は、私の心を弱らせ、神様への信仰も揺らぎ、私は不安と恐れで心が支配されることとなりました。私は、これではいけないと思い、神様に悔い改め、助けを求めて祈り、信仰を回復することが出来ました。

 神様は、言われます。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─【主】のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)」
 永遠に生きておられる神様は、この世界を創造し、私たちを愛し導くお方です。この神様は、私たち一人ひとりのために計画を持っておられます。それは、わざわいではありません。平安を与える計画であり、将来と希望を与えるものなのです。これは私たちが、神様を無視している限り見いだせないものです。私たちが心を神様に向け、神様中心にして生きていこう、神様に導いていただこうと決めた時、神様はこの御言葉の真理を私たちに教えて下さいます。

 イエス様も言われました。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(ヨハネ14:27)」イエス様は、イエス様ご自身が持っている平安を私たちに与えて下さいます。それは、世が与えるのと同じではないと言われます。イエス様が与えて下さる平安は、イエス様ご自身が、父なる神様と持っている豊かな愛に満ちた交わりという平安であり、神様から与えられる喜びに溢れた平安です。

 あなたは、この平安を持っているでしょうか。神様は、私たちに不安ではなく平安を与えて下さいます。神様は、罪からくる不自由さではなく、イエス様の十字架による救いという罪からの解放を与えて下さいます。
 私たちは、自分中心ではなく、神中心の生き方をしましょう。その時こそ、私たちは、神様に似せて造られたという神様の恵みを回復し、神様からの平安を頂いて進むことが出来ます。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、神様を知らず、自己中心に歩んで来ました。けれども今イエス様の十字架の恵みによって罪赦され、神様を心にお迎えして歩む人生へと導かれていることを信じます。神様、私たちの人生を導いてください。
 神様と交わりを持ち、神様からの愛と恵みに溢れた平安で私たちの心を満たしてください。私たちは、心高ぶることなく、主を信じ、従って歩みます。神様の御手によって支えてください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」