2023年12月31日(日)礼拝説教 マタイの福音書2章1-12節 「心の王座に迎えて」説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 天気の良い冬の空を見上げると、たくさんの星を見ることが出来ます。冬の空で何か知っている星座はありますか?僕は、「オリオン座」をすぐに見つけることが出来ます。そしてそれに隣り合わせている「冬の大三角」は分かります。
 イエス様がお生まれになった時、不思議な星に導かれてベツレヘムに旅をした人たちがいます。それは、東の国の博士たちです。

「さあ、今日も星を見て研究をしよう。」博士たちは、夜空を眺めて星を研究する人たちでした。「おい、あの星は何だろうか?とっても大きくて、どの星よりも輝いて見えるぞ」一人の博士が、不思議な星を発見しました。「本当だ。きっと何か特別な意味がある星かも知れない。調べてみよう。」一緒にいた他の博士たちも、一生懸命に調べ始めました。博士たちは、たくさんの巻物(本)を調べて、一つの書物に「ヤコブから一つの星が進み出る。」という言葉を発見しました。それは、旧約聖書の民数記24章17節の言葉です。
「見つけたぞ、これじゃないか。あの星は、ユダヤ人たちが待ち望んでいた救い主の誕生を知らせるものではないだろうか」
「そういえば、旧約聖書には多くの預言者たちが、救い主が来られるという預言していた言葉が書かれてあるよね。」
「主なる神が預言者を通して伝えていた新しい王(救い主)がお生まれになったに違いない。それなら、それを確かめておかないと駄目だね。そしてその方を礼拝しよう。ユダヤ人の王がお生まれになったのならエルサレムに決まっている。」

 こうして博士たちは、遠い東の国から1,000km以上離れているエルサレムへの旅を始めました。ちなみに「博士たち」とありますが、良く3人の博士たちと言われています。贈り物が3つだからです。実際には博士が何人だったのかは分かりません。博士たちは、何日も、何日も旅を続けて、ようやくエルサレムに到着しました。新しい王に会えるという期待で興奮している博士たち。しかしエルサレムでは、新しい王が生まれたようなお祝いムードはありません。博士たちは、王宮のヘロデ王を訪ねて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか?」と聞くのです。ヘロデ王としては、初耳の情報です。「そんな知らせは受けていないぞ、一体誰のことを言っているのか?もしかしたら、旧約聖書で預言されている救い主キリストの事だろうか。」ヘロデは、自分以外にユダヤ人の王がいては困るし、自分の地位を脅かす存在がいては大問題です。ヘロデ王は、すぐに祭司長や律法学者を呼びました。そして救い主がどこで生まれるのか確認したのです。祭司長や律法学者たちは、旧約聖書に精通した人たちですから、「キリストは、ユダヤのベツレヘムで生まれます」とすぐに答えを導き出すことが出来ました(ミカ5:2)。救い主は、ベツレヘムでお生まれになるのです。とうとう救い主が生まれた場所が分かりました。ヘロデ王は、「救い主がいる正確な場所が分かったら知らせてもらいたい、私もいって礼拝したいから」と博士たちに伝えました。ヘロデが、救い主イエス様の居場所を知りたかったのは、礼拝するためではありません。救い主を抹殺してしまおうと考えたからでした。 

 「ベツレヘム」という貴重な情報を得た博士たちは、一路ベツレヘムに向かって出発です。すると東の国で見つけた星が、再び現れました。その星は、博士たちを幼子がいる家に導き、その家の上でとまりました。「おおー、あの家の上でとまったぞ!」「あそこに救い主がおられる!」博士たちは、心の底からの喜びに包まれました。この時、「家」とありますから、すでに家畜小屋ではなく、ヨセフとマリアは、家を借りて住んでいたことが分かります。博士たちは、さっそく家の中に入り、幼子の前にひれ伏して礼拝しました。そして「黄金」「乳香」「没薬」という高価な贈り物をささげました。その晩、博士たちは、ヘロデの所に戻らないようにという神様の言葉を聞いて、別の道から自分の国に帰って行きました。

 博士たちは、イエス様のおられる家を見つけて、とても喜びました。博士たちの心は、救い主を礼拝するという気持ちで一杯でした。僕たちは、どのような気持ちで礼拝しているでしょうか。僕たちは、博士たちと同じように、イエス様を心の中心にお迎えし、喜びに溢れて礼拝しましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今日も主なる神様を礼拝できることを感謝致します。2023年が神様によって守られたことを感謝致します。僕たちは、心にイエス様をお迎えし、喜びをもって神様を礼拝します。2024年も神様を信じ、礼拝して歩みます。どうぞ導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「主は私たちの王、この方が私たちを救われる。」    イザヤ書33章22節
「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」       マタイの福音書2章10-11節

<適用>
 「憧れるのを止めましょう。」今年の流行語として選ばれていた言葉です。今年の流行語大賞は、阪神タイガースの「アレ(A.R.E.)」でしたが、大谷翔平選手の「憧れるのを止めましょう」という言葉は、多くの人の心に残っているのではないでしょうか。野球の世界一を決めるWBCの決勝戦は、日本対アメリカでした。大リーグの選手は、野球選手として一流の人たちですから、憧れの的です。しかし、日本チームの選手たちの心が、相手チームの選手への憧れで支配されていたら、その選手に勝つことは出来ません。だから大谷選手は、憧れを止めて、打ち負かす気持ちをもって戦おうと言いたかったのでしょう。
 私たちの心は、いつも何かに向かっています。そして私たちの心にある何かが、私たちの生き方に影響を与えます。私たちの心の中心には、何があるでしょうか。私たちは、イエス様を心の王座に迎えて歩み、礼拝することを大切にしていきましょう。

Ⅰ;自分の思いを優先する人々

 「心の王座に迎えて」生きるという事を考えた時、何を迎えるのかが重要になって来ます。まず、こうであってはいけないという反面教師の姿を見ることにしましょう。それは、ヘロデ王と祭司長や律法学者たちの心の在り方です。

 ヘロデは、ローマ皇帝からの任命を受けて、ユダヤ州を治める王となりました。ユダヤの王というのは、ダビデ王朝に属する人がなるはずなのです。しかしダビデ王とは全く関係のないヘロデが、ユダヤの王という地位を得ることとなりました。ヘロデという人は、優秀な王であったようですが、優秀ゆえに自分の地位に固執し、懐疑的になってユダヤ人の王という自分の地位を守るためには、自分の息子でも容赦なく処刑するほど残虐非道な事をする人物でした。そんなヘロデが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」という博士たちの言葉を冷静に聞けるはずがありません。ヘロデはすぐに、「キリスト抹殺」という計画を思いつきます。しかしその計画を博士たちに悟られてはいけません。本当にヘロデがキリストを礼拝したいなら、博士たちと一緒に行けばよいだけのことです。しかしヘロデは、博士たちと一緒に行動することはありませんでした。なぜなら「キリストの誕生」というのは、ヘロデにとって不都合なことであり、あってはならない出来事だからです。ヘロデの心は、猜疑心で満ち溢れ、自分の地位や自分の名誉を求めるという自分の思いを優先していました。だからヘロデは、まことの信じる神様を求めることなく、聖書の言葉に耳を傾けることもしませんでした。

 祭司長や律法学者たちの心は、どこに向いていたのでしょうか。彼らは、ユダヤ人の指導者で、旧約聖書に精通し、律法を人々に教え、神様に仕えていた人たちです。祭司長たちや律法学者たちは、「キリストはどこで生まれるのか」とヘロデ王に聞かれた時、「ユダヤのベツレヘムです。」と預言者ミカの言葉を引用して答えることが出来ました。しかも自信をもって素早く答えるのです。しかし残念ながら彼らもユダヤ人の王、キリストの誕生を喜ぶことはありませんでした。もしかしたらヘロデの目が気になっていたのかもしれません。キリストの誕生をことさら喜んだら、自分たちの命が危なくなると考えたのかもしれません。それは、エルサレムの人々も同じような気持ちだったようです。ユダヤ人の王、救い主がお生まれになったことを大喜びしたら、ヘロデに何をされるか分からないし、ヘロデがどんな暴挙にでるか分からないのです。

 けれども、祭司長や律法学者たちの心には、別の思いもあったのではないでしょうか。それは、神様が預言者を通して語っておられた救い主の預言を真剣に信じていなかったという事です。祭司長たちは、「ユダヤ人の王のお生まれを告げる星を見た」という東方の博士たちの知らせを聞いて、「そんなはずはない。そんなことがあるはずがない」と思っていたのではないでしょうか。祭司長、律法学者たちは、聖書の知識を誰よりも持っていたはずです。けれども彼らは、聖書の言葉を神様の言葉、神様の恵みの約束とは受け取らず、興味も示していません。彼らの持っていた聖書知識は、彼らの信仰の原動力、生きる力とはならなかったのです。
 ヘロデ王も祭司長や律法学者たちも、自分の思いを優先する人たちでした。私たちは、どのような心で御言葉を聞きますか。私たちの心の中心には、どんな思いがあるでしょうか。

Ⅱ;情熱と喜びをもって

 私たちは、「情熱をもって」イエス様を心の王座に迎えましょう。
 東方の博士たちは、単純に計算してもエルサレムまでの距離は、1,000㎞以上あったはずです。けれども彼らは、一つの星に導かれて、いつ終わるか分からない旅に踏み出していったのです。私は、東方の博士たちの行動には、救い主イエス様への情熱的なものを感じます。
 本当にユダヤ人の王が生まれたのか確証などありません。周囲の人々は何と言ったでしょうか。博士たちは、奇跡的な神のわざとしか言えない不思議な星によって駆り立てられ、居ても立ってもいられず、行動に移すのです。彼らが、イエス様を礼拝するために費やした時間や苦労、直面しただろう危険は、私たちの想像をはるかに超えています。異邦人の博士たちが救い主の誕生に関心を示し、すべてを投げ出して礼拝するのです。そこには、「何を差し置いても、ユダヤ人の王、キリストを礼拝しなければならない。」そんな熱意が感じられます。

 私たちは、今、救い主イエス様によって救いが与えられ、多くの恵みを受けています。そして今、私たちは、神様の大きな愛を受けています。この愛は、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる(イザヤ9:7)」と言われているように、神様ご自身の熱心(情熱)です。ですから私たちも、熱心に情熱をもって神様を愛し、礼拝しましょう。

 そして私たちは、喜びをもってイエス様を心の王座にお迎えしましょう。博士たちは、「喜びをもって」礼拝した人たちでした。博士たちは、星に導かれてベツレヘムに向かいます。この星は、まったく自由に動き、博士たちを先導して行きました。そして幼子イエス様のいる家の上にとどまりました。それを見て博士たちは非常に喜びました。その喜びは、長い旅が終わった喜びです。また発見した星が間違いなくユダヤ人の王の星であったという学術的な証拠を得ることが出来たという喜びだったでしょう。しかしそれ以上に、やっとユダヤ人の王、救い主にお会いできるという喜びです。マタイ2章10節の「彼らはこの上もなく喜んだ」は、「彼らは感激の喜びで、身震いした。」と訳すことが出来ます(詳訳聖書)。博士たちは、喜びと感謝でいっぱいになり、踊りあがってイエス様を礼拝しました。

 この「礼拝した」というのは、ギリシャ語の「プロスクネオー」と言う言葉です。この言葉には、「拝む、身を低くする、相手を高める、敬意を示す」という意味があります。博士たちは、地べたに身を横たえるようにして身を低くして幼子イエス様を礼拝したのです。彼らは、自分の国ではある程度の地位を築き上げていたでしょう。それは、ヘロデ王に謁見できたことからも分かります。その彼らが、一人の幼子の前に全てを投げ出してひれ伏しているのです。それだけではなく博士たちは、黄金、乳香、没薬という高価な贈り物をしています。贈り物一つ一つの意味よりも、博士たちが贈り物を用意していたという事に注目しましょう。彼らは、ユダヤ人の王・救い主を礼拝するために、自分たちの用意できるものの中で最高のものを用意したのです。そして博士たちは、用意した贈り物を喜んで心から捧げています。
 私たちは、イエス様を心に歓迎し、イエス様の救いと神様の愛を喜び、心から礼拝しましょう。

Ⅲ;私たちの心はどうでしょうか

 イエス様を心の王座に迎えるという考えた時、私たちの心はどうでしょうか。この一年の私たちの礼拝の姿勢、私たちの心は何に向かっていたでしょうか。
 私が高校生の時、国語の授業で「遠い(く)・近い(く)」で様々なことを表現するという、いわゆる「言葉遊び」をしたことがありました。例えば、「遠くて近い蕎麦屋さん」です。「蕎麦(そば)」を「側(そば)」とかけて、「近い蕎麦屋」と表現します。「近くてとおい、おもちゃ屋さん」。「おもちゃ」は、英語で「Toy(トイ)」です。等いろいろあります。
 この表現を使うなら、ヘロデ王の心は、神様から遠く、イエス様からも遠いという事になるでしょうか(遠くて遠い心)。祭司長や律法学者たちの心は、神様の預言に近く、イエス様には遠い存在となっていると言えるでしょう(近くて遠い心)。東方の博士たちの心は、神様の御言葉に近く、イエス様にも近い心(近くて近い心)と言うことが出来るでしょう。

 私たちとイエス様との距離感は、どのようなものとなっているでしょうか。イエス様に対する私たちの心の態度について4つの見方が出来ると思います。一つ目は、神様を信じないで、神様を求める心もない「遠くて遠い心」、イエス様を心から締め出す心です。二つ目は、神様を信じてはいないけれど、神様を求める心がある「遠くて近い心」イエス様を心にお迎えする準備をしている段階です。三つ目は、神様を信じているけれども、心が神様から離れている「近くて遠い心」、イエス様を心の片隅に追いやっている状態です。そして四つ目は、神様を信じていて、心が神様に満たされている「近くて近い心」、イエス様を心の王座にお迎えしている心です。私たちは、神様に「近くて近い心」、心の王座にイエス様をお迎えする心となっているかどうかチェックしましょう。イエス様を心の王座にお迎えする時、私たちは、喜びと感動に包まれて主を礼拝することが出来ます。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。東方の博士たちは、イエス様を心の王座に迎え、心から情熱をもってそして喜びをもって礼拝しました。私たちもイエス様を心の王座に迎えます。イエス様、私たちの心を、思いを、祝福で満たしてください。私たちの礼拝を導いてください。
 2023年が神様によって守られ支えられたことを感謝致します。2024年も神様によって歩み、心の王座に主イエス様をお迎えして歩むことが出来るように導いてください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」