2024年3月24日(日)礼拝説教 マタイの福音書27章27-44節 「救いは十字架のイエスに」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 皆さん、そろそろ春休みに入りますね。この1年神様が守って下さったことを感謝しましょう。さて、今週は受難週と言って、イエス様の苦しみと十字架の死を覚える週です。先週学んだように、不正な裁判で死刑が決まったイエス様でした。十字架に架かられた時のお話を、一緒に学んで行きましょう。

 「はあ、はあ」。イエス様が息を切らしておられます。ボロボロのお姿です。死刑が決まったイエス様は、背中と体中にムチを打たれて既に血だらけでした。ローマ兵たちが集まって来て、意地悪く言いました。「こいつに王様の服を着せてからかおうぜ!」兵士たちはイエス様に赤いマントを着せ、いばらでかんむりを作って、頭にギューッと押し付けました。手にはアシと言う植物の棒を持たせて、その前にひざまずき言いました。「ユダヤ人の王様ばんざい!」。なんてひどいことをするのでしょうか。
 さんざんイエス様をあざ笑った後、兵士たちはイエス様のマントを脱がせて、刑場へと引き出しました。イエス様は、死刑に使う重たい十字架を運ばなくてはなりません。しかし既に体力の限界だったのでしょうか、イエス様は倒れてしまい、近くにいたシモンという人が十字架を運ばされました。

 死刑が執行されるのは、ここゴルゴタの丘です。イエス様は手と足を釘で打たれて十字架につけられました。両脇には強盗も十字架につけられています。何の罪も犯さなかったイエス様が、犯罪人と一緒に死刑にされています。見ていた人たちはひどい言葉を叫びます。「おい、お前が神の子なら、十字架から降りてこい!」イエス様はそれでも自分のために奇跡を起こしたりされませんでした。何故でしょうか?それは、ご自分が父なる神様の罰を引き受けることで、罪人を救う道を開くためでした。
 朝9時に十字架につけられたイエス様でしたが、次々と不思議なことが起こりました。12時~午後3時まで、あたりが真っ暗闇になりました。そしてイエス様は「私の神よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と大声で叫びました。そしてまもなくイエス様は息を引き取りました。

 するとどうでしょう。神殿の一番聖なる場所にかけられていた幕が、上から下まで真っ二つに裂けました。大地震が起きて岩が避けました。この出来事を見ていたローマの百人隊長たちは、恐れて言いました。「この方は本当に神の子だった」。亡くなったイエス様のお体は、弟子たちが引き取り、きれいな布に包んで新しいお墓に納められました。
 皆さん、私たちの主イエス様は、このように死刑にされました。それは、罪人の身代わりの死でした。どんな罪人であっても滅びから救うことを神様が望んでおられるからです。今日のみことばを一緒に読みましょう。皆さん、イエス様の十字架は私のためだ、と今日信じましょう。そうすればイエス様が成し遂げて下さった、罪の赦しと救いを受けることが出来ます。私たちも神様の子どもにしていただけるのです。

<祈り>
「神様。イエス様が、私の罪を赦すために代わりに十字架にかかって下さったことを信じます。私の罪を赦し、神様の子どもにして下さい。御名によって祈ります。アーメン。」

「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」
                          ローマ人への手紙5章8節

<適用>
 小川教会の屋根の上には、十字架が立てられています。皆さん、注目してご覧になったことがあるでしょうか?何色だったか覚えていますか?私の目には白に見えました。他には赤の十字架や、夜に光る十字架を建てている教会もあります。金属のこともあります。世界中の教会のシンボルとして、屋根に、玄関に、講壇に、十字架は用いられています。何故十字架はキリスト教会のシンボルなのでしょうか?それは十字架こそが、イエスの贖いの死を指し示すものだからです。今日私たちは、イエス様の十字架を心の目で見上げたいと願います。私たち自身の救いが、この十字架に死なれたイエス様にかかっているからです。

1.受難のメシアであるイエス

 第一に覚えたいのは、イエス様は預言された受難のメシアとしてその苦しみを受けられたということです。
 先週学んだ通り、ゲッセマネの園で捕らえられたイエス様は不正な裁判を受けました。まずはユダヤ人たちの間で、そして、ローマ総督ピラトの元で裁判がなされ、十字架刑が決定したのでした。
 十字架までの間にイエス様が直面なさった苦しみを少したどりたいと思います。まずユダヤの最高議会で何があったかを見ましょう。マタイ26章67節を見ると、ユダヤ人たちはイエス様の顔につばをかけ、こぶしで殴り、平手で打つという暴行を働きました。またルカ22章63節を見るとイエス様はむちで打たれました。ユダヤにおけるむち打ちは、39回までとされていましたから、恐らく死刑囚として上限いっぱいの回数打たれたことでしょう。ユダヤ人社会でもっとも苦しい刑罰を、この時点でイエス様は受けておられたのです。

 ローマ側のピラトの裁判ではどうだったでしょうか。今日お読みいただいた27章27節の前、26節にはこうあります。「そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。」そうです、死刑執行前にイエス様はまたしてもむち打ちにあっているのです。ローマのむちはユダヤのものより残虐なものでした。むちの先には動物の骨や金属の塊がつけてあり、振り下ろされる度に肉は裂け、血が飛び散り、背中は耕されるかのような悲惨な状況になります。時にそれは顔にも突き刺さり、家族であっても顔を見分けられないこともあったと言います。
 現代でもシンガポールにはむち打ち刑が存在しますが、成人男性は24回まで、少年は10回、女性と51歳以上には課すことが出来ないそうです。1回打たれるだけでも失神する受刑者もいるそうです。むちだけでもこれほどに恐ろしい苦しみがあります。それらは罪人である私たちにではなく、罪のない神の子イエス様の上になされました。これはたまたまではなく、旧約聖書に既に預言されていた救い主のお姿でした。

 今日の交読文であるイザヤ書53章を。見たいと思います。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために、刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された」(53:4-5)。
 救い主の打ち傷は、私たち罪人の咎のためであって、私たちが受けるべき痛みを担って下さるのだ、との預言です。まさにここに指し示されているのが、イエス様なのです。「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた(53:6)。私たちの咎を負わせる救い主を送り、私たちを罪と滅びから救おうとされた神様に感謝をお捧げしましょう。

2.自ら苦難を引き受けられたイエス

 2つ目に覚えたいのは、イエス様は自ら苦難を引き受けられた、ということです。むち打ちに続き、駐留する全ローマ軍からひどい侮辱をイエス様は受けました。一言で言うなら「王様ごっこ」です。貴人にとってはこうした侮辱はまさに「死んだ方がまし」と思えるような仕打ちです。彼らは散々からかったあげく、打ち傷に張り付くマントを引きはがしました。それは激痛をもたらしたでしょう。この時点でイエス様は既に、瀕死の状態だったと思われます。ですので、死刑囚が十字架を自分で運ぶべきところ、途中で倒れてしまわれたのでしょう。これでは日が暮れてしまう、ということで、兵士たちはそこに居合わせたクレネ人シモンに無理やり十字架を運ばせました。

 刑場であるゴルゴタの丘に到着した時の様子が34節に記されています。「彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。」このぶどう酒は、一種の鎮痛剤と言われています。死刑囚の苦痛を和らげるための温情だったのかもしれません。十字架刑は、ローマの刑罰の中でも最も残酷なものであり、両手首と両足首が太い釘で十字架に打ちつけられました。その苦痛ははかりしれません。しかしイエス様はそれを飲みませんでした。何故でしょうか?それは、イエス様はこの苦しみの盃は父なる神から賜ったものと捉えておられたからです。そしてそれを余すところなく引き受けようとなさいました。

 ゴルゴタの丘にはイエス様の両脇に強盗たち、3基の十字架が立てられました。取り囲むのは「通りすがりの人たち」と「祭司長、律法学者たち、長老たち」です。そこはイエス様の魂に誘惑をしかけ挑戦する場でしたすなわち「お前が神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」「今、十字架から降りてもらおう。…神のお気に入りなら今、救い出してもらえ。『私は神の子だ』と言っているのだから。」

 皆さん、これはあの荒野の誘惑でサタンが言った言葉を思い出させませんか。「あなたが神の子なら…せよ」、と自分のために神の力を使え、との誘惑と同じことなのです。もしこの挑発の通りに神の力をもって、イエス様が十字架を降りたならどうなったでしょうか?イエス様の勝利ですか?いいえ、神の救いのご計画は頓挫します。サタンの勝利になるのです。ですがイエス様は、荒野の誘惑の時と同様に、人の言葉を借りたサタンの声を退けられました。そして十字架の苦しみを進んで耐え忍ばれたのです。
 今日のみことばにある通り、罪を悔い改めることも知らぬ者を、神様は憐れんで下さいました。イエス様はありとあらゆる究極の苦しみを忍び通して下さいました。このような愛を私たちは他に知りません。人間には想像も出来ない愛です。私たちの救いのために犠牲となる、その道を自ら選び取って下さった救い主イエス様を信じ、そのご愛を受け取りましょう。

3.暗闇を打ち払うイエス

 最後に、イエス様はご自分が暗闇を通ることで私たちを覆う滅びの暗闇を打ち払って下さったことを見て参りましょう。
 イエス様が十字架につけられたのは朝9時頃であったことがマルコの福音書からわかります。12時になった時、異変が起こりました。「さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。」(マタイ27:45)とあります。この暗闇こそは、神の御子をこんなにも痛めつけ愚弄し、十字架に苦しめ尽くした人間の罪の暗闇を示しています。罪に対する神の怒りの盃、究極の裁きが、ゴルゴタの丘でただ一人の方に注がれているのです。それは神の怒りとさばきの恐ろしさ、人間の罪の暗闇の限りなさを表しているようです。

 イエス様は3時ごろ叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、すなわち「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との叫びでした。これは詩篇22篇のみことばでもあります。イエス様はこの時、全人類の罪に対する神の怒りを一身に引き受けられ、神との断絶を経験なさいました。常に「わが父」と呼んでおられたイエス様が、「わが神」と呼び変えておられます。怒る神、裁く神に見捨てられる立場を通られた叫びです。しかしこの断絶によって、私たちと神との和解、関係回復の扉が開かれたのです。

 それは、イエス様が息を引き取られた時に神殿の幕が真っ二つに裂けたことに表れています。神殿の至聖所には分厚い幕が引かれており、大祭司ですら年に1回しかそこに入ることが出来ませんでした。聖なる神に罪人は近づくことが出来なかったのです。しかし、神殿の幕は、上から裂けました。下から、人が裂いたのではないのです。神様の方からその隔ての幕を破って下さったということです。イエス様は、ご自身が神に捨てられる暗闇を通ることで、私たちを覆っている滅びの暗闇を打ち払って下さいました。イエス様は息を引き取られる前にいくつかの言葉を残されました。ヨハネの福音書にはこう書かれています。「完了した」(19:30)。そうです、救いのみわざは完了したのです。イエス様の十字架の死で、私たちを贖う代価は払われ尽くしたのです。私たちはどうしたら良いのでしょうか?この完了された救いのみわざを無駄にすることなく、私自身への救いの招きとして受け取ろうではありませんか。そしてイエス様への信仰を告白いたしましょう。

<祈り>
「天の父なる神様、イエス様の忍ばれた苦難の数々が、罪人である私の身代わりであったことを感謝いたします。罪の支払う報酬は死と滅びですが、あなたは罪人の滅びを喜ばず、救いの道を備えて下さいました。あなたの計り知れない愛を感謝します。あなたが下さった救いの道を受けさせて頂きたく、救い主におすがり致します。どうぞ世にある限りあなたの者としてお守りください。この恵みを人々に証する者とならせて下さい。御名によってお祈りいたします。アーメン。」