2023年9月24日(日)創世記24章1-9節 「神の導きにゆだねる」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 先週は、100歳のアブラハムにようやく生まれた子どもイサクを「いけにえにささげなさい」という、神様からの試練のお話でした。辛い命令にも神様に従おうとしたアブラハムとイサクを、神様は呼び止め守って下さいました。二人は神様のテストに合格したのですね。

 さて今日は、大人になったイサクのために、周りの人たちが一生懸命に祈ってしてくれたこと、を学びます。それは、イサクのためのお嫁さん探しです。アブラハムの子孫が星のように増え拡がる、という約束が実現するには、まずイサクが結婚しなければ、と考えたのですね。アブラハムのお話は今日までになります。このイサクの結婚にも、祝福を頂くための大切な教えがあります。一緒に学んで行きましょう。

「おい、君。ちょっとこっちへ来ておくれ。」アブラハムは一番年上で、最も頼りになる召使を呼びました。「はい、ご主人様。なんでしょうか。」「うむ。おまえにとても大切なことを頼みたい。イサクのお嫁さんを探して来て欲しいのだ。本当の神様を信じる娘さんを、私の故郷に行って見つけだし、ここに連れて来ておくれ。」召使は答えました。「はい、ご主人様、承知しました。」
 こうして召使はアブラハムの故郷、遠い国ハランに向けて出発しました。10頭のラクダにたくさんのきれいな贈り物を積みました。何日も何日も旅して、ようやく目的地につきました。到着して召使は何をしたでしょうか?お食事?水浴び?お昼寝でしょうか?いいえ、彼はまずお祈りをしたのです。井戸の側で彼は言いました。「主人アブラハムの信じる神様。どうかイサク様にふさわしい娘さんに出会わせて下さい。水汲みにくる中で、私と私のラクダにも水を飲ませてくれる優しい娘さんがいたら、その人こそイサク様の妻にふさわしいと思います。どうぞお導き下さい。」

 するとお祈りが終わる前に、一人の娘が水がめを持ってやってきました。ちょうど水を汲んできたところだったのです。召使は言いました。「ああ、お嬢さん、少し水を飲ませてくれませんか?」「はい、どうぞ。お飲みください。」そう言って娘は水を飲ませてくれました。更にこう言いました。「ラクダたちにも水を汲んであげましょう。喉が渇いているみたいですもの。」彼女は10頭ものラクダのために、何回も何回も水を汲んであげました。召使はこう思いました。「なんて働き者で、優しいんだろう。」
 そして聞きました。「あなたは誰の娘さんですか?」「はい、私はベトエルの娘、リベカです。」なんとリベカはアブラハムの親戚でした。これを聞いて召使は思わずひざまずいて神様を礼拝しました。「神様、あなたはアブラハム様の兄弟の家に、私を導いて下さったのですね!」

 リベカの家を訪ねた召使は、お父さんとお兄さんに頼みました。「リベカさんに、主人アブラハムの息子イサク様のお嫁さんになって欲しいのです。リベカさんこそ神様が選び導いて下さった娘さんだと確信しています。」それを聞いてお父さんとお兄さんは言いました。「これは神様がお決めになったことですから、私たちに異論はありません。」リベカ本人も、「はい、私はイサク様のところに参ります。」そう答えました。
 ついに召使はイサクのお嫁さんとしてリベカを連れてアブラハムのところに戻って行きました。みんなとても嬉しかったでしょうね。イサクはリベカと結婚し、亡くなったお母さんサラのテントに住まわせました。一家の若奥様ということですね。アブラハムもこの結婚をとても喜びました。こうしてアブラハムの祝福が続くための、イサクの家庭という基礎が出来ました。

 皆さん、一番一生懸命に行動した召使は、よくお祈りをしたうえで神様が導いてくれるのを待ちました。それに応えて神様はリベカと出会わせて下さいました。アブラハムも一生懸命でした。彼はお嫁さんの条件を大切にしました。神様を信じ敬う娘さんを親戚から見つけ、約束の地カナンに連れてくることを求めたのでした。右にも左にもそれない姿勢で物事を進めさせたのです。またリベカとその家族は、出来事がみな偶然ではなく神様の導きの結果だと受けとめました。そして導きに従うことが出来ました。一番何もしてなさそうに見える本人イサクはどうでしょう?イサクは神様の導きを静かに待ち望む人でした。その結果、ぴったりのお嫁さんリベカと出会い新しい家庭をスタートすることが出来たのです。
 皆さん、進路や将来の結婚など、大切なことを決める時がいつかやってきます。その時に今日のお話を思い出してください。神様にお祈りして妥協せずに従う人に、神様は確かに導きと祝福を与えて下さいます。みんなが祝福されている姿を見て、一緒に喜びたい、と願っています。

<祈り>
 神様、イサクにふさわしいお嫁さんをあなたが導かれたことを学びました。私たちのことも祝福へと導いて下さることを信じます。アブラハムのようにみこころに従いながら、召使のようにいつも祈りながら、あなたの導きを待ち望みますから、よろしくお願いいたします。御名によって祈ります。アーメン。

「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」
                                   詩篇37篇5節

<適用>
 私が独身時代、信徒として行田教会に集っていた時のことです。教会の集会案内をポスティングして自宅近くも配っていました。ぐるっと回って最後の一枚は自宅のお隣のお宅に入れようと思って、帰ってきました。すると、となりのお宅の方は外に出ておられて、直接手渡すことが出来ました。チラシを受け取られたお隣の方は、私にこう言われました。「子どもたちを教会学校に通わせたいと考えていたんです。」突然のことで驚きましたが、よく聞いてみるとご自分も独身時代に教会に行ったことがあり、結婚式も教会で挙げたと言います。そして子育てをするようになって、聖書の教えが必要ではないかと思うようになったとおっしゃるのです。そのご家族はその後、教会に続けて通われるようになりました。私はこの出来事は神様の導きであったと今でも思っています。チラシの枚数があと1枚足りなければ、そのお宅に届けることはありませんでした。配る順番が違っていれば、家の方と直接行き会うこともありませんでした。偶然出なくて、神様が事をなすために、そのように働いて導かれたのだと私は受け止めています。
 目にこそ見えなくても、すべてを支配し導かれる神様が存在なさいます。そしてその導きは、時に鮮やかなほどはっきりと示されます。今日の聖書箇所はイサクの結婚を扱っていますが、そこで見るべき学びは、まさにこの神の導きです。2つの点から神の導きを頂くうえで大切なことを学んで参りましょう。

1.みことばをガイドラインに祈り求める

 第一のことは、みことばをガイドラインとして祈り求めるとき、神様はその導きを示して下さる、ということです。
 先ほども見ましたように、このイサクの嫁取り物語の中心人物は、アブラハムの年長のしもべです。15章でアブラハムが「我が家の跡取りはダマスコのエリエゼルですか?」と言っていましたが、このエリエゼルが家の最年長のしもべ、つまり今日の中心人物だったのではないかとも言われています。子が無ければ跡取りにとみなされるほど、このしもべはアブラハムの深い信頼を得ていました。この時アブラハムは既に140歳、イサクは40歳です。アブラハムは超高齢の老人で動けないし、イサクもいい年齢だし、しもべの働きにかけられる期待は大変大きいものだったでしょう。

 アブラハムにとってイサクの結婚は、ただ息子が満足すればいい、というものではありませんでした。更には、カナンでの生活を安定させるために有力者と政略結婚させるような、人間的思惑で考えるものでもありませんでした。アブラハムにとっては、神のみこころの実現にふさわしい信仰的な判断が一番大切だったのです。
 それでしもべに厳粛な誓いを求めました。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。」(24:2~3)。この言葉からは、アブラハムが神のみこころへの従順を徹底しようとしていることがわかります。嫁取りの絶対条件はまず、異教徒のカナン人を避け、親族から見つけること。次に約束の地カナンに来ることを受け入れる娘です。カナンに来ようとしないならそれは、導かれた相手ではない。「もし、その娘があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの、私との誓いから解かれる」(24:8)。

 アブラハムはこのように、あえて厳しい条件を出してしもべに縛りを与えます。その分相手を見つけづらく思えます。みこころをガイドラインにすると、窮屈ではないかと思う方もいるかもしれません。ではアブラハムはどう考えたでしょうか。彼は、神のみこころが成るのでなければ、形の上で整ったとしても意味のないことだと考えたのです。そしてしもべもまた、この厳粛な誓いを立てる中で、アブラハムの信仰を共有しました。そして具体的に行動していったのです。

 皆さん、私たちにはさまざまに神様の導きを求める事柄があります。その一つとして、若い方々の結婚が導かれ、祝福された家庭を持たれることを、教会としても一致して祈って行きたいと思います。また幾つになっても、仕事のこと、家族のこと、教会のこと、人間関係と、神様に良い方向に導いて頂きたいと願うものです。その時に、今日のアブラハムの基本的な姿勢を思い出したいのです。神のみこころが成ることを求めるのが、祝福を受ける道です。それは恵みだからです。しもべの祈りにそれが現れています。「このことで、あなたが私の主人に恵みを施されたことを、私が知ることが出来ますように」(24:14)。わたしたちも恵みを実感することが出来ますように。みこころを私たちのガイドラインとしながら、導きを具体的に求めて参りましょう。

2.神の導きにゆだねる

 今日覚えたい2つ目のことは、神の導きにゆだねるということです。ここではイサクに注目したいと思います。先ほども申し上げましたが、一番の当事者であるはずのイサクは、嫁取り物語では最後の部分、62節からしか登場しません。彼が何をしているかと言うと、夕暮れの散歩をしているだけに見えてしまいます。彼はのんきな二代目ぼっちゃん、ということなのでしょうか?彼の人物像の理解には、先週のお話にあった少年時代の姿にヒントがあるように思います。イサクはいけにえにされそうになり、薪の山に寝かされても、神様と父アブラハムに従順でした。彼もまた、信仰の人だったのです。少年の信仰から大人の信仰へと、彼は成長していったことでしょう。大いなる祝福の契約を受け継ぐ自分の立場を理解して、彼は神様にすべてを委ねていたのではないでしょうか。

 また、イサクとリベカはお互い顔も見たことのない同士です。どうしてそのような結婚をうけいれられたのでしょうか。日本でも昭和の前半くらいまでは、お見合いすらない結婚があったといいます。すでに100歳近くで天に召された行田教会のおばあちゃんが、こう話してくれました。「自分は仲人さんが親同士を取り持った結婚で、結婚式の日まで、夫の顔も見たことはなかった。当時はそれが当たり前だった。でも、本当に優しくて大当たりだった。生まれ変わってもまた夫と結婚したい。」なんともほほえましいというか、喜ばしい関係だなあ、と思ったことを思い出します。

 さて、アブラハムの時代は親が息子の嫁を決める、ということが普通に行われていたといいます。だからイサクも受け入れていたのかもしれませんが、そう単純に捉えていいものか考えさせられます。というのは、アブラハムの時代の前後を見ても、やはり男性が好きな相手を選ぶ「恋愛結婚」のようなものが見て取れるからです。
 例えば創世記6章1節、ノアの洪水の前の記述ではこうあります。「さて、人が大地の表に増え始め、娘たちが彼らに生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが美しいのを見てそれぞれ自分が選んだものを妻とした。」それは、見た目や自分の好みに合うことが基準の結婚でした。しかし神様の前にそれは喜ばれず、こう言われます。「わたしの霊は人のうちに永久に留まることはない。人は肉にすぎないからだ。」(創世6:3)。肉に過ぎない、と言われてしまう結びつきがそこにありました。

 しかしながらイサクは、みこころにかなう妻を得たいと願い、アブラハムの嫁取り計画を受け入れました。これは恋愛結婚か、人を介しての結婚かという2択ではありません。神に委ねる結婚というものを、イサクは選びとったのです。結果としてリベカは美しく、健康で働き者、という美点も備えていました。イサクはリベカを愛し、母亡きあとの慰めを得た、とその祝福が記されます。またこれはアブラハム契約の実現に向けて、ふさわしい一歩でもありました。

 イサクの姿は私たちに大切なことを教えます。それは、みこころに叶うことを求めて、主の導きに信頼して委ねるということです。外面的な好ましさを重視しすぎるのは、危険なことです。むしろ、主のみこころに叶うのはどのような選択であるのか、よく吟味することが必要です。
 今日のみことばをご一緒にお読みしましょう。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」(詩篇37:5)。主によって祝福を受けたイサクのように、私たちも主に成し遂げて頂いて、人生の課題に祝福を得させて頂きましょう。

<祈り>
 恵み深い天の父なる神様。イサクの結婚に見る、アブラハムの信仰の姿勢、イサクの姿勢を学ばせて頂きました。みことばをよすがに、あなたの喜ばれる道を選び取って参ります。私たちを祝福し、人生のあらゆる場面において良き実を得させて下さい。またイサクのように、静かにあなたに従い委ねる信仰を与えてください。そしてどうぞあなたが成し遂げて下った、と御名を賛美させてください。御名によってお祈りします。アーメン。