2024年2月4日(日)礼拝説教 マタイの福音書7章24-29節 「確かな人生の土台」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 小学校の運動会で組体操があります。皆で協力し合って、サボテンや三段ピラミッドなどの形を作ります。僕が通っていた中学校では運動会の時に、中学3年生の男子が組体操をしていました。その組体操の目玉は、50―60人くらいで作る五重塔でした。この五重塔を作る時に一番大切になる部分があります。それは、一番下の土台です。五重塔全体を支えるために体の大きな人が選ばれ土台となります。肩を組んで円を作り、その円の中にも隙間を埋めるように人が入り、土台を作り上げます。その人数は、30人くらいだったと記憶しています。土台の人の肩に2段目、2段目の人の肩に3段目と言うように乗って行きます。最終的には、1段目(土台)から立ち上がって一番上の5段目の人が立ち上がることになるので、その高さは、5m以上になっていたと思います。今では、危険という事で作らなくなっているかもしれません。何度も繰り返して練習しますが、一段目の土台が安定していないと崩れてしまう事になります。

 イエス様は、山の上で、たくさんのことを人々に話していました。礼拝のお話しでもそれを取り上げていました。どんなお話しだったか覚えていますか。イエス様は、人々に「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです(マタイ5:3)。」と語りました。そして、「あなたがたは地の塩です。あなたがたは世界の光です(マタイ5:13-14)」、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)。」と教えてくださいました。先週は、神の国と神の義を第一にすることを学びました。イエス様は、山の上で話したメッセージの締めくくりとして、これらの言葉を聞いてどのような態度を取るのか、建物を建てる人のたとえで教えてくださいました。

 「さあ、家を建てよう。まずは、しっかり穴を掘って、岩の上に土台を作ろう。大変だけど、重要な作業だから手を抜かずに作業に取りかかろう」と家を建て始める人がいます。この家は、頑丈な岩の上に建てられ、土台がしっかりしているので、嵐が来ても倒れることがありません。これは、イエス様の言葉を聞いて、その御言葉をしっかりと心に留めて、イエス様の言葉に従う人のことです。そのような人は、思いがけないことが起ったとしても慌てることなく、倒れることなく人生を進むことが出来ます。
 こんな人もいました。「さあ、家を建てよう。でも岩までは深いし、穴を掘るのは大変だから、ある程度掘ったら家を建て始めよう。」と適当に作業を始めてしまうのです。これは、砂を少し掘ってすぐに家を建ててしまうので土台がしっかりしていません。だから、嵐が来て、雨が降り水があふれ、強い風が吹くと家は倒れてしまいます。このような人は、いったいどんな人でしょうね。砂の上に家を建ててしまった人とは、イエス様の言葉を聞いて、受け入れることなく、信じない人のことです。そのような人は、思いがけないことが起った時、慌ててしまい、倒れてしまい、心にも力が出て来ないという事になってしまいます。

 さて、皆は、どのような人生を歩んでいきますか。皆の心の中にはしっかりとした土台があるでしょうか。僕たちが持つべき人生の土台は、イエス様の御言葉、聖書の御言葉です。僕たちは、イエス様の言葉にしっかりと耳をかたむけ、その御言葉を覚えて歩みましょう。聖書の御言葉は、いつも僕たちを励まします。
 僕は、子どものころ教会学校で暗唱した御言葉の中で今でも忘れないものがあります。その中の一つにイザヤ書41章10節の御言葉があります。「恐れるな、わたしはあなたとともにいる。たじろぐな、わたしがあなたの神だから。」その当時僕は、この御言葉を何度も繰り返して口ずさみました。今でも時々思い起こします。すると神様が、いつも一緒にいてくれて助け、励まし、支えてくださると信じることが出来ます。イエス様は、みんな一人ひとりに最も必要で大切な言葉をかけてくださいます。イエス様は、僕たちが幸な日々を送ることが出来るようにいつも声をかけてくださいます。イエス様の教えてくださる言葉を覚え、従って歩む時、イエス様は素晴らしい祝福と恵みで満たしてくださいます。そして僕たちがイエス様の言葉を心に刻み込むことで、僕たちはどんなことがあっても揺るがない心、確かな人生を送ることが出来ます。イエス様を信じて、イエス様の言葉に聞き従いましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が、聖書の御言葉を通していつも教えてくださることを感謝致します。僕たちは、イエス様の言葉に聞き従って歩みます。イエス様、どうか僕たちを支え導いてください。寒い日が続きますので、子どもたち一人ひとりの健康を支えてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「ですから、わたしのこれらの言葉を聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」  マタイの福音書7章24節

<適用>
 私たちが住んでいる地域では、時々防災無線を使って様々な情報が伝えられます。毎日夕方の決まった時間になると「良い子の皆さんは、家に帰りましょう」と言う放送が流れます。2月からは4時30分になりました。そのほかに火災の連絡や尋ね人のこと、詐欺だと思われるような電話があるなど様々なことが放送されます。そのような放送を聞いた時、聞いた人たちは、色々な反応をすると思います。皆さんは、どのような反応をしていることが多いでしょうか。夕方に「家に帰りましょう」と言う放送を聞いて、放送の通りに帰る子どももいれば、放送を無視して遊び続ける子どももいることでしょう。「詐欺の電話には気を付けましょう」と聞いて、そうだ気を付けようと心に留める人もいれば、自分のところにはかかってこないと気にかけない人もいるでしょう。
 何かが語られた時には、その言葉に対する聞き手の反応があるものです。イエス様は、山の上でのメッセージを終わるにあたって、聞き手が様々な反応をすることをご存じで、群衆に忠告を与えるために一つのたとえを話されました。ご一緒に見てきましょう。

Ⅰ;御言葉を聞くこと

 確かな人生の土台は、聖書の御言葉を聞くことから始まります。実は、この御言葉を聞くということは、聖書を開くすべての人に共通していることです。教会に通い始めた人も信仰を持って間もない人も信仰暦の長い人も、年齢も人生経験もまったく関係なく、神様の御言葉を読むこと、メッセージを聞くということは共通して通る事柄です。誰もが聖書を開き読むことが出来、神様の御言葉を聞くことが出来るからです。私たちは、御言葉を通して神様を知り、神様の与えてくださる救いを知り、イエス様の贖いを知りました。また、御言葉を通して、神様が何を求めておられるのかを知り、私たちがどのように生きるべきなのかを学ぶことが出来ます。
 これらのことは、誰でも出来ることです。でもイエス様は、次の段階があることを教えておられます。それは、聞き方です。「聞く」ということには、それに答えるということが含まれています。自分の名前が呼ばれているのを聞けば、それに答えて返事をします。学ぶこともそうです。それを適用することが求められるのです。

 御言葉を聞くことは共通のことですが、御言葉に対する態度は人によって違います。イエス様は、御言葉を聞いたなら、心から応答し、実行することを求められました。イエス様は、そのことを一つの例えで説明されました。御言葉を聞いて、それを行う人は、岩の上に家を建てた賢い人のようです。地面を掘って土台をつくることは重労働ですが、しっかりとした土台の上に建てられた家は頑丈です。
 御言葉を聞いてそれを行わない人は、砂の上に家を建てた愚かな人のようです。重労働を避け、土台を作らないで、地面に直接家を建てる人です。そのような土台のない家は、非常に弱いので嵐が来ると倒れてしまいます。

 イエス様は、私たちに「あなたの人生の土台は何ですか?岩ですか?砂ですか?」と問いかけておられるのです。岩の上に建てた家と砂の上に建てた家は、見た目は同じと理解して良いでしょう。どちらも丁寧に組み立てられ、外見上は立派に見えます。しかし見えないところで違いがあります。それは、土台が何かです。
 私たちの人生も同じです。人はみなそれぞれ人生設計を持っていて、将来の計画を立てて生きています。私たちは、自分の人生をしっかり歩んでいきたいと願います。時には周りが良く見えて、あの人は立派なだなぁと思ったり、自分の周りの人たちが成功しているように見えて羨ましいと感じることもあるでしょう。しかし必ず違いが明らかになる時が来ます。それは、試練の時、人生の嵐を経験するような時です。そのような時、私たちの心の支え、私たちの人生を確かな道へと導くものを持っているのか持っていないかで私たちの人生は180度違てってきます。
 私たちは、聖書を通して神様の御言葉を聞きます。では、どのような聞き方、どのような反応をしているのでしょうか。

Ⅱ;信仰をもって御言葉に応答する

 確かな人生の土台とは、信仰をもって御言葉に応答することです。「岩の上に家を建てる」とは、聖書の御言葉を聞いて、それを実行すると言うことです。その人の心が、御言葉に開かれ、聞いた御言葉を自分の生活に適応することを心がけ、祈り、黙想し、主を礼拝する人が、岩の上に家を建てた人と言われているのです。そのような人の人生は、頑丈なものとなります。

 「砂の上に家を建てる」とは、御言葉を聞いてもそれを実行しないことです。そのような人は、聖書を読んでもその言葉を心に留めようとはしません。聖書の言葉が、自分の生活と直結していることを忘れているのです。そのような人生は実にもろくなってしまいます。
 聖書の言葉は、私たちの生活の中で適応することが出来ますし、私たちの日常で、実践することが出来るのです。ですから私たちは、御言葉を聞く時、では自分はどんな考え方をして、何を悔い改めるべきかを考えることが大切です。そして、私たちは御言葉を聞いた時、自分は何に気をつけるべきで、どのように生きるべきなのかと思い巡らすことが必要になるのです。私たちは、御言葉を読んだり、聞いたりする時、どんな人生を送り、どのように実行するかを問われているのです。

 私は、子どもころ良く父親に叱られていました。と言うことは、父親が注意する言葉、何が問題で直すべきなのかを聞いていたはずなのです。けれども私は、繰り返し同じような注意を受け叱られていたと思います。例えば、「遊びに行ったら、〇時には帰ってきなさい」と言われても、それを忘れて遊んでしまい帰宅が遅くなることが多々ありました。兄弟げんかを注意されても、すぐに頭に血が上ってつい喧嘩をしてしまう等などです。これは、親の言葉を聞いてもそれを心に留めず、なかなか従わなかったということです。その結果、同じ失敗をして叱られ続けることとなります。まさに砂の上に家を建てた愚かな人のような状態です。親の言葉を心に刻み、同じ失敗をしないと心に決め、注意深くするならば、同じ過ちを繰り返すことはなく過ごすことが出来でしょう。

 では、私たちは、聖書を通して語られる神様の御言葉に対してどのような態度を取るのでしょうか。その態度が、私たちの人生を方向付けることとなります。土台をしっかりと作った家は、洪水があっても倒れません。でも土台を作らなかった家は、洪水があると地面と一緒に流され、つぶれてしまいます。
 私たちの人生は、見た目にはどこに違いがあるのか分かりません。人と比較してしまうと、周囲の人との違いが目に付くかもしれません。私たちが、「あの人は人生を楽しそうに歩んでいるな」と思っていても、その人は、また別な人のことを羨ましく思っているかもしれないのです。ですから私たちは、見た目の違いではなく、見えないところの違いに目を向けるべきです。その違いは繰り返しになりますが、何を人生の土台としているのかです。
 聖書の御言葉は、いつでも、どんなことが起きても私たちの人生を支えてくれます。私は、時々子どもころに覚えたイザヤ書41章10節「わたしは、あなたとともにいる。わたしがあなたが神だから」という神様の語り掛けを思い出します。すると私は、神様からの愛のメッセージを心に受け、力づけられ、心に励ましを受けるのです。神様の御言葉は、私たちの確かな人生の土台です。

 では、御言葉を聞いて、実行するということはどういうことなのでしょうか。それは、聖書の御言葉を私への神様からの語りかけとして耳を傾けるということです。そして、神様の教えてくださった御言葉に従って実践するということなのです。私たちは、山上の説教を学んできましたが、イエス様は「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われました。私たちは、それを実行することが求められています。イエス様は、「あなたがたは地の塩、世界の光」だと言われました。私たちは、イエス様によって地の塩となり世の光として輝くことが出来ると信じ、イエス様を信頼して歩むことが大切です。このように私たちは、一つでも御言葉を実践することを始めましょう。
 すると、そこには神様からの大きな祝福が注がれます。この約束も私たちは御言葉から聞きました。マタイ6章33節です。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」という約束です。私たちが、御言葉に聞き、それを心に留め、信じて従うならば、神様は私たちに必要なすべてを与えてくださるのですこのことを信じる人の人生は、揺り動かされない、確かな人生の土台を持ち倒れることなく歩むことが出来るのです。
 私たちは、今から、確かな人生の土台の上に人生を建て上げることが出来ます。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、御言葉を聞いてそれを実践し確かな人生の土台をもって歩みます。神様、私たちが御言葉を実践し従うことが出来るように力をお与えください。私たちは、神様の御言葉によって励まされ、力づけられ、人生の進むべき道を示していただけることを感謝致します。
 神様、一人ひとりの人生の必要を満たし、その歩みを確かなものとして導いてください。私たちの家族が、友だちがイエス様を信じることが出来るように導いてください。私たちが、主なる神様を力強く証しすることが出来るようにも導いてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」