2023年7月23日(日)礼拝説教 ヨハネの福音書1章35‐51節 「イエスのもとに集まれ」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 皆さんには誰か「推し」がいますか?(大人の皆さん、「推し」とは「ファン」と同じような意味です。)音楽のグループだったり、漫画のキャラクターだったり、皆さんの「推し」を聞いてみたいな、と思います。今の時代は一人で活動するソロよりも、グループや複数の登場人物が人気を集めることが多い気がします。複数の人物が生む豊かな表現やストーリーが、魅力なのでしょうね。

 さて、イエス様を中心とした福音書の物語にも、いよいよ複数のメインキャラクターが登場してきます。まずはこの人たちです。左にいるのはアンデレ、右は福音書を書いたヨハネです。彼らはバプテスマのヨハネの弟子でした。バプテスマのヨハネはイエス様を見かけてこう言いました。「見なさい、あの方は神の子羊です。」それを聞いてアンデレとヨハネはびっくりしました。2人はヨハネの弟子をやめてイエス様について行きました。「イエス様、今どこに泊まっているのですか?お話を聞かせて下さい。」イエス様は「ついてきなさい。そうすればわかります」とおっしゃるので、2人はついていってお話を聞き、イエス様が救い主であることを信じました。

 アンデレは家に帰って兄弟のシモンに「おいシモン、僕はキリストに出会ったよ!一緒に会いに行こうよ」と言って、イエス様のところに連れて行きました。するとイエス様はじーっとシモンをみつめてこう言われました。「シモン、これからはあなたをペテロと呼ぶことにします。」そう、イエス様の一番弟子になるあのペテロです。「イエス様、私の将来のことまでご存知なのですか?」とシモンは驚きました。ペテロとは、岩という意味です。岩のような堅い信仰を持つ人になる、とイエス様は見抜かれたのです。こうしてシモン・ペテロも弟子になりました。

 次の日です。イエス様はご自分でピリポ、という人を見つけて声を掛けました。それが今日のみことばです。「わたしに従ってきなさい。」ピリポもイエス様が救い主だとわかって、弟子になりました。
 3人の先輩弟子と同じように、ワクワクドキドキしたのではないでしょうか。黙っていられず、友達のナタナエルを見つけて言いました。「ナタナエル、僕たちは聖書の中に書かれている救い主にあったんだ!ナザレの人、イエス様だよ。」するとナタナエルは顔をしかめて言いました。「ピリポ、僕も聖書は良く学んでいるが、救い主はナザレなんかから現れないよ。あそこは新しい町だし、聖書に名前も出てこないよ。」でもピリポは言いました。「来てお会いしてご覧よ。そうすればわかるから。」そう言われてナタナエルはイエス様のところに出かけていきました。
 するとイエス様はナタナエルに「あなたはまさしくイスラエル人、心のまっすぐな人です。」と言われました。ナタナエルは「どうして私をご存知なのですか?」と聞き返しました。」「ピリポに会う前、いちじくの木の下にいるのを私は見ていたのですよ。」そうイエス様に言われて、二度びっくりです。スマホも電話もGPSもない時代ですからね。初対面の人がこんなことを知っているなどありえないのです。ナタナエルには、イエス様が特別な力を持っていることが分かりました。「先生、あなたは神の御子です!イスラエルの王様です。」

 こうしてイエス様は、弟子となった人たちを見回して言いました。「あなたたちはやがて、天使たちが私の上を上り下りする様子さえ見るようになるのですよ。」これが最初のお弟子さんたちのお話です。彼らは、イエス様のお手伝いをしていきます。特別優秀だったというよりは、救い主を心から求めていたというのが共通点でしょうか。そして救い主との出会いに、家族や友達に伝えずにはいられないほど感動していました。イエス様はそのような人を今も求めておられます。私たちにどうしても必要なのは、救い主イエス様との出会いです。私たちを罪から解放し、新しいいのちに生かして下さるのは、このイエス様だけだからです。「わたしに従ってきなさい。」とのイエス様の声を、心の耳でしっかりと聞きましょう。そして「はい、イエス様。あなたについて行きます」と答えていきましょう。

<祈り>
 神様、最初の弟子たちを集められた時のように、私たちにも「私に従ってきなさい」と呼び掛けておられることを学びました。イエス様への無関心や無理解をどうぞお赦し下さい。心の目と耳でイエス様の声を聞きとらせて下さい。イエス様と一緒にどこまでも歩んでいきたいです。どうぞ導きお守りください。御名によってお祈りします。アーメン

「わたしに従って来なさい」    ヨハネの福音書1章43節

<適用>
 私たちが小川教会に赴任してしばらくの頃のことです。コロナで諸集会が中止になっていた時期に、教会の二階で記念証集を発見しました。早速読ませて頂いて、小川教会にはこの方がおられた、この先生もおられた、というのを知ることが出来ました。この方はこういうことを大切にして信仰生活を送ってこられたのか、というのも知ることが出来ました。小川で長年信仰生活を送ってこられた皆さんの証を読めたことは、幸いでした。私たちのイエス様との出会い、イエス様と共に歩む信仰生活の道筋は実に様々です。信仰生活が教会の兄弟姉妹と繋がり合って織りなされる時、それは豊かな歴史となります。この豊かな人生に招き入れて下さるイエス様を今日は学んでいます。みことばから確認したい2つの点をご一緒に見て参りましょう。

1.それぞれのイエスとの出会い

 今日の箇所には最初の5人の弟子が出て参ります。一人ひとりが、異なるイエス様との出会い方をしています。イエス様は一人ひとりを歓迎されました。それは彼らがイエス様のそば近くに生きるようになるためです。
 アンデレとヨハネは、自ら深く救いの道を探求した人ということが出来るでしょう。バプテスマのヨハネの弟子でしたが、「見なさい、あの方こそ神の子羊です」とイエスを示されて、彼らは矢も楯もたまらずイエスについて行ったのです。シモン・ペテロは兄弟からイエス様を紹介されてイエス様の弟子となりました。彼らは弟子同士また家族として、神と共に生きる道を語り合っていたことでしょう。ある意味導かれるべくして導かれた3人と言えます。

 一方でピリポとナタナエルの友人ペアは、対照的な2人でした。どう対照的かというと、片方は聖書の知識がイエスを神の子キリストと確信させ、もう一方はその聖書の知識がイエスを信じるのを邪魔したからです。ピリポはアンデレたちと同郷ベツサイダの人でした。彼らとは顔見知りだったことでしょう。アンデレたちが一緒にいたイエスの方から見出されて、今日の聖句「わたしに従ってきなさい」とのおことばを頂いたのでした。その後のピリポのことばはこうです。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです」(ヨハネ1:45)。つまり、旧約聖書に示される救い主の知識が、ピリポをしてイエス様を信じさせたというのです。聖書の預言が実現している唯一のお方がイエスである、と聖書に精通しているピリポは確信したのです。

 一方聖書の知識が邪魔をしたのはナタナエルです。この人は12弟子の一人バルトロマイと同一視されています。彼は聖書を深く探求していました。預言者ミカの書に預言されたように、救い主はベツレヘムで生まれると知っていたのかもしれません。それで旧約聖書に町の名も出てこないナザレに拒否反応を示したのでしょう。しかしピリポはめげずに「来て自分で会ってみなさい」と勧めてくれました。おかげでナタナエルは、半信半疑のままイエスにお会いし、その全知に驚きイエスを信じるに至ったのでした。知識を持つようになった時こそ、決めつけず虚心坦懐に学ばせて頂かなければならないと教えられます。

 弟子たちがそれぞれの出会いを経験したように、私たちにもそれぞれ違う人生があり、それぞれ違う神様のご計画があります。イエス様との出会いも様々です。しかし共通しているのは、イエス様は「わたしに従ってきなさい」と語り掛けておられることです。従うとは、「イエス様から学ぶ」「イエス様と共に過ごす」「イエス様に仕える」という意味です。私たちはイエス様に従い続けているでしょうか?主の弟子として歩み続けているでしょうか?もう一度、イエス様に学び、共に生き、お仕えして参りましょう。

2.イエスのもとに集まろう

 2つ目に覚えたいのは、イエス様のもとに集い続けることの大切さです。今日の箇所から見逃してはいけないことは、イエス様との出会いには必ず誰かが用いられた、という事実です。
 アンデレとヨハネにはバプテスマのヨハネ。シモンにはアンデレ。ナタナエルにはピリポがイエス様を紹介しました。イエス様から直接声をかけられたピリポも、顔見知りのアンデレたちがいたからイエス様とお会いできた側面があるのかもしれません。私たちを通してイエス様に出会う人が起こされるよう、祈りつつ紹介していけたら幸いです。
 さらに主は、信じた者たちが「個」にとどまらずに、互いに関わり、繋がり、集うことを望んでおられます。そもそも私たちの「教会」は、ギリシャ語で「エクレシア」と言います。その意味は「呼び出された者たちの群れ」です。「個」で召されるのですが、「群れ」となるのが神様のみこころであり、教会の本質です。「わたしに従ってきなさい」とのイエス様の招きには、「群れ」への召しも含まれているのです。

 今年からコロナ後のバイブルキャンプが宿泊で再開されました。子供たちのキャンプではキャンプファイアーが出来るでしょうか。薪は一本ではすぐ火が消えてしまいますが、何本もくべられていくなら勢いを増して燃え上がります。私たちも信仰を絶やさぬために、信仰の家族、信仰の友と会い、集まっていくことが大切です。
 またコロナ禍で一気に拡大したものの一つに、教会におけるオンラインの活用があります。オンラインを用いることで、どこにいても集会に参加することが出来ます。体調がすぐれない時や時間の制約がある中でも、オンラインなら交わりと学びを継続することが出来ました。多くの効用のあるオンライン活用ですが、オンラインだけで十分かというと、完全に置き換わることは決してないでしょう。私たちはやはり、対面での直接の交わりに飢え乾いていくのを感じます。

 共に集うことで、互いの間に信仰の励ましが生まれます。新しい方が来られる喜び、慣れない方への配慮のわざ、何気ない会話に祈られていることを知る感謝…どれも大きな恵みです。私も求道者だったころ、手紙を書いて下さったり、話を聞いてくださったり、時には諭して下さったり、そういう教会の交わりで守られ育てられました。集まることそのものが、他者へのよき励ましになるのです。
 また神様にお仕えするという面でも、集まることは欠かせません。私たちの祈りはどうしても「○○してください。」「△△をお願いします」と、受けるばかりの方向になりがちだなあ、と思わされます。しかし、私たちはイエス様に仕えるために召されたのです。感謝なことに小川教会では、礼拝のために多くの方が影にひなたに労して下さって、今日もこうして礼拝式が整えられています。また尊い献金を通しても教会が支えられています。このような神様への奉仕は、イエス様に従いたいと願う人に、誰にでも開かれています。一人ひとりの賜物と状況に応じてでよいのです。私たちは今もこれからも仕える者として歩んで参りましょう。イエス様は、ご自分の弟子によってその栄光を表そうとなさっているのです。私たちもそれにお応えして参りましょう。

<祈り>
 神様、「わたしに従ってきなさい」とのみことばをありがとうございます。従うとは。イエス様に学び、共に歩み、お仕えしていくことだと教えられました。信仰歴が長かろうと短かろうと、素直で謙虚な心で主に従っていけますように、私たちを整えて下さい。また、主にある家族、信仰の友との交わりをいよいよ祝福して下さい。そして私たちを励まし、信仰を燃え立たせて下さい。イエス様を紹介し、お仕えする幸いなクリスチャン生活を送らせて下さい。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。