2024年3月17日(日)礼拝説教 マタイの福音書26章57-68節 「罪のない神の御子」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 学校や家で何も悪いことをしていないのに、注意をされるという経験ありますか?僕は、小学生の時、学校の先生の言うことを聞かず、よく注意をされる生徒でした。だから、特に何もしていないのに、先生が何か注意をする時には、僕のほうを向くことが多かったように記憶しています。そんな時、僕は心の中で「えっ、今日はまだ何もしてないのに!」と思ったりしていました。
 さて先週は、イエス様がゲツセマネの園で祈られたこと、そしてイスカリオテのユダが連れてきた群衆に捕まったことを見ました。弟子たちは、一目散に逃げてしまいました。捕らえられたイエス様は、どうなったのでしょうか。

 イエス様は、大祭司カヤパという人の家に連れていかれました。そこに、律法学者たちやユダヤの長老たちが集まっていました。何のためでしょうか。彼らはイエス様を十字架につけるための裁判を行うために集まっていたのです。彼らは、正式な手続きをせず、真夜中のうちに裁判を行って、イエス様を死刑に定めようとしたのです。
 真夜中の裁判の時に、「イエスは、こんなことを言っていた」とか「イエスは、あんなことをしていた」と証言する人が現れたのですが、証拠を示すことが出来ませんでした。中には、「イエスは、エルサレムの神殿を壊して、3日で建て直すことが出来ると大嘘を言っていました。」と訴える人もいましたが、大きな問題になりません。イエス様には、罪はないから、誰もイエス様を罪に定めることが出来ないのです。イエス様は、うその証言が並べ立てられているのに、黙ってそれを聞いて、何もお答えにはなりませんでした。しびれを切らした大祭司が「あなたは神の子、キリストか」と聞きました。イエス様は、その言葉に「その通りです。」とお答えになりました。本当のことですから、そのように答えます。これが決定的なこととなりました。大祭司は、人間が自分のことを神の子、キリスト(救い主)と言うことは、神様への冒涜であり、決して赦されないと宣言しました。こうして真夜中のうちに彼らは、イエス様を十字架刑にすることを決めたのです。

 朝になって、彼らは当時ユダヤを治めていた総督ピラトに訴え出ました。今度は、ピラトが裁判をします。ピラトは、イエス様を取り調べますが、別に裁かれるような罪を見つけることが出来ません。祭司長たちは、その様子を見ながら「イエスは、これこれのことをして」とか「イエスは、自分を神の子と偽って人々をだましている」とか大声をあげています。イエス様は、それに対しては何もお答えにはなりません。
 どうすることもできないピラトは、「年に一度の過ぎ越しの祭りの時には、囚人の一人を釈放することにしているが、あなたがたは、誰を釈放してもらいたいのか、このイエスか?犯罪人のバラバか?選ぶがよい」と人々に問いかけました。ピラトは、イエス様を調べてみて、イエス様には罪がないことが分かっていたので、何とかイエス様を釈放しようとしたのです。けれども祭司長たちは群衆を説得して、「釈放するのはバラバだ」と言わせて、「イエスは十字架につけろ」と大騒ぎを起こさせました。ピラトは、「それはどうことだ。イエスは、十字架刑にするほどの罪を犯してはいないぞ」と主張しますが、群衆は「イエスは十字架だ!十字架につけろ!」とさらにヒートアップしていきます。とうとうピラトは、群衆の声に負けてしまい、イエス様を十字架につけるために鞭で打って祭司長たちに引き渡してしまいます。

 皆さん、イエス様は神様の前に罪を犯してはいません。もちろん犯罪となるよう事もしていません。イエス様は、十字架刑にされることは何もしていないのです。けれどもイエス様を十字架につけることは神様のお考えでした。神様は、罪のないイエス様を僕たちのために罪ありとしました。神様に対して罪を犯しているのは僕たちのほうです。でもイエス様は、僕たちの罪をすべて背負って、僕たちの代わりに神様の裁きである十字架に進んでいかれました。救い主イエス様を信じて、罪の赦しを与えていただきましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、罪を犯したことがないのに、僕たちのために十字架に進まれました。それは、僕たちの罪が赦されるために必要なことでした。イエス様の救いを感謝します。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」   コリント人への手紙第二 5章21節

<適用>
 イエス様は、最後の晩餐をした家から、ゲツセマネの園に向かう時に最短の距離を移動したと思われます。そう考えるとイエス様一行は、大祭司カヤパの家のすぐ目の前の階段を使ったのではないでしょうか。そして、ゲツセマネの園で捕らえられたイエス様は、同じ道を通って大司祭の家に連れて来られたことになります。週報の写真は、イエス様が使ったとされる2000年以上前の階段です。
 そして大祭司カヤパの家には、囚人を留置しておく地下牢があるので、イエス様は真夜中の裁判の後、この地下牢に縛られたと思われます。

Ⅰ;真夜中の裁判でも

 大祭司カヤパの家で行われた真夜中の裁判でも、イエス様が罪のない神の御子であることこが明らかになりました。
 イスカリオテのユダがイエス様を裏切り、イエス様を銀貨30枚で売り渡したことで、祭司長たちはユダヤの最高法院(最高議会)を招集していました。ですからイエス様が、捕らえられた時には最高法院が大祭司カヤパの家に集まっていたのです。それは、すぐにでもイエス様の裁判を行うためです。通常の裁判は、昼間行います。けれどもユダヤ人たちは、イエス様を捕えて裁判を行いました。こうして大祭司の家では、真夜中にもかかわらず、大祭司による尋問(不当な裁判)が始まりました。
 皆さん、そこに集まっていた最高法院のメンバーは、ユダヤの律法学者、祭司長、長老たちです。という事は、旧約の律法を守らなければならない代表者たちの集まりです。神様は、モーセを通して与えた十戒の中で「偽りの証言をしてはならない(出エジプト20:16)」と命じています。最高法院は、この十戒を守り行うはずです。しかし彼らはその戒めを公然と破り、偽証人を立てるのです(マタイ26:60)。しかもすでに判決は決まっていたのです。彼らは、イエス様を死刑にするためには、嘘でも何でもいいので証拠が必要だったのです。

 しかし彼らは、イエス様について知らなかったわけではありません。イエス様は、数多くの事を話されました。そのメッセージを祭司長や律法学者たちは聞いていました。ルカの福音書4章16-21節では、イエス様が故郷のナザレの会堂に行かれた時のことが書かれてあります。安息日に会堂でイザヤ書のメシア預言が読まれた時、イエス様は、「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」という素晴らしい宣言をしてくださいました。人々は、救い主預言の成就という喜ばしい宣言を聞いていました。それだけではなく、人々はイエス様が、罪に捕らわれている人を解放し、病をいやし、数多くの奇跡を行い、恵みを告げしらせる方であることを聞いていたし、目撃していました。
 祭司長たちは、エルサレムから人々を派遣し、イエス様を試したり、質問したりしてイエス様がどういう人物であるかを調査していました。旧約聖書に精通している律法学者をはじめ祭司長たちならば、調査した結果に基づいて考えれば、イエス様が旧約聖書で預言されていた救い主・キリストであると証言することが出来たはずです。けれども彼らの心は閉ざされていて、イエス様を救い主と認める事をしませんでした。

 真夜中の不当な裁判の中で、はっきりしたことは、イエス様について罪を見出すことは出来なかったということです。イエス様は、不利な証言がされている間、何もお答えになりませんでしたが、「あなたは神の子キリストか」という大祭司の質問に対して「その通りだ」とお答えになりました。イエス様は、神の子です。神であるお方が人間となってこの地上に来られたのですから。けれども大祭司は、イエス様を救い主と認めることが出来ず、「神への冒瀆罪」で死刑に当ると判断を下しました。こうしてイエス様は、地下牢に留置されることとなりました。イエス様への侮辱的な行為(唾をかけ、拳で殴ったりする行為)が行われたのは、この地下牢だったのではないでしょうか。イザヤが預言したように、イエス様は黙って口を開かず、罪のない神の御子として十字架に進んでいかれました。

Ⅱ;ペテロの否定

 罪のない神の御子イエス様が、真夜中の裁判を受けていた時、ペテロは大祭司の家の中庭に来ていました。イエス様がゲツセマネの園で捕まった時、逃げていった弟子たちでしたが、ペテロは後から、ちょっと距離をとってイエス様を追いかけます。「私は躓かないし、イエス様を知らないとは決して言わない」と大見得を切ったペテロ、12弟子の筆頭という自覚からでしょうか、イエス様の後をついていくのです。
 ペテロは、自分がイエス様の弟子だとはバレないという自信があったのでしょうか。顔を隠していても、火明かりの中で顔は分かるし、言葉の訛りでもどこの人か分かってしまいます。しかもペテロは、いつもイエス様と一緒にいて人々に顔は知られています。

 召使が近寄ってきて「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」と突然質問してきたのです。この不意の問いかけにペテロは、「何を言っているのか私にはわからない(マタイ26:70)」と答えます。彼は、無意識のうちに自己弁護してしまったのではないでしょうか。ペテロは、イエス様を否定しました。一度言ってしまうとあとは、坂を転げ落ちるようにペテロの心からイエス様が締め出されていきます。門の入り口まで移動したペテロでしたが、そこでもまた嫌疑がかけられました。するとペテロは、「そんな人は知らない(72)」と答えます。ペテロはすぐに大祭司の家を出てしまえばよかったのですが、彼はその場にい続けました。すると「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる(73)」と言われてしまいました。方言を指摘されたらごまかすことは出来ません。一気にまわりの人の目が、ペテロに集中されました。万事休すです。その時ペテロは、「嘘ならのろわれてもよいと誓い始め『そんな人は知らない』」と言ってしまいました。その時、鶏が鳴きました。
 ペテロがイエス様を否定した家、真夜中にイエス様への不当な裁判が行われた家(大祭司の家)は、現在「鶏鳴(けいめい)教会」と呼ばれています。聖地旅行に行った時、確かに鶏鳴教会の周辺では、鶏が良く鳴いていました。鶏の声を聞いた時、ペテロは、我に返り自分が何をしてしまったのかに気づくのです。そして外に出て激しく鳴きました。

 大祭司カヤパの家では、嘘の証言がされ、どんなことでも良いからイエスを罪に定めたいと策略がめぐらされていました。けれども結果は、イエス様が罪のない神の御子であることが分かったのです。
 しかしその場で、ペテロはイエス様を知らないと宣言し、イエス様を裏切ってしまうのです。彼は、罪の誘惑に負けしていまい、大失敗をしてしまうのです。先ども言ったようにペテロは、無意識のうちに「知らない」と言ってしまったのでしょう。それほどペテロの心は、弱く、揺れ動きやすく、惑わされやすかったということです。
 これは、ペテロに限ったことではありません。ほかの弟子たちもそうですし、私たちもまた、信仰が弱く、惑わされやすく、罪の誘惑に翻弄されてしまう者です。私たちは、クリスチャンとして歩んでいても、サタンの誘惑の中で右往左往してしまい、心が揺れ動くことが多く、主なる神様をまっすぐに見上げることが出来なくなってしまう者です。
 だからこそ、罪のない神の御子イエス様の救いが必要なのです。

Ⅲ;ピラトの取り調べでも

 イエス様は、罪のない神の御子です。ピラトの取り調べでもそれは明らかになりました。
 ユダヤの最高議会は、夜が明けてすぐにイエス様を総督ピラトに訴えました。それは、イエス様を死刑(十字架刑)にする最終的な公の判決を出してもらうためです。私たちは、毎週使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け・・・」と告白します。そのピラトです。当時ユダヤ人たちは、ローマの支配下に置かれ、その地域を治める総督が立てられていました。ピラトは、ローマ政府によってユダヤ州の総督として任命を受けていました。
 ピラトは、ユダヤ人指導者たちが妬みからイエス様を訴えていることに気づいていました(マタイ27:18)。また、ピラトは、ユダヤ人たちが訴えているような罪は、イエス様にはないことも分かっていました。ピラトは、この裁判の中で何度もイエス様の無罪を主張しているのです。

 ルカの福音書23章を見ていましょう。ルカ23章4節「この人には、訴える理由が何も見つからない。」、ルカ23章14-15節「おまえたちはこの人を、民衆を惑わす者として私のところに連れて来た。私がおまえたちの前で取り調べたところ、おまえたちが訴えているような罪は何も見つからなかった。ヘロデも同様だった。…。見なさい。この人は死に値することを何もしていない。」(ルカ23:22参照)
 しかし、祭司長や長老たちは、群衆を扇動してイエス様を十字架にかけるように騒ぎ立てました。一度火がついてしまうと止め得ようがないのが群集心理です。「イエスを十字架に」という声は、どんどん大きくなって行き、その群衆の声が勝ちました。こうして罪のない神の御子イエス様は、十字架へと進むのです。

 それは、何のためでしょうか。誰のためでしょうか。イエス様は、神の子救い主として人として地上に来られました。人間イエス様は、神様の前に罪のない、完全に正しい、聖い生涯を送りました。そのイエス様が罪ありとされ、十字架に進んでいかれるのです。それは私たちの罪のためです。イエス様は、完全に正しく罪がないから、私たち一人一人の罪の身代わりになることが出来るのです。神様は、神様に背を向け、神様を無視し、自分勝手に生きている私たちをさばくのではなく、罪のないイエス様を代わりにさばいてくださったのです。その結果、私たちは罪に対する滅びではなく、信仰による罪の赦しと救い、永遠のいのちを与えていただくことが出来るのです。

一緒に今週の聖句を読みましょう。
「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」コリント人への手紙第二 5章21節

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。罪のない神の御子イエス様は、私たちの罪を背負い十字架に進んでいかれました。人々が騒ぎ立てても、どんな不利な訴えがなされても、打たれ、ののしられても、イエス様は黙ってそれをお受けになりました。それは、私たちが罪ありと裁かれるのではなく、私たちが罪なしと救いを受けるためです。
 私たちは、十字架に進まれたイエス様を見上げて歩みます。イエス様の十字架の救いを心から感謝致します。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」