<子どもたちへ>
毎日寒いですが、新学期が始まって3週間になりました。みんな学校や部活など、色々と頑張って過ごしていることでしょう。
さて、皆さんは今なにか心配なことはありますか?「勉強についていけないよ」とか「体力が続かなくて大変」とか、不安に感じている人もいるかもしれませんね。また元日の大地震のニュースを聞いて、自分のところは大丈夫だろうかと、漠然と心配になっている人もいるかもしれません。生きていると大人も子供もいろいろと悩みはあります。
イエス様は、そんな私たちに「心配しなくていいのです」と教えて下さいました。先週に続いて、山の上でのイエス様の説教から学んで行きましょう。
イエス様は、お話を聞きにきた人たちを見回してこうおっしゃいました。「空の鳥を見てみなさい」。そこにはピチュピチュ、チュンチュンとさえずる野鳥が来ていたのでしょうね。「この鳥たちは種まきや収穫をしてエサを確保しているわけではありません。神様が必要を与えて下さるから、生かされているのです。あなたたちは鳥よりもっとすぐれた存在です。ですから心配しなくても神様が生かして下さるのです」。
また近くに咲く花を指して言われました。「野の花を見てごらん」。そのあたりには、きれいなお花が自然に生えて咲き誇っていました。「イスラエルで一番栄えていたソロモン王様の立派な服よりも、この花の方がずっときれいです。神様がこんなに美しく作って下さっているのです。あなたたちにも十分良くして下さることを忘れてはいけませんよ」。
イエス様がこうおっしゃったのは、私たちに思い出させるためでした。私たちのことを心にかけ、良いものを与えて命を支えようとして下さる天の父なる神様がいるでしょう、だから大丈夫なのです、と。
将来のこと、健康のこと、お金のこと、子供でも心配になることは色々あります。でも自分でどうすることも出来ないことを思い煩うのをやめましょう。心配する代わりに神様を信頼してお祈りしましょう。
そして心配を追い出した心に、今日のみことばをしっかりととどめたいと思います。「まず神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)。私たちの心がまず一番に神様に向いて、神様を中心に歩み始めると、不安が取り除かれて行きます。もちろんやるべきことをする、備えていくというのは必要です。イエス様は「苦労はその日その日に十分あります」(34)と言っておられ、私たちが毎日頑張っていることを見ていて下さるのです。ですから、何でも神様に打ち明けてお祈りし、神様がして下さることに期待する信仰を持ちましょうね。
<祈り>
神様、私たちは毎日のことで精一杯になってしまい、心配でどうしていいか分からなくなることがあります。でも今日、神様に信頼して期待していいと教えて頂きましたからありがとうございます。心配を積み重ねることをやめて、神様が望まれることを一番に考える生活をしたいです。どうぞお導き下さい。御名によってお祈りいたします。アーメン。
「まず神の国と神の義を求めなさい。」 マタイの福音書6章33節
<適用>
能登半島地震から早くも4週間が過ぎました。被災地の厳しい避難生活の様子が報道されていますが、衣食住のすべてにおいて深刻な状況が続いているようです。1年で一番寒さの厳しい時期でもあり、なんとか救援が届いて乗り越えて頂きたいと願わずにいられません。
一方で平時の生活においても、私たちの思いを占めることの大半は、生活の必要だったりします。もちろん将来への見通しを持つことや、必要な備えをすることは欠かせません。けれどもいつの間にか、不安や思い煩いにおおわれてしまい、主にある自分を見失ってしまう危険に私たちはさらされています。
そんな迷いやすい私たちに、イエス様は「信仰の薄い人たちよ」(30節)と言われ、どう歩んだら良いのか語り掛けて下さいました。今日のマタイ6章は山上の説教のクライマックスとも言える箇所です。神様を人生の主と仰いで、神の国と神の義を第一に生きるように、との主のみ教えに耳を傾けて行きましょう。
1.お従いすべきは神様のみである
今日の箇所の直前でイエス様はこう語られました。「だれも二人の主人に仕えることはできません。…あなたがたは神と富とに仕えることはできません」(24節)。イエス様は私たちがお金や生活の問題に支配されやすいことをご存知です。何故ならお金や財産は、わかりやすく将来を保証するからです。財産や物質的なことを追い求める誘惑は、神様に信頼しないという誘惑でもあります。しかし「2人の主人に仕えることはできません」。
「富」という言葉が出てきましたが、この言葉について忘れられない思い出があります。神学校の恩師である津村敏夫先生がある時、富というギリシャ語「マモン」についてこういっておられました。「これを読むといつも『マッモーン!』と叫ぶ怪物を思い浮かべてしまうんです」。冗談をいうタイプの先生ではないのですが、「マッモーン!」と熱演して下さったので、よく覚えています。これは神に敵対して私たちの主人、ひいては偶像になろうとする、富やこの世の価値観「マモン」をよくとらえているのではないかと思います。
富やこの世の背後では、サタンが私たちを陥れようと、虎視眈々と狙っています。私たちは知らずしらずにこの「マモン」に支配されることがないように気をつけて歩みましょう。本当に従うべき、頼りにすべき父なる神様の側に、しっかりと立とうではありませんか。
2.思い煩っていけない
「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい」(25)。
「心配するのをやめなさい」ということばは、他の箇所では「思い煩うな」と訳されています。ですからここも「思い煩ってはいけません」と読むことが許されるでしょう。
ここ25節と31、34節で、イエス様はくりかえし、「思い煩ってはいけない」と語っておられます。これは命令の形で記されています。またこの言葉は、「違う方向に引っ張る、バラバラにする」というニュアンスもあります。思い煩いは私たちを引き裂き、人生を破壊しかねないものです。そんな危険なあり方に留まり続けてはいけないと、イエス様は警告して下さったのです。
ではどうしたらよいのでしょうか。私たちにイエス様は、学ぶべきモデルを示して下さいました。それは空の鳥であり、野の花です。論文を読めとか、修行をしてこい、ではありません。あまりに素朴ですが、私たちが学ぶこころを持って見つめるならば、そこに尊い真理が秘められています。
鳥から学べる事、それは自分で自分を生かしているのではない、神に生かして頂いているのだということです。主語はあくまでも神様です。父なる神は私たちを大切な存在として私たちを養って下さるお方です。この信仰、信頼が、私たちにあるでしょうか。
また花から学べることは何でしょうか。自分の人生をよりよく、自分らしく輝かせるのが「装う」ことだとしたら、何がそれを可能にするのでしょうか。お金でしょうか、学歴でしょうか、容姿でしょうか、才能でしょうか。イエス様はここでも主語は「神」だと言われました。「神が装って下さる」。そしてそれを信じきれない、期待していない者を「信仰の薄い人よ」と嘆かれました。
日本福音ルーテル教団のミカ・ラトヴァラスク宣教師は、ここを次のように表現されました。
〇天の父「私はお前のことを心に留めている。」
□思い煩い「心に留めるですって。本当でしょうか。」
〇天の父「わたしは世の終わりまで、いつもお前と共にいる。」
□思い煩い「もしいなかったら?」
〇天の父「私はお前に必要な糧を今日も与える。」
□思い煩い「もし与えて下さらなかったら?もし与えてくださった糧が良いものでなかったら?」
「私たちは思い煩うことで何を言っているのかお分かりになりますか?『天の父、あなたは父の名に値しません。なぜなら、あなたは十分に信頼できないし、良いお方ではなく、誠実ではなく、助けられるほど十分に強くないからです。』と言っているのです。」
非常に辛辣ではありますが、思い煩いが不信仰そのものであることを教えられます。私たちが神様に愛され養われてことに目が開かれ、信仰を働かせるところに思い煩いからの解放の道があります。思い煩いを捨て去り、私たちを愛して下さる天の父なる神様に信頼して歩みましょう。
3.神の国と神の義を第一にする生き方
ここまで学んできましたが、誤解のないように確認しておきたいことがあります。それは私たちの生活の苦労や必要は、神様もよくご存知でいらっしゃるということです。「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます」(31,32節)。「苦労はその日その日に十分あります」(34節)。
そのうえで、「思い煩い」を捨て空っぽになった心には、新しいふさわしい生き方があるとイエス様は言われます。それは「神の国と神の義を第一にする」生き方です。
「神の国」とは「神の支配」ということです。王である神様が常に一番とされ崇められることです。そしてそれは「神の国はあなたがたの只中にあるのです」と言われているように、私たちの内に実現することが必要です。神の支配か、この世の価値観の支配か。私たちはいつも問われています。
「神の義」とは、実は解釈にいくつかの議論がありますが、神様のみこころ、神のよしとなさる正しいあり方、ということが出来るでしょう。
神の国と神の義を第一にする、ということが、6章9節からの主の祈りに既にあらわされています、イエス様は「御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」と祈るようおっしゃいました。この姿勢を私たちは常に持つ必要があります。それは祈りにおいても、生活における優先順位においてもです。しかし私はそれを、「これとこれとこれをしていれば大丈夫」といった外面的なことにとどめるのは適切ではないように思わされます。
山上の説教は「心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」から始まりました。そのクライマックスにおけるこの「神の国と神の義を第一に」という教えもまた、心の貧しい、信仰の薄い自分を認める者に与えられたものです。自力でこれらの道を歩もうとするのでなく、神様に祈りを捧げ、何事もお委ねしつつ、へりくだってみこころに叶う歩みを選びとって行きましょう。
そのように歩む者にイエス様は「そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(33節)と約束して下さいました。神様の恵みと助けを信じる時、私たちには神の平安が訪れます。新年にも開かれたみことばをお読みして今日の学びを閉じたいと思います。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝もってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリピ4:6、7)。
<祈り>
天の父なる神様、御名をあがめます。この朝、思い煩いを捨て去り、信仰をもってあなたに祈り求める道を示して下さりありがとうございます。あなたが真実な愛の神であることを私は信じます。あなたのご配慮と養いに信頼します。何事もあなたにお祈りし、あなたの平安に包まれて歩みたいと願います。どうぞお守りください。そして神の国と神の義を第一に選びとる歩みをしていきたく願います。心の貧しい私の歩みがみこころに叶うものとなりますよう、どうぞお導き下さい。御名によってお祈りします。アーメン。