2023年7月30日(日)礼拝説教 ヨハネの福音書2章1-11節 「神の子としてのしるし」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 先週はイエス様のところに弟子たちが集合したお話を聞きました。イエスさまは弟子たちと一緒に、ガリラヤのカナという町に行かれました。お母さんのマリアの親戚でしょうか、結婚式に招かれていたのです。幸せそうな花嫁と花婿がいますね。その頃の結婚式は、親戚一同と友達や知り合いなど、大勢の人を招いて一週間もお祝いを続けたそうです。パーティーのために、お食事も飲み物もたくさん用意が必要です。お母さんのマリアはそのお手伝いをしていました。

 ところが困ったことが起きました。パーティーはまだまだ続くのに、お客さんに出すぶどう酒がなくなってしまったのです。「困ったわ、どうしましょう」。マリアも台所係の人たちも、途方に暮れました。出す飲み物がなければ、花婿たちに恥をかかせてしまうからです。マリアはそっとイエス様に言いました。「ぶどう酒がなくなってしまったの。どうにかならないかしら?」マリアはイエス様が普通の人ではないことを知っていたので、助けてもらえると思ったのでしょう。
 イエス様は「わたしが救い主としてのわざを行う時はまだ来ていませんよ」とおっしゃいました。マリアは断られてしまったのでしょうか?いいえ、マリアはイエス様に何かお考えがあることがわかりました。それで、手伝いの人たちに言いました。「あの方の言うことは、なんでもその通りにして下さいね。」

 その家には大きなみずがめが6つも置いてありました。当時はきよめのしきたり、というものがあって、手や足をあらうためのものでした。その時はからになっていたのでしょうか、イエス様はそれを見ておっしゃいました。「みずがめを水で一杯にしなさい。」言われた手伝いの人たちの頭の上には??マークが浮かんだのではないでしょうか。そこにあるのは大きなおおきなみずがめです。今のお風呂の浴槽2~3杯分にもなるので、いっぱいにするには相当の手間がかかります。「足りないのは水じゃなくてぶどう酒なんだけどなあ~」と思ったかもしれませんが、みんなイエス様のことば通りにしました。ジャーっ、ジャーっとたくさんの水が注がれて、ついに水がめはいっぱいになりました。

イエス様は言われました。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」運ぶ人たちはドキドキしたでしょう。あーあ、水なんかもっていったら怒られるよ、そう思ったでしょうか。おそるおそる世話役に渡すと、味見をした世話役は目を丸くしていいました。「花婿さん、あなたは偉いですね!こんないいぶどう酒をパーティーの最後にとっておくなんて、立派です。普通みんなパーティーの後半には悪いものを出すものなのに、いやあ大したもんだ!」花婿はきっとキョトンとしてしまったのではないでしょうか。
 世話役はそのぶどう酒がどこから来たかを知りませんでした。でも手伝いの人たちは知っていたので、驚いたし喜んだことでしょう。この一部始終を見ていた弟子たちも、心のそこから驚きました。感動し、そしてイエス様が本当の神の子であると信じるようになったのです。イエス様のおっしゃることの意味がよく分からなかったとしても、素直に従う人だけがイエス様の恵みを知ることができるのですね。

 イエス様はこのあと何度も奇跡を起こしていかれますが、ご自分がほめられるためにそうしたのではありません。人々がイエス様を神の子だと信じられるように、示して下さったのですね。
 イエス様のみわざを知った私たちも、弟子たちのようにイエス様を神の子救い主と信じて行きましょう。なんでもイエス様に相談し、イエス様が示してくださることには素直に従って、恵みを体験させて頂きましょう。

<祈り>
「神様、私たちがイエス様を信じることが出来るようにと、イエス様の奇跡を示して下さってありがとうございます。何でもイエス様に相談し、イエス様に従って行きたいです。どうぞ恵みを見させて下さり、喜びをもってイエス様と歩ませて下さい。御名によってお祈りします。アーメン。」

「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」  ヨハネの福音書2章11節

<適用>
 私ごとではありますが、私たち夫婦は今年で結婚20年目を迎えました。牧師同士ということで、大人数の入る太田教会で結婚式をさせて頂きました。手作りの式、パーティーということで、実施には多くの教会関係者、友人知人のご協力を頂きました。自分たちは当日まな板の上の鯉状態ですから、裏方の皆様にお世話になるほかありません。ですから今思い出しても「本当によく協力して下さったな」と感謝の念に堪えません。人生の節目の出来事として、写真ひとつ、受付ひとつ、何を取ってもありがたいご奉仕として思い出されます。
 イエス様も、若い夫婦の婚礼に集い祝福をなさいました。それだけでなく、ご自分の来られた意味を示すために、この婚礼で奇跡のわざを行われました。そのあらましは既に見た通りですが、更に覚えたい3つのことをご一緒に見て参りましょう。

1.イエス様のご関心

 カナの婚礼において、ぶどう酒がなくなるという困った事態が起きました。それは祝宴の進行上の大問題でした。裏方としてマリアは、なんとしてでも新郎新婦の名誉を守ってあげたい、良い祝宴として全うさせてあげたいと思ったことでしょう。そこでイエス様に事態を告げますが、返事のお言葉は意外なものでした。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ2:4)。この「女の方」という言い方は母親に対してよそよそしく聞こえるかもしれませんが、当時の女性に対する敬称です。ここでイエス様は、マリアの関心事と、ご自身の関心事がまったく違うことをお示しになったのです。

 それは続く「わたしの時」という言葉にあらわれています。イエス様の時とは、ヨハネ13:1によれば「この世を去って父のみもとに行く」時のことです。十字架を目前にしたイエス様は「父よ、時が来ました。」(17:1)とも言っておられます。
 マリアはイエス様が特別なお方だと知ってはいました。けれど、イエス様は罪人を救うために来られた神の子である、とまでこの時は理解していなかったと思われます。

 私たちもマリアのように、イエス様の助けを頂きたいと願うものです。イエス様は助けることの出来るお方ですし、私たちは祈り求めることを勧められています。今年度の年間聖句の通りです。けれども願いが人間中心に傾き過ぎていないかは、折々に確認していくことが必要ではないでしょうか。マリアの場合と同じく、私たちの関心はイエス様のご関心とかけ離れてしまうことがあるからです。
 イエス様のご計画とご関心は、私たち罪人の救いとその完成にあると言えるでしょう。なぜなら今の世、この肉のいのちはいつか必ず終わりを迎えるからです。神の前でさばきではなく赦しが与えられるために、イエス様は私たちに代わって死んで下さいました。またそれにとどまらず、聖められご自分に似た者とならせたいと願っておられます。私たちの祈りが自分中心、人間中心な祈りばかりに傾くことのないよう、今一度立ち止まって思いめぐらしてみましょう。願わくは主の御思いに沿う祈りをお捧げしていけますように。

2.従うことで頂く恵み

 さて2つ目のことは、主の恵みはお従いする時に見ることの出来るものだ、ということです。マリアはイエス様の一見拒絶のような言葉にも、落胆はしませんでした。そっと台所係の仲間に耳打ちし「あの方の言われることは、何でもして下さい」とささやきました。この言葉があったからこそ、この奇跡があったのだと思います。誕生にまつわる不思議の数々を身をもって体験してきたマリアでした。イエス様への信頼を深く持っていたことでしょう。そのマリアのことばは今も私たちに大切なことを指し示しています。「イエス様のおっしゃることは、何でも行います」という姿勢こそが、大いなる恵みへの切符だということです。

 イエス様のおっしゃった、水でかめを満たすという行動は、ぶどう酒切れというピンチには何の効用もないと思われます。けれどもマリアのことばにより、人々は「なぜ?」「どんな意味があるの?」という問いをひとまず脇において、お言葉に従って行ったのです。私たちは意味や理由が分かっていること、自分が納得できることは、容易に行動することが出来ます。けれども自分の納得や明らかな意味づけがないとイエス様に従えない、という弱さがあるのかもしれません。イエス様がこうおっしゃっている、それだけで実行する理由として十分なはずですが、そう出来ていない面があるように思わせられます。

 給仕の者たちは、イエス様のお言葉にお従いして大きな奇跡を目の当たりにしました。私たちもみ言葉を読んで、聞いて、自分の生活にあてはめてお従いいたしましょう。その時にイエス様は大きな恵みをお与え下さることを、この出来事は教えています。

3.神の子としてのしるし

 ヨハネは2:11でこう記します。「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現わされた。それで弟子たちはイエスを信じた。」この「しるし」という言葉は「証拠としての奇跡」という意味です。ヨハネの福音書ではこの「しるし」が7つ出て参りますが、その最初がカナの婚礼での奇跡です。なんの証拠でしょうか?それはイエス様が「神の子」である、という証拠です。奇跡とは、自然の法則を越えた不思議な出来事のことです。神として、自然の理を治め、その法則すらも望むままに変える力を持つのが、イエス様です。そのしるしとして「ご自分の栄光を現わされた」のです。

 ぶどう酒の奇跡によって象徴的に示されていることがあります。それは、イエス様の救いは本当の清めと喜びを与えるものだ、ということです。ユダヤ人たちは、水によるきよめの儀式を熱心に行っていました。けれどもそれは、内面の罪を清めることは出来ません。ユダヤ教、また人間の努力の限界を象徴しています。
 しかしここでぶどう酒は、イエス様が下さる救いの喜びを示しています。のちに十字架で流される血潮によって、罪が赦されて心に喜びが来るのです。それは神の御子イエス様のみが与えることの出来る喜びです。そのことのためにイエス様は来て下さったのです。弟子たちはイエス様を特別な方として、行動を共にし始めました。しかしここで更に一歩進んで、「神の子」としての信仰が深められ「信じた」とあります。信仰は一歩いっぽです。最初から完成した信仰などないのです。

 今日礼拝を共にしている皆さん。どうぞ今のあなたの信仰で、イエス様を信じて下さい。教会に通い始めて、イエス様の教えを学んで行きたい、ついて行きたい」と思うなら、それも立派な信仰です。「私はイエス様について行きます」と祈りましょう。
 更に「イエス様は神の子であり、ただ一人の救い主だ」「私もイエス様を信じて罪を清めて頂きたい」と願うなら、それは聖霊様が働きかけて与えて下さった信仰です。どうぞ信仰告白の祈りを捧げましょう。イエス様はそれぞれの信仰を喜び、受け入れて下さいます。神の子としてのしるしは信仰を引き出すために与えられたのだからです。

<祈り>
「神様、イエス様の最初の奇跡を学ばせて頂きました。人間中心な祈りに傾きがちですが、あなたの聖いご計画に思いをはせつつ御心に叶う祈りを捧げていけますよう整えて下さい。またイエス様がおっしゃっておられる、ということだけで十分なはずなのに、理由を求めてしまう愚かさをお赦し下さい。イエス様の教えに学び、教えられたことに素直にお従いしたいと願います。どうぞお導き下さい。イエス様を神の子と信じる信仰においても、成長をお与え下さい。信じて喜びのある生涯を送ることが出来ますように。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。」