2023年10月15日(日)礼拝説教 ルカの福音書5章17-26節 「罪の赦しの宣言」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 これまでみんなは、保育園(幼稚園)、小学校、中学校、ある人は高校と過ごしています。そこで出会った友だちの中で、親しい友だちはいますか? 学校で知り合った友だち、特に小学や中学で出会った友だちは、ずっと続く友だちとなる場合がありますので、大切にしましょう。
 今、僕の高校生の時の同級生は、入院して治療を受けています。とても心配していますが、退院したら会いに行きたいと思っています。友だちって、楽しく過ごせる仲間だけではなく、大変な時とか支え合える仲間となります。皆が、友だちと助け合える、支え合える仲間となれるようにと願っています。

 さて、今日は、数人の人たちが一人の友だちをイエス様のところに連れて来た話をしましょう。
 「こまったなぁ~。どうしようか?これじゃ家の中に入れないなぁ!」お布団に人を乗せたまま、話し合っている人たちがいます。この人たちは、イエス様に会いに来た人たち、しかも友だちをイエス様のところに連れて来た人たちでした。
 先週は、ペテロたちがイエス様の弟子となった時の話をしましたね。イエス様は、ペテロたちを連れて神様の国のことを話し、御言葉を教えておられました。それだけではなく、イエス様は、多くの人の病気を癒し、悪霊を追い出しておられました。イエス様の素晴らしい働は、人から人に伝えられて多くの人がイエス様のいる所にやって来て、話を聞き病気を治しれもらっていました。ある時イエス様が、カペナウムの家で人々を教えていた時のことです。イエス様が、カペナウムにおられると知れ渡ると、方々から人々がカペナウムに押し寄せてきました。そしてイエス様が教えておられた家は、人々でいっぱいになってしまいました。

 イエス様のおられる家の前で話し合っている人たちもイエス様に友だちを治してもらいたいと願ってやってきたのです。でもどうしても家に入ることが出来ません。お布団に乗せられてやって来た人は、中風といって脳の病気のために体の自由がきかない人でした。だから4人の友人たちは、その人を布団に寝かせたまま連れて来たのです。しかしその家は、どういう状態だったでしょうか。そうその家は、多くの人たちでいっぱい、どうしても布団のまま運び入れることは出来ません。
 「どうしようか。イエス様のお話しが終るまで待とうか。」、「順番がやって来るまで待つしかないか。」などなど彼らは話し合っています。「いや、待てない。家の屋上に上って、イエス様のおられる場所の屋根を壊して、布団をつり降ろそう!!」彼らは、そう決めたら屋根に上り、イエス様がおられるあたりの屋根を「バリバリバリ、ガサガサガサ」と剥がし始めました。当時の屋根は、今のような屋根ではなく、屋根の骨組みに枝や葉っぱを敷いて、その上に土をのせて踏み固めるという屋根でした。瓦を使った屋根もあったようですが、すぐに壊すことが出来ました。家の中にいた人たちは、驚いたでしょうね。突然、天井から土埃が落ちてきて、空が見え始め、布団を下ろすほどの穴が開いてしまったのですから。すぐに壊せる屋根だとしても人の家ですからみんなびっくり、家の持ち主は慌てたでしょうね。それでも、この4人は、一刻も早く友だちをイエス様の元に連れて行きたかったのです。4人は、「イエス様、僕たちの友だちは、中風という病気で体を動かすことが出来ません。イエス様しかこの病気を治すことは出来ません。どうかお願いします。」と叫びながら友だちをつり降ろします。

 イエス様は、自分の頭の上に土ぼこりが落ちてくる中、彼らの様子をじっと見つめていました。そして彼らの信仰を見て、病気の人に「友よ、あなたの罪は赦された」と言われました。この人は、自分の病気を治してもらいたかったのです。けれどもイエス様は、「罪は赦された」と一体何の話なのでしょうか。でもこれはとても大切なことです。罪を赦すことが出来るのは、まことの神様だけです。イエス様は、神様ですから、罪を赦すことが出来るお方です。それをはっきりと教えるために、目の前の男性に「起きて、布団を抱えて帰りなさい」と言われました。するとその瞬間に、この男性は、起き上がり、布団を抱えて喜び神様を賛美しながら家に帰って行きました。それを目撃した人たちは、非常にびっくりして神様への恐れに包まれました。
 皆さん、イエス様は、あなたの罪を赦してくださるお方です。イエス様は、あなたの罪が赦されるために十字架にかかってくださいました。イエス様の十字架による救いを受け取るためには、イエス様を救い主と信じるだけです。イエス様は、今もみんなに「友よ、あなたの罪は赦された」と言ってくださいます。自分自身の心をしっかりと見つめて、罪があったら悔い改めましょう。

<祈り>
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、罪を赦してくださるお方です。そのために十字架にかかって救いの道を用意してくださり感謝します。イエス様、僕たちの罪をお赦しください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「イエスは彼らの信仰を見て、『友よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」
                               ルカの福音書5章20節

<適用>
 先週の8日(日)から9日(月)まで、福音伝道教団では、M-J大会が行われました。「M-J」のMは、「Meet(出会う)、Move(感動)、Mission(使命)、Mature(成熟)」という英語の頭文字です。Jは、「Jesus(イエス様)」の「J」です。そしてこの働きは、中高生たちが、イエス様に出会い、救いに感動し、福音を伝える使命を与えられ、御言葉によって成熟するという事を目的に行われています。今回の大会には、幼児から高齢者まで集まりました。中高生と大学生は、合わせて約40人が集まりました。とっても素晴らしい時となりました。お祈り感謝致します。私たちは、若い世代がイエス様に出会って、救いの感動と喜びに包まれ、使命をもって歩み、成長することが出来るように引き続き祈って行きましょう。
 M-J大会の前は、色々準備をしていてニュースを見ませんでしたが、大会が終わってニュースを見たらびっくりするような事になっていました。イスラエルとガザとの戦闘です。詩篇では、「エルサレムの平和のために祈れ(詩篇122:6)」と勧められています。私たちは、終末の時代に生きています。私たちは、エルサレムの平和のために、イスラエルとガザの間に平和が確立して行くように、ウクライナとロシアとの間に平和が訪れ、紛争が続く地域に主なる神様の平和が溢れるように祈り続けましょう。

Ⅰ;信仰をもってイエス様に近づく時

 さて、イエス様は、信仰をもってご自身に近づく者に、罪の赦しの宣言をしてくださいます。
 ルカは、「ある日のこと(ルカ5:17)」と書き、マルコはイエス様が「カペナウム(マルコ2:1)」にいた時のことであると書いています。先週言いましたように、イエス様は、故郷のナザレを離れて、カペナウムを伝道の拠点としておられました(マタイ4:13)。今日の箇所は、イエス様が、カペナウムにおられたある日のことの出来事です。病気の友を連れてきた4人は、イエス様のおられる家には入れないことが分かると、先ほど見たとおり、すぐにその家の屋根に上り、イエス様のいるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人を寝床のまま吊り降ろしたのです。屋根を簡単に壊すことが出来たとしても、信じられない行動です。家の持ち主はどんな心境だったことでしょうか。4人は、家主に許可を取ったのでしょうか。その場にいた人々は騒然としたことでしょう。しかし4人は、人の目を気にせず一刻も早く中風の人に癒しを与えたい、イエス様ならそれが可能だと信じていたのです。彼らの行動は、信仰から出ていることでした。だから彼らは、諦めずに行動したのです。おそらく中風の人自身もそのような信仰を持っていたのではないかと思います。
 家の中にいた人たちが騒然とする中、イエス様は何をしておられたでしょうか。イエス様は、彼らを叱ることをせず、じっとその様子を見守っていました。そしてイエス様は、彼らの信仰を見て中風の人に「友よ、あなたの罪は赦されました。」と言われました。イエス様は、イエス様を信じ信頼し、期待する人の信仰を喜ばれ決して見捨てることはなさいません。

 その場にいた律法学者たちは、「人は罪を赦すことなど出来ない、それは神様だけが出来ることだ(21)」と心の中でイエス様を非難しました。イエス様は、律法学者の心の思いを知られ、言われます(22-23)。「イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。『あなたがたは心の中で何を考えているのか。「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいか』」このイエス様の質問は、どんな意図があったのか解釈が難しいところです。肉体的な癒しは、目に見える結果が伴わなければなりません。「癒やされた」と言ってその人が癒やされなかったら恥をかくこととなります。反面、罪の赦しは、結果が人の目には見えません。だから言葉だけの表現とするなら、「罪の赦し」を宣言するほうが簡単のように思われると言うことなのでしょうか。けれども、本質的には、人の罪を赦すことも病を癒やすことも人間の力では不可能ですから、どちらも難しいことなのです。けれどもイエス様は、その両方が可能です。イエス様は、ご自身が罪を赦す権威を持っている事を明らかにするために、中風の人に「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」と言われました。するとその人は、その瞬間に癒されたのです。

 ユダヤ人たちは、病気はその人の罪と関係があると考えていました。弟子たちは、生まれたときから目の見えない人が座っているのを見て「先生、この人が盲目に生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか(ヨハネ9:2)」と言う程でした。そして律法学者たちは、病が癒やされることと、その人の罪が赦されることをセットに考えていたようです。病気を癒す事が出来れば、その原因である罪を赦す力があると言うことです。だからイエス様は、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために(24)」と言って、中風の人を癒してくださったのです。

 イエス様がこのように言われたのは、彼らの信仰を見たからです。彼らは、イエス様なら病気を治すことが出来る、イエス様なら解決を与えることが出来ると信じたのです。だから人の家の屋根を壊すという常識では考えられない行動をしたのです。イエス様を信じ、みわざを期待していたら非常識な事をしても良いという事ではありません。今では、人の家の屋根を壊したら器物損壊でしょうし、不法侵入になってしまいます。そんなことはしてはいけません。
 けれどもイエス様を信じる事を止めてはいけません。イエス様を信じ、信頼し、イエス様のみわざに期待することは中断してはいけないのです。イエス様は、信仰をもって近づく者に、罪の赦しの宣言をしてくださいます。

Ⅱ;救いの恵みを受ける

 イエス様は、罪の赦しの宣言をしてくださいます。その時私たちは、救いの恵みを受け、魂に癒しと平安を得ることが出来ます。
 イエス様の言葉を聞いて律法の専門家やパリサイ人は、心の中で「神への冒瀆を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。(ルカ5:21)とイエス様を非難しました。人の罪を赦す権威があるのは主なる神様だけなのはその通りです。このように心の中でイエス様を非難する彼らは、大切な事に気づいていませんでした。彼らは、イエス様が神の子キリストであることを認めないし、信じようとしなかったのです。イエス様が、神の国の事をはっきりと教え、多くの奇跡を行い神の力を現わしても、律法学者やパリサイ人たちは、イエス様を救い主と認めることをしませんでした。

 イエス様は、罪の赦しの権威をもっていることを明らかにするために、中風の人に「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい(ルカ5:24)」と言われました。その時彼は、「私には出来ません。起きられる力を与えてください」と言いませんでした。この人は、言われたとおりの事をしたのです。中風の人は、イエス様に言われた時、起きてみようと思ったのです。動かない体の状態のまま、起きようと思ったのです。すると起きる力が与えられました。自分の足で立ち、自分で寝床をたたみ、自分の足で歩いて群衆の間を出て行ったのです。この人は、4人の友と共に家の入り口で喜びを分かち合ったことでしょう。何と素晴らしい喜びの瞬間でしょうか。

 今日は、ルカ5章20節と24節のイエス様の言葉を心に留めましょう。一緒に読みましょう。「イエスは彼らの信仰を見て、『友よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」、「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
 イエス様は、病の癒しだけではなく、最も根本的で全ての人が必要とする罪の問題に解決を与えてくださるお方です。イエス様は、罪の赦しを宣言してくださいます。そのためにイエス様は、十字架の苦しみと死、復活を通ってくださいました。イエス様の宣言の中には、「あなたのために十字架にかかる、あなたの罪の代わりに私が十字架で神の裁きを受ける。ここに救いがあるのだ」というイエス様の身代わりの宣言があるのです。イエス様は、私たちの罪の罰を全て背負い、十字架で死んでくださいました。それだけではなくイエス様は、罪の結果である死を打ち破り復活され、罪の赦しが完全であることを明らかにされたのです。このイエス様の十字架の救いを信じる時、私たちは罪赦され、救いを受けることが出来ます。イエス様は、今でも、私たちに対して「あなたの罪は赦された」という宣言をしてくださいます。

 あなたは、罪と言う寝床に座ったまま、罪の泥沼で絶望していないでしょうか。イエス様に背を向ける床をたたんで、立ち上がってイエス様を信じ救いを受けましょう。すでにクリスチャンとして歩んでいる皆さん、私たちにも寝床を担ぎなさいとイエス様の声がかかることがあります。皆さんは、「問題」という床に座っていませんか。「悩み」と言う床に力なくうなだれることはないでしょうか。神様は、本当に自分と共におられるのだろうかという「不信仰」、神様に祈っても意味はあるのだろうか、聖書の御言葉をそのまま信じてよいのだろうかという「疑問」等々、私たちは様々な寝床に座り込み自分には無理、分からない、と言っていないでしょうか。イエス様は、寝床を担ぎなさい、たたみなさいと言われます。私たちは、イエス様を信じて、起き上がり信仰をもって歩みましょう。その時、罪の赦しと心に平安と喜びが溢れます。

<祈り>
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今もイエス様が『あなたの罪は赦された』と宣言してくださる事を感謝致します。私たちはイエス様を信じます。私たちは、罪や問題、悩み、不信仰、疑い、等という床から立ち上がり、イエス様を信じ、賛美して歩みます。イエス様、私たちの人生を祝福し、導き、喜びで満たしてください。
 イスラエルとガザ地区、ウクライナとロシア、その他紛争地域での争いが終わり、神様の平和が訪れるようにとお願い致します。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」