<子どもたちへ>
皆さんはイエス様の12弟子(のちに使徒、とも呼ばれます)の名前を知っていますか?歌で覚えた人もいるかもしれませんね。では質問します。新約聖書の4つの福音書を書いた人たちの内、12弟子のメンバーだったのは誰でしょう?ヒントは2人です…。正解は、マタイとヨハネです。福音書は12弟子やそのお手伝いをしていた人たちが書いたのです。
さて今日は、そのマタイの福音書の著者、マタイが初めてイエス様にお会いした日のことをお話します。
この人はマタイ。ガリラヤ湖のそばのカペナウムという町で、取税人をしていました。仕事の途中でマタイはため息をつきました。「ふう…仕事は順調だしお金もたくさん手に入る。でも、みんな誰も仲良くしてくれない…これでいいのかな?」マタイは悩んでいました。何故なら、マタイが集めている税金は、ユダヤを支配する外国、ローマに納められます。「取税人はローマの手先だ、悪者だ」とユダヤ人から仲間外れにされていたのです。
そこへ誰かがやってきました。イエス様です。中風の人が歩けるようになった奇跡のこと、行く先々で人がたくさん集まって評判になっていること、きっとマタイも聞いていたでしょう。そのイエス様が何の御用でしょうか?イエス様はマタイを優しくみつめて、一言こう言われました。「わたしについて来なさい」。弟子になりなさい、という意味です。マタイはすぐに立ち上がりイエス様について行きました。取税人の仕事をやめて、イエス様の弟子になる決心をしたのです。
イエス様に招かれてマタイは、「神様はこんな私のことも愛して受け入れて下さるんだ」とわかるようになりました。もう嬉しくてたまりません。そこで、自分の家にイエス様を招いて、盛大なパーティーをすることにしました。そこにはかつての仲間である取税人たちや、当時の社会では評判の良くなかった人たちも呼びました。イエス様のことを紹介したかったんでしょうね。イエス様を囲んで、とても楽しい食事会になりました。
ところがです。イエス様の周りにたくさん人が集まっていると聞いて、パリサイ人たちが様子を見にきました。すると眉をしかめて小声で弟子たちに言いました。「どうしてあなた方の先生は、罪人を呼んで食事まで一緒にするのですか?」イエス様にもその声は聞こえていて、こう言われました。「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人です。」続いて今日の聖句をご一緒に読みましょう。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」(マタイ9章13節)。
これは「私の助けを必要としている人を、救うために私は来たのだよ」ということです。神様の前に完全に正しい人は、本当は一人も存在しません。すべての人に神様に喜ばれない罪があります。イエス様はそんな罪人の罪を代わりに背負って、十字架にかかって下さいました。だから自分の罪に気づいてイエス様のもとに行く人は、本当に幸いな人なのです。
私たちもイエス様など必要ない、という生き方ではなく、イエス様の助けを頂いて行かされる生き方をしていきましょう。
<祈り>
神様、不完全な私たちを招いて下さることを感謝いたします。イエス様の助けと恵みを頂いて歩んでいきたいです。高慢になることなく、イエス様を忘れたりせず、弟子として歩ませて下さい。御名によって祈ります。アーメン。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
マタイの福音書9章13節
<適用>
私はアルバイトで歯科医院で働いていますが、時々患者さんに電話連絡をすることがあります。急なキャンセルが出た時などに、早めの処置をした方がいい別の方をお呼びすることがあります。でも、「予約のことでお電話しました」と言いますと、「え?今日でした?忘れていました?」と慌ててしまう方も結構おられます。人は自分宛てに名指しで連絡が来ると、「何かやらかしてしまったかな?」と心配になるのかもしれませんね。わけをお伝えしてはじめて、「ああ、ありがとうございます」と安堵されます。
聖書では、イエス様も私たちをお呼びになるということが出て参ります。でも唐突に呼ばれた時、私たちはわけがわからず不安になるかもしれません。けれどイエス様がお呼びになる意図がわかるなら、そのグッドニュースに安堵し、恵みにあずかることが出来ます。今日はマタイとイエス様との出会いの箇所から、イエス様が私たちを呼んで下さる恵みを学んで参りましょう。
1.罪人を招くイエス
今日の主人公はマタイです。彼の人生は取税人の仕事を選択した時から、「罪人」の烙印を押されていました。すでに見た通りです。取税人の中には私腹を肥やす者もいましたし、異邦人と密接な繋がりをもつ立場も、宗教的に「穢れた者」とみなされていました。マタイは社会からさげすまれる日々を生きていたのです。それをものともしない人もいるかもしれませんが、マタイは葛藤を覚えていたのではないでしょうか。
私が小学校低学年のときのことです。父は病気で入院しており、母は仕事をしていましたので、私は放課後いつも一人で過ごしていました。ある日、住んでいたマンションの前で、小さい子と遊びました。遊び終わって帰ろうとすると、その子のお母さんが私に向かって「仲良くしてくれてありがとうね」と言ったのです。子供心に、その語調が普通の「ありがとう」以上の意味を含んでいる気がしました。その子と遊ぼうとする子がまったくいなくて、どうしてだろうと思っていましたが、後で聞いたのはその家族は今でいう「反社会的勢力」のメンバーだったようです。親が見守りをしている家庭の子は、「あの家の子とは遊ばないように」と言われていたのかもしれません。私は何も知らずに遊んでいましたが、その子はいたって普通の子どもでしたし、お母さんも優しい人でした。子供の母として、誰からも遊んでもらえない我が子を見て、心を痛めて葛藤していたのかもしれません。人から後ろ指をさされてしまう立場の人はいつの時代もいますが、そうした人たちも、葛藤を覚えつつ歩んでいるのだと思うのです。
マタイもまた複雑な思いを抱えた一人でした。その彼に、イエス様はすべてをご存知で声をかけました。他の誰でもない、マタイに向けて名指しで呼ばれたのです。「私についてきなさい」と。これは「私はあなたを受け入れている」「ここにあなたが歩むべき道がある」という招きとも言えます。マタイは即座に取税人の仕事をやめて、新しい人生を始める決意をしました。
皆さん、イエス様は私たち一人ひとりを新しい人生に招いて下さるお方です。その招きはマタイのように良くない評判に悩んだり、自分の人生を胸を張って受け入れられない、そんな神の前での罪人に与えられるのです。イエス様は罪を自覚する者に、新しい人生を与えようと今日も招いておられます。私たちも、このイエス様の招きに今、お従いしようではありませんか。
また、イエス様の弟子となることで、マタイには新しい使命が与えられました。マタイ9章では宴席が行われたのが誰の家、とは出てきません。しかしこの記事はマルコ2章とルカ5章にも記されていて、アルパヨの子レビと言うのがマタイの本名であり、レビが盛大なもてなしの席を設けた、記されています。それは取税人の職を捨てて旅立つ前の別れの席であり、またかつての仲間たちにイエス様を紹介する機会でもありました。これはマタイにしか出来ない働きです。無意味に思われる人生に生きる目的が与えられるのです。自分の存在意義が分かるようになるのは、神様による大きな恵みです。
新しい人生、生きる目的、存在意義、そうした事柄を私たちはみな必要としています。それにはイエス様の招きに応え、イエス様と共に生きて行くことがどうしても必要です。すべてをご存知で受け入れて下さるイエス様は、私たちが従って行くべき唯一のお方なのです。あなたはこの招きにどう応えるでしょうか。はい、イエス様、あなたについて行きます、と答えるなら幸いです。
2.神の愛への応答を求めるイエス
イエス様は罪人との同席を非難するパリサイ人たちに、医者と病人の関係を引いて説明なさいましたが、更に重要なことを言っておられます。13節の「『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。』とはどういう意味か、行って学びなさい。」このみことばに耳を傾けたいと思います。
これは旧約聖書ホセア書の6章6節のみことばです。「真実の愛」と訳された言葉は、「ヘセド」というヘブル語が使われています。「神の愛」「誠実」を表す言葉です。神の誠実で完全な愛にならって私たちも神を愛し仕える、それが神の求めるところだと言うのです。
ホセア書6章6節をリビングバイブルではこう訳しています。「いけにえはいらない。わたしを愛してほしいのだ。ささげ物もいらない。わたしを知って欲しいのだ。」かなり大胆な意訳ではありますが、神様が真実に求めておられる信仰がどういうものか、見えてくるのではないでしょうか。前提として、神が人を深く愛しいつくしんでおられるということがそこにはあります。
新約聖書のヨハネの福音書3章16節はこの神の愛を端的に示しています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
またヨハネの手紙第一4章10節にはこうあります。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
イエス・キリストによって示される聖書の神は、こんなにも人格をもって愛を示される、生きたお方です。そして、この愛を知って欲しい、その愛に応え恵みを受けることを望んでいて下さるのです。
パリサイ人たちは、律法の規定を細かく守ることには熱心でしたが、神の愛を学びとることは出来ていませんでした。多くの人の宗教観は、宗教を教義と儀式、様式で捉えようとするものです。それは大切な一部でしょう。しかしキリスト教の中核にあるのは、神の愛です。罪ある者に対する神の憐れみです。それはへりくだって自らの罪を認める者にしかわかりません。神様によって、自分の真実の姿と向かい合うことが出来るよう、祈りましょう。それは容易ではないかもしれませんが、神は人を砕くことの出来るお方です。
そして愛されているものとして神を愛し、神に仕え、人を愛するものとなりましょう。これこそが、クリスチャンになるということであり、神を信じると言うことです。教会に導かれたお一人ひとりが、一人ももれることなくこの恵みを受けることが出来ますように。お祈りしましょう。
<祈り>
神様、罪人であり、あなたの前に不十分、不完全な者をみもとに招いて下さることを感謝いたします。わたしの歩むべき道はあなたの元にこそございます。どこまでもあなたについて参ります。どうぞ生涯にわたり右にも左にもそれない信仰をお与え下さい。また、あなたが圧倒的な愛をもって愛して下さることを感謝いたします。御子イエスの十字架に示される愛に応えるにはあまりにも小さいものです。しかし、捧げうる最善の愛と賛美をもってあなたにお仕えしたく願います。あなたのみこころから外れやすいことをいつも覚えて、常にあなたのみことばをこころに書き記し、神と人とを愛する歩みへとお導き下さい。御名によってお祈りします。アーメン。