2023年7月9日(日)礼拝説教 マタイの福音書3章1-17節 「神の御霊が鳩のように」 説教者:赤松勇二師、CS説教:赤松由里子師

<子どもたちへ>赤松由里子師
 先週から、神の子イエス様の生涯を学び始めました。先週のイエス様は12歳の少年でしたね。今日は30歳になられた時のお話です。いよいよ教えと活動を開始していくという時にイエス様がなさったことを学びます。何だと思いますか?それは、バプテスマ、すなわち洗礼です。

 見て下さい、この人何か叫んでいます。「悔い改めなさい!神様の御国が近づいています。」この人はバプテスマのヨハネです。昔の預言者のように、ラクダの毛皮を着ています。この人の誕生についてのお話は、みんなも知っているはずです。クリスマスのお話の中で、祭司ザカリアとエリサベツ夫妻に天使が現れて赤ちゃんが与えられたお話を覚えていますか?あの時の赤ちゃんが、このバプテスマのヨハネなのです。そしてヨハネはイエス様の親戚でもありました。
 ヨハネは言いました。「神様に背を向けていてはいけません。神様に罪のお詫びをして、その印としてバプテスマを受けなさい!」バプテスマとは今でいう洗礼のことです。ヨハネの教えを聞いて、人々はヨルダン川に集まって来ました。そして「神様にお詫びしたいです。罪を捨てる決心をしました。」と言って、ヨハネから洗礼を受けたのです。

 ある日、そこにイエス様が来られました。親戚ですし、自分の誕生やイエス様の誕生にかかわる話も良く聞いていたヨハネです。イエス様が「バプテスマを受けさせて欲しい」というのを聞いて、びっくりしてしまいました。「どうしてあなたが私からバプテスマを受けるのですか。私の方こそあなたからバプテスマを受ける必要がありますのに。」ヨハネにはイエス様が罪のないお方だとわかっていたのですね。
 ところがイエス様は言われました。「今はそうさせてもらいたい。正しいことをすべて実現するのが私たちにはふさわしいのです。」それでヨハネはイエス様と一緒にヨルダン川におりていき、イエス様にバプテスマを授けました。

 皆さん、イエス様は罪のないお方ですから、本当は悔い改めのしるしとしてのバプテスマを受ける必要はありませんでした。でもイエス様は、罪人の身代わりになるために来て下さった救い主です。私たち罪がある者と同じ立場にたつために、自分からバプテスマをお受けになりました。進んで私たちのお手本になって下さったのですね。
 イエス様が水から上がってこられると、天が開いて聖霊が鳩のようにイエス様の上に下ってこられました。そして天から神様の声が聞こえました。今日のみことばを一緒によみましょう。「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。」神様から喜ばれ愛されている神の子イエス様が、罪人と同じようにバプテスマをお受けになりました。イエス様を救い主とする、という神様のお考えに従われたのですね。
 皆さん、イエス様は私たちを良く分かっていて下さり、ご自分を信じてあなたや私が神の子とされることを願っておられます。私たちもイエス様を救い主と信じ、罪から離れる決心をしましょう。そしてイエス様がお手本を示して下さったように、バプテスマを受けていきましょう。それは神様が何よりも喜ばれることなのです。

<祈り>
 「神様、今日はイエス様がバプテスマを受けられたことを学びました。私たちと同じ立場に立って下さり、罪ある私たちを招いて下さることを感謝します。この招きに応えて、私たちも罪から離れて生きていきたいと願います。この思いを受け入れて下さい。またバプテスマを考えている人が、平安をもって受けて行けますよう、私たちの大切な仲間に祝福をお与え下さい。御名によってお祈りします。アーメン。」

「そして、見よ、天から声があり、こう告げた。『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。』」              マタイの福音書3章17節

<適用>赤松勇二師
 私が小学生の時、とても足の速い上級生がいました。その人は、大きい体を上下に振るようにして走っていました。しかもその走り方を表現すると、「タッ、タッ、タッ・・・」ではなく、「タタッ、タタッ、タタッ・・・」という走り方になります。周りからは、「まるで馬のように走っている」と言われていました。走り方は無駄な動きが多いように思うのですが、誰よりも早く走っていました。
 私たちは、忙しく働く人を見て「馬車馬のように働く」とか行動がきっちりしている人を見ると「時計のように正確だ」などと「まるで○○のようだ」と言う表現で物事や人の行動などを表現することがあります。聖書は、御霊が鳩のようにイエス様の上に降ってこられたと説明します。これは、御霊が鳩のように飛んできたというのではなく、そのように見えたということでしょう。ご一緒にイエス様がバプテスマをお受けになった時の事を通して主の御言葉に耳を傾けましょう。

Ⅰ;神の子イエス・キリスト

 神の御霊が鳩のようにイエス様の上に降って来られました。それは、イエス様が神の子、キリスト、救い主であるという父なる神様の宣言となりました。
 聖書は、イエス様の12歳の時のエピソードが書かれています(ルカ2章)が、イエス様が公生涯を始められた30歳くらいまでのことは私たちには隠されています。しかしイエス様は、救い主としての公の働きを始める時を待っておられたのは間違いのないことです。いよいよイエス様が、公生涯を始める時がやって来ました。バプテスマのヨハネは、ヨルダン川で宣教を開始し、人々に悔い改めのバプテスマを授けてその道備えをしていました。イエス様が公生涯の初めにするべき大切なことは、ヨハネからバプテスマを受けることでした。ヨハネは、イエス様を見て、自分こそあなたからバプテスマを受けなければならないと断りました。バプテスマのヨハネは、悔い改めのバプテスマを授けていましたから、彼は人々が色々聞き出していたと思います。そのようにイエス様と話をしたヨハネは、イエス様には悔い改めるべき罪がないと知ったのです。

 けれどもイエス様は、ご自分がバプテスマを受けることは、正しいことであり、神様の御心であると告げます。人類の救いのために、神様の御心を行うことは、イエス様にとってもヨハネにとっても大切でふさわしいことだったのです。イエス様が、ヨハネからバプテスマをお受けになったのは、イエス様が罪人と同じようになられたということを意味しています。イエス様は、罪のない人生を送りましたが、私たちはそうではありません。私たちは、神様に対して罪があり、神様の御前に悔い改める必要のある者です。イエス様は、バプテスマを受けることによって罪人の立場に立たれ、私たちの罪を身代わりに負って行く道を進まれたのです。
 イエス様がヨハネからバプテスマを受けられたのは、私たちに模範を示すためであったという事も出来るでしょう。今私たちが受けるバプテスマ(洗礼)は、悔い改めのためではなく、イエス様を救い主と信じる信仰告白としての洗礼です。私たちは、多くの人がイエス様の救いを信じて、洗礼を受けることが出来るように祈り、教会の働きが広がっていくように祈りましょう。

 話を戻します。イエス様がヨハネからバプテスマをお受けになったその時、天が開けて神の御霊が鳩のように降ってこられました。そして「これは、わたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と神様の声が響きます。これは、詩篇2篇7節とイザヤ書42章1節からの言葉と理解できます。詩篇2篇7節には「あなたはわたしの子。わたしが今日 あなたを生んだ。」とあります。詩篇2篇は、救い主が王として来られることが預言されています。その預言の通りにイエス様は、神の子キリストとして地上に来られたのです。イザヤ書42章1節には「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。」とあります。イザヤは、救い主キリストについて、神様ご自身が喜び、支えるのだと言います。その通りに、イエス様は神の子として神様に喜ばれ、神の霊に満たされていました。
 イエス様がバプテスマを受けた時、天が開けて御霊が鳩のように降って来られ、天から声がしたのは、父なる神様がイエス様こそ、約束された救い主であり、人となった神の子である宣言なさったということです。イエス様こそ、私たちの罪の解決のためにこの世に来られた救い主キリストです。バプテスマのヨハネは、その事をいち早く知り、人々に証ししました。

Ⅱ;キリストを証ししよう(ヨハネ1:29‐34)

 神の御霊が鳩のようにイエス様に降って来られました。それを見たバプテスマのヨハネは、イエス様こそ「世の罪を取り除く神の子羊」であると証言しました。
 バプテスマのヨハネは、イザヤが預言した「荒野で叫ぶ者の声(イザヤ40:3)」と呼ばれている人です。またヨハネは、「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす(マライ4:5)。」とマラキが預言していた人物でした。「らくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野密であった。(マタイ3:4)」という一風変わった風貌は、旧約の預言者エリヤを彷彿とさせるものとなっています(Ⅱ列王記1:8)。このヨハネは、「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ(マタイ3:3)」という役目が与えられていました。バプテスマのヨハネは、人々の心が主なる神様の御前に整えられるように、人々が救い主キリストを知ることが出来るようにと主の働きを忠実に行っていました。

 「主の通られる道をまっすぐにする」と言う事は、王様や貴族のために道路整備をすることと同じだと言えます。日本では、何か催し物があり、天皇陛下が現地を訪ねる時、スムーズに移動することが出来るようにと新しい道が作られることがあります。そのような理由で、これまで大きな道が整備された道路が日本にどれほどあるでしょうか。今は、新しい道路を作らなくても、天皇陛下や海外の首脳が来日した時には、車での移動に支障がないように、全ての信号を青信号にするとか、通行規制が行われたりします。「主の通られる道をまっすぐに」というのは、そのことをイメージすると良いのだと思います。

 バプテスマのヨハネは、人々の心が王の王、主の主である救い主イエス様にまっすぐ向けられるようにと宣教を続けていました。だから、バプテスマのヨハネは、「あなたはキリストか」と質問された時、「私はキリストではない」とはっきり答えました(ヨハネ1:20)。キリストについては、「私よりも後に来られる方は私よりも力がある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません(マタイ3:11)」と言います。履き物を脱がせることは、一番地位の低いしもべのすることです。ヨハネは、キリストに対してそれすらも出来ないほど恐れ多いことだと告白します。
 バプテスマのヨハネは、自分の弟子たちに「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。(ヨハネ1:29)」と紹介します。その理由としてヨハネはこう言います。「私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。(ヨハネ1:33)』」ヨハネは、神の御霊が鳩のようにイエス様の上に降って来られるのを見、「これはわたしの愛する子」という神の宣言を聞きました。そこでバプテスマのヨハネは、イエス様こそ救い主キリストであると確信を持ちました。だからバプテスマのヨハネは、人々に救い主イエス・キリストを紹介し、人々がイエス様を信じ従うことを喜ぶのです。

 皆さん、私たちもイエス様を知りませんでした。けれども今、聖霊なる神様の導きによって救い主イエス様を知る者とされています。イエス様こそ、私たちを罪と滅び、どうしようもない人生の泥沼から救い出してくださるお方です。イエス様こそ、私たちの心に光を与え、永遠の希望を与えてくださるお方なのです。この神様の愛と恵みを知った者として私たちもバプテスマのヨハネのように、「イエス様こそ、世の罪を取り除く神の子羊、イエス様は、罪からの救い主である」と証ししましょう。

Ⅲ;悔い改めの実を結ぼう

 神の御霊が鳩のようにイエス様に降りて来られました。イエス様は、救い主として私たちの罪を背負い十字架にかかってくださいました。悔い改めて神様の御言葉に従って歩みましょう。私たちは、もう一度バプテスマのヨハネの言葉に注目しましょう。
 バプテスマのヨハネは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから(マタイ3:2)」と言って荒野で人々に悔い改めを教え、ヨルダン川で悔い改めのバプテスマを授けていました。そのために多くの人たちが、彼のところに来て、罪を告白しバプテスマを受けていたのです。

 ある時、バプテスマのヨハネの所に大勢のパリサイ人やサドカイ人たちがやって来ました。彼らは、ユダヤ教の中のパリサイ派、サドカイ派というグループに属し、ユダヤ教の教師たちでした。彼らは、ヨハネのうわさを聞いて、調査に来たのでしょうか。それとも、人々が尊敬しているヨハネからバプテスマを受ければ、自分たちの株が上がると思ったのでしょうか。恐らく彼らは、バプテスマのヨハネの人物調査をしにやって来たのだろうと思います。ヨハネは、彼らを見て痛烈に批判しました。と言うのは、ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人たちの心の思いをよく知っていたからです。彼らは、本心で悔い改めることをしない人たちでした。と言うよりも悔い改める必要はないと思っていた人たちだったのです。彼らは、「自分たちは神の民(ユダヤ人)で、しかも教師と言う立場にある。だから罪を悔い改める必要はなく、特別な存在である」という高慢な考えを持っていたのです。

 では、私たちはどうでしょうか。私たちは、イエス様を信じて歩んでいます。聖書を読み、神様の導きを求めていて、正しく生きようと心がけている者です。パリサイ人のように「自分は大丈夫!」と思い上がることはないのかもしれませんが、謙遜でへりくだっているかどうかと問われるとどうなのでしょうか?私たちは、御言葉に教えられて歩みます。が、しっかりと神様の御声を聞き、信仰による応答をしているでしょうか。

 バプテスマのヨハネは、パリサイ人たちに悔い改めるように教えます。マタイ3章10節の「斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は切り倒されて、火に投げ込まれます」という言葉は、神様の裁きは近づいているのだから、真摯に罪を認め悔い改めることが大切であると言うことです。そしてさらに大切なことは、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい(マタイ3:8)」という勧めです。私たちは、「神様の前に祈ったから、罪を告白したから、洗礼を受けたから」、もう大丈夫と考えるのは間違っています。私たちは、何を悔い改めたのでしょうか。悔い改めたことを忘れて、同じ事を繰り返していることはないでしょうか。例えば、私たちは愛の足りなさを悔い改めます。でも次の瞬間、人に対して愛のない言動をしてしまうことはないでしょうか。「悔い改め」は、単なる「後悔」や「反省」とは違います。「悔い改め」というのは、罪を悔いて、生き方や考え方などを改めて180度方向を変えることを意味しています。私たちは、神様に背を向け、無視していた罪を告白し、神様へと方向転換をして新しいいのちに生きる者とさせて頂きました。

 私たちが、このように罪を自覚出来るようになったのは、聖霊なる神様によることでした。パウロは言います。「また、聖霊によるでなければ、だれも『イエスは主(救い主)です』と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3)」私たちは、聖霊なる神の光を心に受けて悔い改め、信仰告白へと導かれました。同じ聖霊なる神様は、私たちの心に働き続け、私たちの歩みを守ってくださいます。私たちは、聖霊なる神様の働きによって、悔い改めの実を結ばせていただくことが出来ます。悔い改めの実とは、神様の愛に生きることや神様を心から礼拝すること、神様への感謝の賛美をささげる生活などによって現れてくるでしょう。悔い改めの実を結ぶことが出来るように祈りつつ歩みましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今日も神様の恵みによって歩ませていただけることを感謝いたします。イエス様は、神であるのに人となってこの地に来て下さいました。それは、私たちの罪を取り除くために、十字架で神の裁きを受けるためでした。イエス様こそ、私たちの救い主です。
 私たちは、聖霊なる神様の導きによってこの恵みを知りました。聖霊なる神様ご自身が、今も私たちの心を満たし、人生を導き、神様の御心を教えて下さることを感謝します。聖霊なる神様、私たちが悔い改めにふさわしい実を結び、神様の栄光を現わすことが出来るように助けて下さい。そして聖霊様の力によって「イエス様こそ、世の罪を取り除く神の子羊、救い主」と証しし続けることが出来るように導いて下さい。
 新型コロナウイルスの感染が、また拡がっていると言われています。神様、一人ひとりの健康をお守り下さい。ロシアによるウクライナ侵攻が終わり、世界中の紛争や武力衝突が終わり、地の上に神様の平和が満ちあふれるようにとお願い致します。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」