<子どもたちへ>
アメリカの野球(大リーグ)で活躍している大谷翔平選手が、ドジャースに移ることとなりましたね。大谷翔平選手は、ピッチャーとしてもバッターとしても大活躍ですから、どのチームに行くのかアメリカだけではなく、世界中が注目していて、大騒ぎでした。そしてドジャースに決まったのですから、やはり大ニュースです。来年はバッターで出場すると言うことで活躍が楽しみです。
さて、大ニュースといえば、マリアが聖霊によって身ごもったという知らせもそうですね。先週は、御使いがマリアに現れて、マリアが聖霊の力によって身ごもり救い主を産むという知らせがあったというお話でしたね。マリアは、神様を信じて、「神様のお言葉通りになりますように」と祈りました。しかし、この知らせを複雑な気持ちで受け止めていた人がいました。婚約者であるヨセフです。
「う~ん、困ったことになったぞ。マリアのお腹に子どもが与えられたようだ。誰の子どもなのだろうか。」ヨセフは、マリアの妊娠が判明してからずっと悩み続けています。周りの人たちからは、「マリアは、ヨセフを裏切って他の男の人と関係を持ってしまった」と言われたかもしれませんね。
「マリアからは、『御使いが聖霊によって身ごもると言っていた』と聞いた。でもそれは本当なのだろうか?ユダヤの律法(教え)では、結婚する前に子どもを宿すようなことがあれば、裁きを受けなければならないと教えられている。それはかわいそうだ。問題の解決のために何か方法はないものだろうか。」ヨセフの悩み恐れは、尽きることがありません。「そうだ、正式に文書を書いて、離婚しよう。それが一番良いかもしれない。」ヨセフは、マリアとの婚約を解消して離縁することにしようと考えていました。
そんなことを考えいてたある夜、ヨセフは不思議な夢を見ました。夢に御使いが現れて、ヨセフに大切なことを伝えます。神様は、ご自身のご計画を夢で教えてくださることがあったのです。御使いは、「恐れることなく、マリアを妻として迎えなさい。マリアは、他の男の人と関係を持ったのではありません。マリアは、聖霊なる神様によって身ごもったのです。マリアから生まれてくる子は、男の子です。名前をイエスとつけなさい。この子は、約束されていた救い主です。」ヨセフは、マリアが間違ったことをしたのではないと知りました。もう恐れることはありません。不安もなくなりました。ヨセフは、神様を信じて、マリアの身に起こったことを受け止め、マリアを妻として迎える決心をしました。
マタイの福音書にはこれは、預言者の言葉が成就するためであったと言われています。マリアから生まれる男の子は、救い主であり、インマヌエルと呼ばれるお方です。インマヌエルとは、「神様が共におられる」という意味があります。ヨセフは、神様が共におれることを信じました。何が起ころうとも神様が共にいてくださる。これは、神様の確かな約束です。
2023年もあと少しで終わります。皆は、どんな1年を過ごしてきましたか。良いこともあれば、嫌なこともあったでしょう。問題や悩むこともあったかもしれませんね。これからも僕たちには、いろいろなことが起こります。その時、僕たちは神様に祈りましょう。神様は、みんなと共にいてくださいます。だから大丈夫です。神様は、僕たちと一緒にいてくれます。僕たちは、いつも「神様が一緒にいるから大丈夫」と告白して歩みましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様は、マリアの身に起きたことを知りビックリするヨセフに、語りかけてくださいました。神様は、ヨセフと共にいて導いてくださいました。今も神様は、僕たちと一緒にいてくださることを信じます。神様、僕たちの毎日の生活を守り、導いてください。
イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」 マタイの福音書1章21節
「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」 マタイの福音書1章23節
<適用>
先週は、大谷翔平選手がどのチームに移籍するのか大きな話題となり、ドジャースというチームに移籍する知らせで世界中が興奮していました。大谷翔平選手といえば、通訳としていつも一緒にいた水原一平さんが気になるところです。水原さんも一緒にドジャースに行ったようですね。水原さんは、誰よりも大谷翔平選手の近くにいて、誰よりも大谷翔平選手と一緒にいる人として有名です。水原さんがなぜ大谷翔平選手の近くにいつも一緒にいるのかというと、いつでも通訳としての仕事をして、大谷翔平選手をサポートするためです。
みなさん、神様は私たちと共におられます。それが私たちへの変わらない神様の約束です。ヨセフの姿から学びましょう。
Ⅰ;思わぬ事態の中でも
神が私たちと共にいます。それは、思わぬ事態の中でも変わらない約束です。ヨセフが直面した出来事は、神様から見たら計画の通りですが、人間の側から見るとそれは思わぬ事態としか思えるものでした。ヨセフは、まさに人生を揺るがす出来事を目の前にしていました。彼は、一人悩むのです。けれども神様は、まさにその思わぬ出来事の中でも共にいてくださいました。
ヨセフは、マリアと婚約していました。ユダヤ人の婚約期間は、およそ1年あり、その間婚約した二人は法的に夫婦と認められるのです。この婚約期間後に二人は、正式な婚礼によって夫婦となり、二人の生活が始まります。ですからマリアは、婚約期間を両親のもとで過ごしていたのです。しかしこの婚約期間中にあってはならないことが起きてしまいました。マリアが妊娠するという事態が発生したのです。18節には、「身ごもっていることが分かった」とあります。この「分かった」というギリシャ語には、「判明した」という意味もあります。マリアの身に起きたことは、ヨセフにとって予期せぬ出来事です。マリアは、御使いの知らせを受けたとヨセフに伝えたかもしれません。でも聖霊による妊娠などヨセフにとって信じられるものではありませんでした。ヨセフにしたらまさに「寝耳に水」「晴天の霹靂」と言った感じです。そしてこのような事態には、早急に対応する必要がありました。
なぜならば、ユダヤの律法では、姦淫の罪を犯した者は、裁きを受けなければならないという法律があったからです。ヨセフは、ユダヤ人として律法を忠実に守る正しい人でした。その正しさゆえに、婚約者でも姦淫の罪を見過ごすわけにはいかなかったのです。けれどもヨセフは律法に従うという気持ちだけではなく、マリアをさらし者にしたくないという愛も持っていました。ですからヨセフは、表沙汰になる前に解決しなければなりません。人生最大のピンチです。ヨセフの苦悩ぶりを想像することが出来るでしょうか。ヨセフが出した答えは、律法に従って正式に証人を立てて離婚状を作成してマリアと離縁することでした。この方法は、マリアをさらし者にしないですむのです。ヨセフは、律法に従って考え決めていきますが、彼の心の中にはそれでも、どうにかならないだろうかという思いがあったのです。ヨセフは、マリアにとって何が最善かを考え、神様の御心は何かを祈り求めていたのではないでしょうか。「思い巡らす」とは、祈り求めていたと言っても良いのだと思います。ヨセフは、思わぬ事態に遭遇して、主に祈る信仰を持っていました。それが次の段階へと彼を導くことになりました。
ヨセフが思い巡らしていた時に、御使いが夢の中でヨセフに語ります。何で神様は、もっと早くヨセフに語りかけてくださらなかったのでしょうか。もしかしたら、ヨセフはこんなにも悩む事はなかったかもしれません。けれども私は、ヨセフにとってこの悩みの時間は必要だったと思うのです。ヨセフは、悩み、思い巡らした時間があったからこそ、御使いの言葉を聞いて信じることが出来たのではないでしょうか。もし、マリアが、自分の潔白を訴えてヨセフを説得しようとしたら、ヨセフは耳を傾けなかったでしょう。二人の溝は深まるばかりとなります。そして神様がすぐにヨセフに語りかけたとしても、ヨセフは信じ難いと受け入れられなかったのではないでしょうか。ヨセフにとっては、苦しい経験でしたが、実は、神様の御声を聞き、従うために必要な時間だったのです。
神様は、ヨセフを見放していたわけではありません。ヨセフが苦悩していた時、神様は共におられ、彼の苦悩をご覧になっていました。そして神様は、一番良い時に、一番良い方法でヨセフに語りかけてくださったのです。神様は、私たちと共におられます。私たちは、何か思わぬ出来事に直面する時、何を考え、どんな感情を持つでしょうか。「神様がいるならどうしてこのようなことが起こるのか。神様は何をしているのか」など不平不満な思いが心に渦巻くでしょうか。そのような感情は避けられないかもしれません。しかしヨセフの経験は、神様がどんな時も共にいてくださると教えています。思わぬ事態の中にあっても、神様は私たちと共におられます。
Ⅱ;大丈夫です。
神が私たちと共におられるので、私たちは大丈夫です(恐れることはありません)。私は、御使いがマリアに語る「恐れることはありません。」とヨセフに語る「恐れずに」という言葉は、「大丈夫だよ」という神様からの励ましの言葉に聞こえます。確かにヨセフへの知らせは、ヨセフを大いに慰め励まし力づける知らせであり、預言の成就の知らせでもありました。ヨセフが苦渋の決断をして一つの方向を考えていたまさにその時、神様の介入がありました。ヨセフは、夢の中での御使いの言葉によって、本当に取るべき道が示されたのです。それは実に素晴らしいことでした。20-21節。何と言う慰めでしょうか。マリアは、自分を裏切ったのではなく、間違いを犯したわけでもありません。マリアの身に起きたことは、まさに神様のみわざであり、聖霊の働きでした。さらに生まれる子は、「男の子」であり、預言者が預言していた救い主で、名前は「イエス」とつけるのです。「イエス」という名前は、ヘブル語では「ヨシュア」、「主は救い」という意味です。マリアが宿している子は、すべての人を罪から救う救い主であることがヨセフに告げられたのです。ヨセフの問題は、これで解決しました。ヨセフは、すべて神様の導きの中にあることに平安を得ていきます。周りの人たちは、ヨセフとマリアの説明を素直に受け入れることはなかったと思います。ヨセフとマリアは、周りからいろいろなことを言われたと思います。けれども二人は、大丈夫なのです。なぜなら、神様が共におられ、神様がご自身の御手の力で導いて下さるからです。
私が小学4年生の時のことです。私は、友だちにいじめられ、馬鹿にされていた時期がありました。普段は仲の良い友だちなのに、何故か嫌なことを言われました。私が一人で下校していた時、夕方「赤松君、今日はどうしたの、一人で帰っていて、寂しそうに見えたけど」と担任の先生から電話がありました。「どうした?」と聞かれて私は、なんと言って良いか分かりませんでした。友だちがどうして嫌なことを言ってくるのかその理由も分かりませんでした。私は、先生にちょっと嫌なことがあったけど大丈夫だよと答えたように記憶しています。それよりも私は、担任から電話をもらった時に、嫌なことがあっても見ていてくれる人がいて、声をかけてくれたということが嬉しくて、「先生がちゃんと見ていてくれているから、大丈夫なんだ」と感じたのを覚えています。振り返ってみると私たちは、誰かに見守られ支えられて来たのではないでしょうか。私たちも周りの人たちを見て、声をかけていきましょう。そして救い主イエス様が共におられること、主なる神様が「大丈夫だよ」と声をかけてくださることを伝えましょう。もしそのようなことがあったら、その人のために祈ってあげてください。そこに主は働かれます。
皆さん、神様は私たちと共にいてくださいます。それは、ダビデの子孫であるヨセフが選ばれたことにも現れています。マタイは、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図(1節)」と福音書を書き出しています。神様は、アブラハムを選び、アブラハムを通してすべての民族が祝福を受けるとの約束を与えました(創世記12:3)。アブラハムの子孫にエッサイが生まれ、ダビデ王が生まれます。神様は、ダビデを選びイスラエルの王とし、その王座がとこしえに続くと約束をされました(Ⅱサムエル記7:11-16)。その子孫がヨセフです。ヨセフは、ナザレという小さな村で、大工をしているのです。どこにダビデ王家としての栄光があるのでしょうか。イザヤは、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ(イザヤ11:1)」と預言していました。まさにイザヤが預言したように、ダビデ王家は、根株だけが残された状態でした。けれども神様は、預言者を通して語っておられたように、ダビデの根株であるヨセフを選び、ヨセフがマリアを迎えるように導き、救い主がダビデの家系から生まれるようにされたのです。
こうして救い主預言は、イエス・キリストによって成就するのです。イエス様は、私たちを罪と裁きから救ってくださるお方です。全ての人は、神様の前に罪人です。誰もが神様の前に罪を持ち、誰もが神様の裁きを受けるべき存在です。けれどもイエス様は、違います。イエス様は、神であるにもかかわらず、この地に人としてお生まれ下さいました。そしてイエス様は、人として完全に正しく、罪のない生涯を歩まれました。だからこそイエス様は、すべての人の罪をその身に負い、私たちの身代わりになることが出来るのです。イエス様こそ、私たちを罪から救ってくださるお方です。そしてイエス様こそ、私たちと神様との間に平和を与え、私たちが神様の恵みを受けることが出来るようにしてくださるお方なのです。
インマヌエルと呼ばれる救い主は私たちに罪の赦しを与え、私たちと共におられ、神様からの祝福を与えてくださるのです。
イエス様は、今も私たちと共におられます。神様は、私たちの手を取り導いてくださいます。私たちは、どんなことを問題と感じ、どんな悩みを抱えているでしょうか。私たちは、そのような悩みの中で祈りつつ考え、考えつつ祈ります。その時忘れてはいけないことは、神様は私たちと共にいて、私たちを見ていてくださるということです。神様は、私たちの祈りを聞き、私たちの問題、悩みをご覧になるのです。そして神様は、ちょうどよい時に、語り掛け、導きの手を差し伸べてくださるのです。そして「恐れることはない。大丈夫だよ」と言ってくださるのです。私たちが悩む時、私たちは決して一人ではありません。神様が、私たちの悩みや問題の中にあって私たちと共におられます。私たちは、悩んだら祈りましょう。祈ったら考えましょう。そして私たちの考えが神様によって導かれるようにさらに祈りましょう。神が私たちと共にいます。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様は、思わぬ出来事の中にあっても私たちと共にいてくださることを感謝致します。ヨセフとマリアに「恐れることはない、大丈夫だよ」と語りかけた神様が、今も私たちに「恐れることはない、大丈夫だよ」と語りかけてくださる事を信じます。そして神様は、私たちに御手を伸ばし、導いて下されることを感謝致します。
私たちが、共におられる神様によって慰めと励ましを与えられていることをありがとうございます。この神様の恵みを証しすることが出来るように導いてください。
クリスマスを覚えて過ごすこの時、神様からの平和が一人ひとりの心に与えられますように。みこころが天で行われているように、地でも行われまるようにとお願い致します。
この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」