2023年9月17日(日) 創世記22章1-14節 「試練の時に働く信仰」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ> 
 皆は、学校楽しいですか?僕は、小学校が楽しかった記憶があります。学校では色々な事がありますから、楽しくないと感じることもあるかもしれません。皆が、楽しく学校に通う事が出来るように祈っています。さて、どうして僕が、小学校を楽しいと感じたのか。それは、毎日給食があったからです。勉強はあまり好きではなかったのですが、給食は最高でした。僕が通っていた小学校には、給食センターがあって、いつも暖かい美味しい給食が食べられたのです。もし給食にも成績がついたら僕は、良い成績を取ることが出来たと思います。こうして毎日楽しい小学校生活でしたが、テストがなかったらもっと良かったでしょうね。テストほど退屈な時間はありません。でもテストは、勉強がどれだけ身についているか確認のようですから必要なんですよね。

 アブラハムは、神様からの試練(テスト)を受けました。聖書には「神がアブラハムを試練にあわせられた。」と書いてあります。「えー、神様からの試練(テスト)なんてあるの???」と思うかもしれないですね。神様は、意地悪でそういうことをするのではありません。神様の試練は、時として僕たちがもっと神様を信じられるように、神様の素晴らしさを知ることが出来るようにという目的を持っています。アブラハムは、どんな試練を受けたのでしょうか。
 アブラハムと奥さんのサラの間には子どもが与えられていませんでした。ある日神様は、アブラハムに男の子が生まれると約束をしてくださいました。その通りに、アブラハムが100歳の時、サラが90歳の時に彼らに男の子が生まれました。これは、神様の素晴らしいみわざです。アブラハムは、一人息子のイサクを大切に育て、最大限の愛情を注ぎ、幸せな日々を過ごしていました。

 そんなある日神様が言います。「アブラハム、あなたが愛しているひとり子のイサクを全焼のいけにえとしてわたしにささげない。」全焼のいけにえというのは、すべてを神様のものとして燃やしてささげるということです。一瞬、耳を疑ったアブラハム、「えっ神様、今なんて言われましたか?イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいですって!!そんなこと出来ませんよ。」
 大切な我が子をささげなさいと言われてアブラハムはどうしたでしょうか。彼は、「これまで神様の言われる通りにしてたくさんの良いことを経験して来た。今回も神様は、きっとご計画があるに違いにない。神様の言葉に従おう。」と決め、次の日朝早く全焼のいけにえの準備を整えて二人の若者とイサクを連れて出かけるのです。神様が指定した場所に近づくと、イサクとアブラハムだけが進んで行きます。「お父さん」イサクが声をかけます。「なんだい。我が子よ」アブラハムが答えます。イサクは続けます。「いけにえを燃やすための火と薪はありますが、全焼のささげものにする羊はどこにいるのですか?」。アブラハムにとってドキッとする質問です。アブラハムは「神様が備えてくださる」と答えました。こうして二人は、目的の場所に到着し、祭壇を作って準備をします。

 「イサク、実は神様がお前を全焼のいけにえとしてささげなさいと言われたのだよ。でも神様にはご計画があるに違いない。」アブラハムは、イサクに説明したでしょう。そしてイサクは、父アブラハムの言葉、神様の言葉に従う事を選んだのです。アブラハムがイサクをほふろうとした時、「アブラハム、アブラハム、イサクに手を下してはいけない。今、あなたが神をおそれ、徹底して神の言葉に従って歩む信仰を持っていることが分かった。」と神様からの声がありました。神様は、アブラハムが悲しく辛い状況でも神様に従い通す信仰を持っていると認めてくださったのです。神様は、イサクの代わりに、雄羊を用意してくださいました。二人は、雄羊を全焼のいけにえとしてささげ、主なる神様を礼拝しました。

 僕たちには、大変こと、苦しいことがあります。神様が、何を考えているのか分からず、神様のしている事が理解できないということもあります。その時に大切なことは、アブラハムのようにどんなことがあっても神様を信じて信頼することです。神様は、いつでもどんなことがあっても、信じる者を守り、必要なすべてを与えてくださいます。今日は、敬老を感謝する礼拝となっています。ぜひ皆、おじいちゃん、おばあちゃんを大切にして、神様の祝福がたくさんあるようにと祈りましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、アブラハムは驚くような出来事の中でも、辛い時にも神様を信じて、信仰を持って歩みました。そのように僕たちもいつも神様を信じて歩み続けることが出来るように助け導いてください。この祈りをイエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」

「アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、『主の山には備えがある』と言われている。」
                          創世記22章14節
「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることも出来ると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。」
                     ヘブル人への手紙11章19節

<適用>
 小学生の時にテストが嫌だったと話をしましたが、中学でも高校でも「嫌だなぁ」と思っていました。問題は分からないし、退屈だし。テスト中、ボーっと天井を見ていると先生が「赤松、天井に答えでも書いてあるのか、しっかり問題を読みなさい」と声をかけるのです。天井に答えが書いてあったらいいなと思いつつ、仕方なく問題を読み進めて行きます。時々、「あっそうか」と思い出したように答えを書くことが出来る瞬間がありました。
 私たちは、生きて行く中で様々な出来事に直面し、まさに試練と思えることを経験するものです。今日の箇所は、アブラハムの人生のクライマックスであり、アブラハム最大の危機ということになるでしょう。しかしこの試練の中に、アブラハムの信仰が輝き、同時に神様の憐れみ、救いの計画を見ることが出来るのです。共に御言葉に耳を傾けましょう。

Ⅰ;神を真実なお方と信じるアブラハム

 アブラハムは、試練の中で主なる神様を真実なお方がと信じました(ヘブル11:11)。
 神様がアブラハムに語った言葉は、耳を疑うようなものでした。アブラハムにとってイサクは約束の子どもです。神様は、すっとアブラハムに子どもが生まれ、子孫が増え、アブラハムによって全ての民族が祝福を受けると語って来られました。その全てをアブラハムは、信じたのです。このようにイサクは、神様からの祝福そのものだったはずです。アブラハムの子孫は、イサクから増え広がるはずなのです。でも今神様は、そのイサクを全焼のいけにえとしてささげよと命じます。何とも理不尽な命令としか思えません。しかも人をいけにえとしてささげることは、神様が禁じていることです。

 何故神様は、そんな命令をしたのでしょうか。「アブラハムを試練にあわせられた。(1)」とあるように、神様には明確な目的がありました。が、当のアブラハムはそんなこと知りませんから驚いたことでしょう。アブラハムは、何が目的なのか、義なる神がどうしてこんなことを言うのか、大いに悩み眠れぬ夜を過ごしたことでしょう。 アブラハムの出した結論は、神様の命じられる通りに従うことでした。アブラハムは、神様の命令に従うことが何よりも重要であることを知っていたのです。また、彼は、神様の祝福の約束はどこまでも真実であり、たとえイサクをささげよと命じられてもイサクが約束の子であることは変わらない事実であると信じたのです。

 私たちが、試練だと感じる事柄を経験する時、アブラハムの信仰の姿を模範としましょう。アブラハムは、神様を真実な方と信じ続けました。私たちを導く神様の御手は真実です。神様は、すべてのことを働かせて益としてくださいます。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となる…。(ローマ8:28)」 

Ⅱ;神様の備えを信じたアブラハム

 アブラハムは、試練の中で主なる神様が全てを備えてくださることお方であることを信じました。
「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることも出来ると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。」ヘブル人への手紙11章19節
 神様に指定された目的の場所が見えてきた時アブラハムは、イサクと親子二人でその場所に向かって行きました。この時のアブラハムの「礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る(創世記22章5節)」という言葉には、先ほど見た「神には人を死者の中からよみがえらせることも出来る」という信仰が現れています。

 目的の場所に着きアブラハムは、祭壇を築いて薪を載せ、イサクを縛ってその上に乗せます。この時、イサクはすでに12-15歳だったと考えられます。イサクは、老年のアブラハムに抵抗して、逃げ出すことが出来ました。けれどもイサクは抵抗することなく、逃げ出すことなく縛られたのです。アブラハムは、神様の命令をイサクに伝えたことでしょう。イサクは、この時、神様の命令に従うこと、父の信仰に従うことを選びました。イサクは父アブラハムに習い、従順な信仰を持っていたのです。すべての準備が整い、アブラハムは覚悟を決めて、いざ、刀を振り上げてイサクをほふろうとした時です。主の使いが声をかけ(11)、イサクに手を下してはいけないと止めにはいるのです。「わかった、わかった、アブラハムよ。お前が神を恐れることがよく分かった。ひとり子さえ惜しまずささげた。だからもうよろしい、イサクをほどいてやりなさい。殺してはいけない。」神様は、アブラハムの従順な信仰、主を恐れ、へりくだる信仰が確かであることを認めくださいました。

 またアブラハムは、すべてのことが神様によって備えられ、導かれるということを確信していました。その通りに神様は、イサクの身代わりのささげものを用意していました。藪に角をひっかけている1頭の雄羊でした。アブラハムは、イサクの代わりに、この雄羊を全焼のいけにえとしてささげました。このことのゆえにアブラハムは、その場所を「アドナイ・イルエ(主が備えてくださる)」と呼びました。「主の山には備えがある」は、アブラハムの信仰を表す代表的な言葉です。
 「人生山あり谷あり」と言います。私たちは、試練や問題を経験する時、それを「乗り越える」と表現します。私たちにとって試練は、まさに大きな山に挑むようなものです。試練のただ中にいるとき、頂上が見えず、果たして乗り越える事が出来るのだろうか不安になるのです。けれども私たちは、様々な助けを受けて試練を乗り越える事が出来ます。私たちは、多かれ少なかれそのような山をいくつか乗り越えてきたことでしょう。どうして乗りこえる事が出来たのでしょうか。それは、神様が、私たちを見ていて下さり、必要な助けを備えて下さったからではないでしょうか。 

 パウロは言います。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます(Ⅰコリント10:13)」
 皆さんは、これまで何度「アドナイ・イルエ(主の山には備えがある)」と告白してきたでしょうか。私たちは、今日敬老礼拝を行っていますが、人生の先輩の皆さんは、試練の中でも信仰をもって主を見上げて来られたと思います。その中で経験した多くの神様の恵みを分かち合っていただき、若い世代の信仰が励まされるようにと願います。これからも私たちは、事あるごとに「アドナイ・イルエ(主の山には備えがある)」と告白して歩むことが出来ます。

Ⅲ;神の祝福を信じたアブラハム

 アブラハムは、神様の祝福を信じ続けました。それは試練の中でも変わらない彼の信仰でした。だから神様は、アブラハムをさらに祝福し、救いの計画を明らかにしておられるのです。それが創世記22章16-18節の言葉です。
「こう言われた。『わたしは自分にかけて誓う―主のことば―。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。』」

 アブラハムがひとり子をささげると言う事は、父なる神様がひとり子イエス・キリストを罪のためのいけにとする事と重なります。実は、神様がアブラハムに示した「モリヤの山」は、後のエルサレムです。そこにダビデによって祭壇が作られ(Ⅰ歴代誌21:14-30)、ソロモンによって神殿が建てられました(Ⅱ歴代誌3:1)。と言う事は、モリヤの山は、イエス様が十字架にかけられた場所なのです。アブラハムへの試練は、神様の救いの計画がどのようにして成就するのかを予告する、神様のメッセージでもあったのです(ヘブル11:19)。

 神様は、アブラハムがイサクをささげようとした時、それを止め、イサクの身代わりに雄羊を用意してくださいました。神様は、私たちの罪の身代わりのためにも小羊を備えてくださいました。それがイエス・キリストです。イサクは、ほふられる前に、主の介入によって助けられましたが、イエス様の場合、中断はありませんでした。それを思うと神様は、アブラハムの姿をどんな気持ちで見ておられたのだろうかと思うのです。神様は、愛するひとり子を全焼のいけにえとするアブラハムの心の痛み、悲しみをご覧になっていました。それでもじっとアブラハムの行動を見ておられたのです。そこにはやがて人類の救いのために神様ご自身が経験するだろう痛み、悲しみがあったのではないでしょうか。
 神様は、アブラハムに「イサクに手をくだしてはいけない」と言われました。けれども神様は、私たちの罪の身代わりとして、ひとり子イエス様を十字架につけることを途中でやめることをしませんでした。イエス様は、私たちの罪のために十字架が死んで下さいました。しかし神様は、イエス様を3日目によみがえらせて、救いが確かであることを示して下さったのです。イエス様は、今も生きていて私たちの罪を赦し、祝福を与えて下さるのです。

 アブラハムは、試練の時に働く信仰をもっていました。アブラハムは、神様を真実な方と信じ続け、神様が全ての必要が備えられることを信じました。またアブラハムは、神様の祝福を信じ続けたのです。神様は、私たちにも真実を尽くしてくださり、私たちの必要を全て満たし、祝福してくださいます。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様、私たちはあなたが真実なお方であることを信じます。そして神様は、私たちの必要を満たす方であり、「主の山の上には備えがある」と信じます。神様は、ひとり子イエス様を十字架につけ私たちの罪の身代わりにしてくださいました。私たちの罪を赦し、祝福を与えてくださることを信じます。神様、いつでも、どんな時でも私たちが信仰を持って歩むことが出来るように助け導いてください。
 新型コロナウイルスの感染が拡大しています。どうか神様、一人一人の健康を守ってください。体調を崩している方々やケガをしている方々を癒してください。
 御心が天で行われているように、地でも行われますように。神様の臨在がこの地を覆い尽くしますようにとお願い致します。私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」