2023年7月2日(日)礼拝説教 ルカの福音書2章41-52節 「心に神の愛と慈しみを」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 テレビでは時々「初めてのおつかい」という番組が放送されます。皆は、初めて自分一人で何かをした時の事を覚えていますか。親は、子どもが初めて何かをすると本当にびっくりするし、喜びますね。時には、その初めてのことが予想外のことで不安になったり心配したりします。僕は、僕が小学1年生の時のことを覚えています。ある日、家にいるはずの末の弟がいないのです。弟は、一人で歩けるようになった時でした。兄弟皆で家の中、家の周りを探し回りましたが、いません。その時は教会に住んでいて、教会の前には50m程の通路があります。その通路を出ると車の多い国道がありました。まさかと思ってその通路を走って道路に出たら、なんと道路の反対側に弟がいるのです。近くには信号もありますが、どうやって道路を渡ったのか本人も覚えていないでしょうから今でも謎のままです。弟が見つかった瞬間、大声で「いたよ!!」と叫んで皆に知らせ、弟には「動いちゃ駄目だからね」とやはり大声で声をかけました。

 今日のお話は、イエス様が家族とエルサレム神殿に行った時、イエス様が一人で神殿に残った時の話です。イエス様がお生まれになったのは、どこだったでしょうか?覚えていますか?
「ベツレヘム」ですね。ヨセフとマリアは、イエス様を連れて一度ベツレヘムからエジプトに移動します(マタイ2:13~23)。そしてその後、イエス様は家族でナザレという町に住むことになりました。さて、イエス様が12歳の時ことです。イエス様は、両親とともにエルサレムに巡礼に行きました。ヨセフとマリアは、ユダヤ人として年に一度の「過越の祭り」を大切にしてエルサレム神殿に巡礼することにしていました。過越の祭りは、イスラエルの民がモーセに導かれてエジプトを脱出した時のことを記念して、神様を礼拝する大切な祭りでした。

「さあ、過越の祭が始まる、皆でエルサレム神殿に行って神様を礼拝しよう。」ヨセフとマリアは、子どもたちを連れて巡礼に行きます。「やった。巡礼だ」「やった。皆で旅行に行ける」と喜び方は色々あったのではないでしょうか。イエス様が12歳になった時は、特別な時だったと思います。ユダヤ人の男子は、13歳で成人し大人の仲間入りをします。イエス様が12歳の時のエルサレムへの巡礼は、大人になる準備という意味があったと思います。「イエス、おまえは1年後には成人する。今年の巡礼では色々勉強するのだよ。」お父さんのヨセフは、イエス様に声をかけたでしょうね。

 皆は、こうして毎週礼拝に来ていますね。家から教会までどれくらいの距離でしょうか。移動手段は、車かな?自転車かな?ナザレからエルサレムまでの距離は直線距離で約100㎞あります。その移動手段は、歩きだったでしょうから、相当時間がかかったと思います。そしてこの巡礼は、町中の人たちが出かけますので、大人数となります。こうしてイエス様たちは、エルサレム神殿での礼拝を終えて、来た時と同じように大人数で帰ります。イエス様の時代は、子どものグループ、大人の女性のグループ、大人の男性のグループと分かれて移動したのだそうです。皆も友だちと一緒に移動すると楽しいから、自然と子どもたちのグループが出来るでしょう。だからヨセフとマリアは、イエス様が、子どもたちのグループにいると思っていのです。一日の道のりを終えて、子どもたちの中を確認するとイエス様が見当たりません。「イエス-! イエス-!」いくら呼んでも返事がありません。ヨセフとマリアは、慌ててイエス様を探しながら、エルサレムに戻ります。3日目にようやく見つけ出すことが出来ました。その三日間ヨセフもマリアも眠れなかったでしょうし、「もっと自分たちが出発前に確認しておけば」と思ったでしょうね。

 イエス様は、この三日間どこにいたでしょうか。迷子になって困っていたでしょうか。そうではなく、イエス様は、エルサレムの神殿にいて、ユダヤ教の教師たちといろいろ話をしていたのです。マリアは、「イエス、どうしてこんなことをしたのです。お父さんもお母さんも心配して捜し回ったのですよ。」と注意しました。これに対してイエス様は、「どうして捜し回ったりしたのですか。僕がお父さんの家にいるのは当然ですよ。」と答えました。イエス様は、両親を困らせるためにこんなことをしたのではありません。イエス様は、神の御子という自覚を持っていて、神の御子イエス様としては、神殿にいて父なる神様を礼拝することは当然ことだったのです。この後、イエス様はナザレに帰り両親に従って成長しました。

 さて、今日は、二つのことを心に留めましょう。イエス様は、神様を愛し、礼拝することを大切にしました。僕たちもイエス様のように神様を愛し、心から礼拝することを大切にしましょう。そしてイエス様は、両親に従い、神と人に愛されて成長されました。僕たちも両親に従い、そして神様と人に愛され、神様を愛し、人を愛することが出来るように祈りましょう。そのためには、聖書を読み、御言葉から教えて頂きましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が神様を礼拝することを大切にしたように、僕たちも神様を礼拝することを大切にすることが出来るように助けてください。イエス様が両親に従い、神と人とに愛され、神と人を愛していたように、僕たちも両親に従い、神と人に愛され、神と人を愛する心を持つことが出来るように導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。」               ルカの福音書2章52節

<適用>
 皆さんは、自分の生涯について書くとしたら、どこから書きますか。幼少期で記憶に残っている事柄から書くでしょうか。何に焦点をあてて書くかで違うでしょうが、私が書くとしたら、保育園や小学生の時の思い出を少しくらい入れて中高生時代から書くでしょうか。ルカは、イエス様の誕生と12歳の時のエピソードを書きました。これは、母マリアが心に留めていた大切な事柄でした。今日は、イエス様が12歳の時の出来事を見ていますが、この短い出来事の中にどれほどイエス様が神の愛と慈しみを受けておられ、その愛と慈しみを表現しておられるのかを知ることが出来ます。

Ⅰ;神の愛を知る

 私たちは、心に神の愛と慈しみをもって歩みましょう。そのためにまず、私たちは神様の愛を知る必要があります。
 今週の聖句のルカ2章52節の御言葉は、「イエスはますます知恵が進み、背たけの大きくなり、神と人とに愛された。」と訳されていました。しかし新改訳2017では「イエスは神と人とにいつくしまれ、・・・」と訳しています。「愛された」、「いつくしまれ」と訳された言葉は、ギリシャ語の「カリス」が使われていて、「恵み、寵愛、恩恵、優しさ」などという意味があります。同じ言葉が、ルカ2章40節の「幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった。」の「神の恵み」にも使われています。御子イエス様には、父なる神様の愛と恵みが注がれ続けていたと言うことです。そしてイエス様も、神様の愛を感じ感謝しておられたのです。その現れがルカ2章49節のイエス様の言葉です。イエス様は、必死になって捜し回り、やっと神殿で見つけた両親に「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」と答えられました。これは、イエス様が両親を困らせようとしていたと言うことではなく、生意気な態度と言うことでもありません。この言葉は、イエス様のこの言葉はご自分が神の御子であると表明した最初の言葉となりました。

 イエス様は、人々へのメッセージの中で「わたしがいのちのパンです(ヨハネ6:35)」とか「わたしは良い牧者です(ヨハネ11:14)」と自己紹介しています。ヨハネは、その他にもイエス様の自己紹介を記しています。しかしルカは、イエス様が12歳の時にご自分が神の御子であることを公に語っていたことを知ったのです。ルカ2章49節の「わたしの父の家」という表現は、ヨセフのことではなく、天地を造られた創造主なる神、父なる神様のことです。そしてこの言葉は、イエス様がすでに神の御子キリストとしての自覚を持っておられたという証拠となります。

 これがなぜ大切かというと、イエス様が神であり人であるという事にもつながって行くからです。飛躍しすぎと思うかもしれませんが、そうでもないのです。神のひとり子イエス様が、赤ちゃんとしてお生まれになり、この地上の生涯を生きて下さったと言うことは、私たちにとって非常に大切なことです。神の子ですから、当然罪がありません。私たち人間は、どれだけ注意して生きていても神様に対して罪を犯してしまいます。なぜなら、私たちは、神様の求めておられる完全さなど持ち合わせていなからです。けれどもイエス様は、私たちとは違います。イエス様は、神であるので罪がありませんし、父なる神様の求めている完全さを持ち、完全に聖い生き方をしておられるのです。罪人の身代わりになれるのは、罪がなく裁かれる必要のない人です。イエス様は、完全に聖い、罪のない人として地上の歩みをされました。罪のないイエス様だからこそ、私たち罪人の身代わりとなれるのです。「自分の父の家」というイエス様の表現は、まさにイエス様が神の御子であり救い主であることを示しているのです。そしてイエス様を通して、私たちに対する神様の愛が現わされているのです。

 ヨハネの手紙第一4章10節には「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子と遣わされました。ここに愛があるのです。」と教えられています。と言うことは、私たちは、神様が御子イエス様をこの地に遣わしてくださり、身代わりにしてくださるほど、愛されていると言うことなのです。その神様の愛は、何も変えられない恵みであり、恩恵であり、恩寵です。
 私たちは、神様に愛されている者として、心に神様の愛と慈しみをもって歩みましょう。

Ⅱ;神の愛を実践しよう

 私たちは、心に神の愛と慈しみを持って歩みましょう。そのためにまず、神様に愛されている事実を見ました。私たちは、神様に愛されていることを知ったなら、それを実践しましょう。その実践こそ神様を礼拝することであり、両親(人)に仕えることです。
 イエス様は、父なる神様を礼拝する事を大切にしていました。ルカ2章49節の「わたしが自分の父の家にいるのは当然である」というイエス様の言葉は、「わたしの父の務めに専念している」というような意味があります。イエス様は、自分がいるべき場所、とどまるべき場所を理解していました。イエス様は、何を優先すべきで、どこに平安があるのかも知っていました。そしてイエス様は、父なる神様を礼拝する事、御言葉を学ぶこと、神様の喜ばれることを第一とすることが当然と考えていました。それを具体的に体験し、現わしているのが神殿にいることだったのです。だから「父の家(神殿)にいることは当然」という訳し方になるのです。

 でもヨセフとマリアは、もうすでに礼拝は終わっているし、過越の祭も終わったから、イエス様が神殿にいるとは考えもしなかったのでしょう。これは、私たちの礼拝の姿勢にチャレンジを与える事ではないでしょうか。イエス様は、神様を礼拝する事、神様の喜ばれる事をするのは当然のことと理解していました。だからイエス様は、いつでも神様を礼拝していたのです。私たちは、主を礼拝することを単なる義務として受け止めているでしょうか。それとも、礼拝は、私たちが喜んで心から献げるべき当然のことと受け止めているでしょうか。これは大きな違いを生み出します。私たちが、心から喜んで神様を礼拝するならば、私たちの心に神様の愛が増し加わり、私たちから神様への信仰の応答、愛の応答となって祝福が広がって行きます。

 もう一つの愛の実践は、両親に仕えると言うことです。イエス様は、神殿で御言葉を学び、神様を礼拝する事を当然のことと言いました。そして、そのままエルサレムに居続けたかというとそうではありません。イエス様は、両親と共にナザレに帰っていくのです。そしてイエス様は、両親に仕え、人に仕えたのです。ルカ2章52節では、心身共にイエス様が成長されたことが記されてありますが、「神と人とにいつくしまれた」とありますので、そこには神様の愛の拡がりがあるように思います。
 イエス様は、父なる神様を愛し仕えました。父なる神様も御子イエス様を愛し、祝福を注ぎます。またイエス様は、両親に仕え、それだけではなく、人にも仕えていました。だから人にも愛され、いつくしまれたのです。この「いつくしみ」と言う言葉は、先ほど言いましたように、ギリシャ語の「カリス」が使われています。これには、「好意」とか「感謝」という意味もあります。ですから、人々から「いつくしまれた」と言うのは、人々がイエス様に対して好意を持ち感謝し、慈愛を示したということです。これは、イエス様がそのように生きておられ、神様の愛を実践しておられたということです。もっと分かりやすく言い換えると、イエス様は、人々をとっても素晴らしく大切な存在として見ていてくださると言うことです。私たちはイエス様にとって大切で尊い存在なのです。

 先ほどヨハネの手紙第一4章10節の御言葉を見ましたが、それに続く11節には「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」と教えられています。私たちは、主なる神様がひとり子イエス様をささげてくださるほどに愛されています。イエス様は、私たちの身代わりにご自身を犠牲にして下さるほどに私たちを愛して下さっています。ヨハネは、そのように愛され恵みを頂いている私たちは、神様の愛を感謝し、神様の愛で互いに愛し合うことが大切だと教えます。それこそが、イエス様の生き方でした。

 私たちは、家族関係、友だち関係、教会、会社、地域など多くの人間関係の中で生きています。そこには、「神様の愛」による交わりがあるでしょうか。いえ、私たちは、神様の愛によって愛し合うという生き方を率先して示しているでしょうか。人がしているかどうかに関係なく、私は神様に愛されているから、神様の愛に生き、それを実践しようという積極的な姿を示すことが出来ているでしょうか。
 私たちは、神様に愛されています。神様に大切にされています。私たちは、神様の愛を心に持ち、互いに愛し合い、仕え合いながら、神様の愛を実践していきましょう。そのように私たちは、「心に神の愛といつくしみを」持って一日、一日を過ごしていきましょう。あなたを通して神様の愛といつくしみが拡がり、祝福が増え広がって行くことを願います。

<祈り> 
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様、私たちが心に神様の愛と慈しみをもって歩むことが出来るように助けて下さい。そのために、私たちが神様に愛されていること、恵みを頂き、祝福を頂いていることをさらに教えて下さい。御子イエス様がご自身を犠牲にいて救いを与えて下さるほどに愛されているその愛に気づき、感謝に満たしてください。
 また、私たちが神様の愛を実践することが出来るように導いてください。私たちが心から神様を礼拝し、喜んで主に仕え、人々に仕えることが出来るようにお守り下さい。
 神様、私たちの心に神様の愛と慈しみを増し加えてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」