2024年3月10日(日) マタイの福音書26章36-46節 「目を覚まして祈り続ける」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 皆は、普段神様にどんなことをお祈りしているでしょうか。と言うか、お祈りしていますか。僕たちは、どんなことでもお祈りすることが出来ます。神様は、僕たちのお祈りを喜んできてくださいます。だから、いつでもどんなことでもお祈りしましょう。
 イエス様は、いつもお祈りしながら生活していました。またお祈りしがら夜を過ごしたこともありました。父なる神様にお祈りすることは、イエス様にとって大切なことだったし、嬉しい時間でした。けれどもイエス様が最後の夜を過ごすゲツセマネの園での祈りは、嬉しい時間ではなく、とても苦しい時間となりました。
 イエス様は、弟子たちと最後の晩餐の時を過ごしました。その時にイエス様は、聖餐式を定めたということを先週学びました。その後イエス様は弟子たちと一緒にゲツセマネと言う場所に行きました。その時、イエス様たちは「賛美の歌を歌ってから」出発したのです。どんな賛美をしたのでしょうか。「イエス様の歌声を聞いてみたいなぁ」と考えてしまいますね。

さてイエス様が向かったゲツセマネの園にはオリーブの木があり、オリーブ油を絞る場所でした。おそらくイエス様は、エルサレムに来た時には、よくそこに行って祈っていた場所でした。ゲツセマネに到着してイエス様は、弟子たちに「ここに座っていない」と言われ、ペテロとヤコブとヨハネを連れて少し進まれました。するとイエス様の様子が急に変わりました。
 イエス様は、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」と言われるではありませんか。これは、「一緒に祈っていてほしい」というイエス様の願いです。3人の弟子たちは、死ぬほどに震え恐れるイエス様の姿を始めてみました。これは大変なことになると思ったでしょうね。

 イエス様は、3人からも少し離れた所にひざまずいて祈ります。「わが父よ。できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」これは、「父なる神様、人類の罪が赦され救われるためには、どうしてもあの恐ろしい十字架にかかる必要があるのでしょうか。他にもっと別な方法はないのでしょうか。」というイエス様の素直な気持ちです。
 でもイエス様の祈りは続きます。「しかし、わたしの望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」これは、「父なる神様、十字架以外に人類を罪から救う道はないのですね。それは分かっています。その神様の願いの通りになさってください。わたしは、それに従います。」という決意の告白であり、祈りです。

 イエス様は、子なる神様であり、人類を罪から救うために来られた救い主です。イエス様は、ご自分が十字架につけられることを弟子たちに予告もしていました。だからと言ってイエス様は、当然のように、恐れずに十字架に進んで行かれたのではありません。イエス様は、神様であると同時に完全な人間でした。ですからイエス様は、人間として十字架の恐怖に押しつぶされそうになっていたのです。それだけではなく、全ての人の(もちろん僕たちの)罪の代わりに神様の裁きを受けるのです。それが十字架でした。イエス様は、これから僕たちのために、苦しみを経験するのです。だからイエス様は、恐れ、震えながらお祈りをするのです。こうしてイエス様は、祈りによって父なる神様の御心に従い十字架に進んでいく力を与えられました。

 けれども、ペテロたちは、イエス様が苦しみの祈りをしている姿を見ていながら、「あー眠い、どーしても目を開けていることが出来ないや。」と目を閉じ、眠ってしまいました。イエス様に起こされた時のペテロは、気まずかったでしょうね。そんなことが3回もあって、弟子たちは、ずーっと眠ってしまったのです。
 その時です。「ゾロゾロ、ガヤガヤ」と夜の静けさを打ち破るように、武器を持った人たちがやって来ました。その先頭には弟子のひとり、イスカリオテのユダがいます。ユダは、イエス様が夜に祈る場所を知っていたので、イエス様を引き渡すために群衆を連れて来たのです。こうしてイエス様は捕らえられました。神様に祈って力をいただいたイエス様は、黙って十字架に進んでいかれます。でも祈れなかった弟子たちは、「ワ~。ひや~。」とイエス様を置いて一目散に逃げてしまいました。
 今日も、僕たちを罪から救うために十字架に進んで行かれたイエス様を見上げましょう。そして、僕たちは、誘惑に負けないように祈って神様に助けていただきましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が、僕たちのために十字架に進んでいかれたことを感謝します。イエス様、僕たちがいつも祈り、信仰をもって歩んでいけるように助け導いてください。イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。」

「それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。『わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。』」
                               マタイ26章39節

<適用>
 私は、両親が牧師であるクリスチャンホームで育ちました。ですから、聖書を通読すること、夜寝る前一日の感謝の祈りをするようにと教えられていました。これが私にとっては闘いの日々となりました。聖書を読んでいるとなぜか眠気が襲ってくるのです。目を閉じ祈っていると、祈りの姿勢のまま知らぬ間に寝ているのです。それほど長い祈りではないのですが、寝てしまうのです。どうせ寝てしまうなら、布団に横になって祈ろうと考えました。これは祈りになりませんでした。祈り終わらず、朝を迎えるのです。ですから、弟子たちの気持ちが痛いほど良く分かります。
 私たちは、眠ってしまった弟子たちに共感を覚えるのですが、イエス様の「目を覚まして祈っていなさい」との言葉をしっかりと心に刻み込んでまいりましょう。

Ⅰ;私たちに必要なこと

 私たちは、目を覚まして祈り続けましょう。イエス様は、このような祈りが私たちに必要なことをよくご存じでした。
 イエス様は、過ぎ越しの食事の後、弟子たちを伴いゲツセマネの園に行きました。すでにイスカリオテ・ユダは、イエス様を裏切るために行動を起こしています。イエス様は、ゲツセマネの園に着いた時、さらに3人の弟子(ペテロ、ヨハネ、ヤコブ)と一緒に進まれました。その時イエス様は、彼らの見ている前で「深く恐れ悶え始められ」たのです。ある聖書は、「心の深い悲しみ〈苦悩〉を示しはじめられ、深く打ち沈まれた(詳訳聖書)」と訳しています。弟子たちは、今までに見たことのないイエス様の姿に驚いたにちがいありません。そのイエス様の恐れは、「悲しみのあまり死ぬほど」の深い苦しみ悶えだったのです。そのためイエス様は、弟子たちに「ここにいて、わたしと一緒に目をさましていなさい。」と言われたのです。イエス様は、弟子たちに一緒に祈り、私を支えてほしいと願い、またこれから弟子たちの身に起こるだろう困難のためにも祈り備えるようにと言われたのです。

 そう言ってイエス様は、「石を投げて届くほどのところに行き(ルカ22:41)」一人で祈られました。この祈りは「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」で始まりました。イエス様の願いそれは、十字架を取り除いてほしいということでした。ある人は、イエス様はそれを承知していたのではないか、なぜイエス様はそんなに弱気なのかと思うかもしれません。確かにイエス様は、私たちの救いのために旧約の受難のしもべの預言を成就することを承知していたし、弟子たちにも十字架について予告していました。けれどもイエス様は、子なる神であると同時に完全な人間なのです。ですから肉体的精神的苦しみを思うと恐れるのは当然ではないでしょうか。

 イエス様がこれほどの苦しみを感じていた十字架刑とは、どんなものなのでしょうか。十字架刑は、ローマ帝国が奴隷や外国人、そしてローマ市民権を持っていない犯罪人に考えた最も残虐な処刑方法でした。両手両足を釘付けにされ、苦しみながら死を迎える処刑方法なのです。イエス様は、この想像を絶するほどの苦しみを通らなければなりません。それだけではなく、体中が切り裂かれる「鞭打ち」があり、「いばらの冠」という肉体的な痛み、そして人々の「あざけり、ののしり」という精神的な苦痛などがありました。それ以上にイエス様を苦しめたのは、罪人として神様の怒りの裁きを受けることでした。

「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔をそむけるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった(イザヤ53:3)。」

 イエス様の十字架は、神のひとり子であるイエス様が、神様から見捨てられるという霊的な痛み悲しみを意味しています。このような十字架を前にしてイエス様は、ご自分の全てを注ぎ出して苦しみ祈られたのです。
 そしてこの時イエス様だけではなく、目を覚まして祈ることは、弟子たちにとっても必要なことでした。イエス様は、すでに弟子たちが躓くことを予告しておられました。なんとペテロは、名指しで「あなたは三回わたしを知らないと言います」とまで言われてしまったのです。ペテロをはじめ弟子たちは、イエス様を否定し裏切ることなど絶対しないと思っていたと思います。しかし弟子たちは、自分たちを取り巻く状況で左右され、揺れ動きやすい、誘惑に弱い状態にありました。イエス様は、弟子たちがこれから経験する誘惑に打ち勝つために、目を覚まして祈ることが必要だと言われたのです。
 そして、このイエス様の言葉は、私たちも心に留めなければならない言葉です。私たちもまた、罪の誘惑に弱い者です。イエス様は、言われます。「誘惑に陥らないように、目を覚まししていのっていなさい。」と。

Ⅱ;御心を求める祈り

 私たちは、目を覚まして祈り続けましょう。それは、神様の御心を求めるために必要なことです。
 イエス様は、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください(39)」と全てを注ぎ出した後、すぐに「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」と祈りました。私は、これまでゲツセマネでのイエス様の祈りを、「御心を求めて祈られた」と表現をして来ました。けれども改めてイエス様の祈りの言葉を読み、学び、思い巡らしていた時、その表現が間違っていたことに教えられました。イエス様は、神様の御心を知らなかったのではありません。神様の御心を知り尽くしているからこそ、恐れ苦しみつつ祈るのです。イエス様が知っていた父なる神様の御心とは、イエス様が全人類の罪を背負い、十字架にかかり、裁かれるということです。イエス様は、ローマ政府が実施していた十字架刑を見ていたに違いありません。その十字架刑を自分が受けるのです。それを考えたら、イエス様は「悲しみのあまり死ぬほどだ」と言ってしまうほど感情が揺らいだのです。


 このようにイエス様は、祈りつつ「しかしあなた(父なる神様)が、望まれるままに、なさってください。」、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように(42)」と祈るのです。イエス様は、苦しみ悶えながら、父なる神様の御心に従い、進んでいく力を与えてくださいと祈っていたのです。
 皆さん、私たちは苦しみながら祈る時があります。時には、無力感に嘆きうなだれて祈ることもあるでしょう。そのような私たちの祈りは、「神様の御心が分からない」という苦しみ、悩みが伴うものです。イエス様は、父なる神様の十字架による救いという御心を十分理解しているからこそ、従うことが出来るようにと祈りの格闘をします。しかし私たちは、「神様の考えておられることが分からない、いったいこの先どのような人生を歩むのだろうか」という不安と恐れに支配され、悲しみもだえます。

 明日は、3月11日、東日本大震災から13年を迎えます。あの日、日本だけでなく世界中が目を疑うような被害を目の当たりにして大きな痛みと悲しみに包まれました。まだまだ東北は復興の途中にあります。そのような中、福島県双葉町で13年ぶりに郵便局が再開したという嬉しいニュースがありました。今年は、能登半島地震で始まりました。大きな被害が出ていて私たちは、どうしてこのような震災が続くのだろうかと考えてしまいます。それだけではありません。ロシアのウクライナへの軍事侵攻から2年が経過しても戦争が終わりません。イスラエルのガザへの武力行使も続いています。私たちは、このような状況をどのように受け止めたらよいのか迷いながら祈り続けています。私たちの祈りは、それだけではありません。私たちは、自分の人生についても様々な事柄の中で悶々として祈ります。誘惑に心が揺さぶられ、信仰が弱ってしまうこともないわけではありません。

 私は、「目を覚まして祈っていなさい」というイエス様の言葉には、神様の御心を私たちがしっかりと知り、従って歩むことが出来るために必要だからという語りかけがあると感じます。私たちは、神様の導きが分からないと嘆くのではなく、自分の信仰が弱いからだと諦めるのではなく、「神様、御心を教えてください。主の道を歩むことが出来るように力を与え、信仰を増し加えてください。」と、目を覚まして祈り続けましょう。

Ⅲ;チャレンジの祈り

 私たちは、目を覚まして祈り続けましょう。この祈りは、イエス様から私たちへのチャレンジです。
 「目を覚ましていなさい。」という言葉は「油断せず注意していなさい。」という意味があります。そして「祈っていなさい」には「祈り続けなさい」という意味があります。弟子たちは、すぐ目の前に迫っている大きな試練のために祈り備えることが求められていました。しかし弟子たちは、祈ることが出来ず、眠り込んでしまっていたのです。

 イエス様の側に呼ばれた3人の弟子たちは、以前は一晩中不眠不休で働いていた漁師でした。彼らは、一晩中働き、朝方には疲れた体を引きずって網を繕い次の仕事に備えることが出来たのです。しかしこのゲツセマネでは、起きていられないのです。弟子たちは、「祈り」をそれほど重要視していなかったのではないでしょうか。弟子たちは、心のどかで、別に祈らなくても大丈夫と考えたのかもしれません。それがまさに誘惑だったのです。

 この時、3人の弟子たちが求められたことは、そのまま私たちへの勧め(チャレンジ)となっています。私たちは、好きなこと、興味のあることには、何時間でも集中するでしょう。そしてその時の1時間はあっという間に過ぎていきます。では、御言葉を読むことや祈ることについてはいかがでしょうか。イエス様は、弟子たちに油断せず注意していなさいと言われたのです。イエス様は、私たちにも、自分は大丈夫と油断しないで、しっかりと信仰をもって歩むために祈り続けるようにと言っておられるのです。私たちは、どのように答えるでしょうか。
 私たちは、誘惑に陥らないように、御心を知り従い続けることが出来るように、心の目を覚まして祈り続けましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が言われるように、私たちは誘惑に陥らないように、目を覚まして祈り続けます。主よ、私たちの祈りを導いてください。
 神様、私たち一人一人が、どのように歩むべきか、神様ご自身の御心を教えてください。そして神様の御心に従い続けることが出来るように、私たちに力を与えてください。
 神様、日本を世界を憐れんでください。様々な災害で苦しみ助けを必要としている人たちに主の慰めと守りがありますように。世界各地で行われている紛争が終結し、地の上に平和が訪れますように主の御手を伸ばしてください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。」